第10話:痛みの発生源
「位置について」
秋晴れの空の下、グラウンドに設置されたスピーカーから甲高い声が響き渡る。天桜学園、秋の体育祭。現在僕たちがスタンバイしているのは、午後のプログラムである男女混合障害物ペアリレー。
体育祭というイベントは生徒間の社会的影響力の比重が高く、学園内の序列が明らかになるため、カーストのトップティアに君臨する生徒たちにとって、この場で他を圧倒するパフォーマンスを示すことは自らの価値を証明することに繫がる。
「蓮、最初のネットくぐりは私の動きに合わせて」
隣で入念にストレッチをしながら凛が僕に指示を飛ばす。彼女の声色はいつも通りで、今日は何の変哲もない学園指定の体操着姿をしている。しかし、トップモデルとしてチューニングされた体幹とプロポーションは、その場に存在するだけで周囲の生徒たちの視線を勝手に吸い上げていく。
「了解した。君の動きをリアルタイムに解析し、100%シンクロしてみせよう」
◇◇◇
パン!
ピストルの発砲音がなった瞬間、僕と凛は同時に足を踏み出してグラウンドを駆け抜ける。僕たちのフィジカルは控えめに言って異常だった。
第1障害のネットエリア。他のペアが非効率的な動きで減速を余儀なくされる中、僕と凛は極限まで重心を落としたフォームを維持し、最小限の減速で通り抜ける。
第2障害は平均台。凛は光ファイバーの中を進むレーザー光のように1ミリのブレもなく細い直線を華麗にクリアし、僕は彼女の残した軌跡をなぞるように走破した。
「最上のやつ、運動部並に速いぞ!」
「凛ちゃんすごーい!」
「さすがは学園内一のバカップルだな!」
本部席のマイクで実況している人たちの音声データがグラウンド全域に広がっていく。僕たちの偽装交際は、全生徒の目の前で理論上の最大値を叩き出しつつあった。
第3障害は2人3脚。お互いの足首を専用バンドで固定し、30メートルを進むのみ。現在の順位は2位だが、トップとの差は0に等しい。僕たちの完全同期を持ってすれば大逆転の方程式は成り立つ。しかし、その方程式は突然のバグによって脆くも崩れ去った。
「あっ!?」
僕の右側にいた凛の体が突然大きく傾く。原因はグラウンドの土。いくつか前の競技によって小さく掘り返された窪みに凛の右足がつまづいてしまった。足が固定されている状況では自慢の体幹も役に立たず、ぐらりとバランスを崩す。
「凛!」
通常であればそのまま2人揃ってグラウンドに叩きつけられるところだったが、僕はとっさに彼女を抱き寄せ、僕の背中だけがグラウンドで激しいスライディングを実行した。
「……きゃ!……蓮!?」
僕の胸の中に収まっていた彼女へのダメージは0、のはずだった。凛は右足を庇うようにして僕の上から降り、即座にバンドを外す。凛は学園の女神を維持しているが、いつも隣にいる僕の視覚には痛みを我慢しているようにしか映らなかった。
「ごめん……、私の不注意で……」
「凛、動くな」
僕は背中の痛みなど忘れて即座に立ち上がり、彼女の右足首を確認する。
──ダメージは中程度の捻挫か。しかし1秒でも早く処置をしなければトップモデルとしての活動に支障をきたす。その損失は我が社の損失にも繫がりかねない。
僕は周囲をぐるっと見回す。グラウンドを囲む生徒たちの中には、スマートフォンをこちらに向ける生徒がちらほらと確認できた。体育祭でもスマートフォンを肌身離さず持っていること自体が非合理的だが、ハプニングをカメラに収めたいというのは人間の性なのだろう。
しかし向けられたカメラを確認した僕は、心の底から湧き上がる非論理的な衝動を隠蔽するための大義名分を構築。
「もっちゃん!凛ちゃん!大丈夫か!」
「2人とも!今救護班を……」
「2人ともそこで止まれ!僕の計算した最短ルートを邪魔するな!」
高橋と山内が急いで駆け寄ってきたが、僕は怒声を上げると同時に片膝をついて右足首を撫でている凛の背中と膝裏に両腕を滑り込ませた。
「凛、これから君を運ぶ」
「え……?ちょ……、蓮……!?」
僕は両腕で彼女の体をふわりとリフトアップした。
「な、何してるの!みんなが見てるって!?」
「黙っていろ、凛。これはビジネスだ」
「はあ?」
「説明する。僕がこのまま君を抱きかかえ、最高速度で保健室まで猛ダッシュするという、最大級の視覚的インパクトを市場に提供することによって、僕たちの関係は更に盤石となる」
僕は凛を抱えたまま、校舎の1階にある保健室へと最高速度で足を駆動させた。僕の全筋肉は彼女を迅速に保健室へ運ぶという目的のためだけにオーバークロックの限界に挑み、背中の痛みの優先度は最下層へと沈んでいた。
「最上が女神をお姫様抱っこで拉致したぞおおおおおおお!」
鼓膜を破壊しかねない全生徒の大歓声がグラウンドの中に積み上がっていく。しかし、僕には関係ない。腕の中にいる驚くほど柔らかい彼女の体の重みと、学園内において僕以外には決して見せない素顔だけが世界の全てだった。
「担架を待つ」という選択肢も存在していたが、誰か他の男が彼女の体に触れる可能性を僕のシステムが拒否した。この狂おしいほどの保護欲求と独占欲を正当化するために、僕はいつも通り「ビジネス」を持ち出して、滑稽なロジックをでっち上げたのだ。
◇◇◇
バン!
僕は保健室の引き戸を右足で強制的に開け、中に入る。幸いにも養護教諭は体育祭の対応で忙しいのか出払い、現在、保健室は僕と凛の2人だけのプライベートな空間となった。
「ベッドに降ろす」
僕は部屋の奥にあるベッドの白いシーツの上に彼女の体をできるだけ優しく、できるだけゆっくりと降ろした。そして即座に保健室の引き戸を閉めに戻り、窓のブラインドを下げ、冷却スプレーを手にする。そしてそのまま彼女のそばに戻ってベッドの周囲にある医療用カーテンを広げた。これによって外部からの視線は完全に遮断。
「凛、足を出すんだ。1秒でも早くアイシングを開始したい」
「う、うん」
凛は学園の女神でもなく、僕と対等に話す時の気の強い声色さえも失っていた。彼女は靴と靴下を脱ぎ、痛めた右足首を僕の膝の上に乗せる。彼女の足首はかすかに赤くなり腫れ始めていたが、僕の視界は別のものを捉えていた。
「凛、この絆創膏はどうした?」
「それはいつものやつだから大丈夫」
冷却スプレーの音と体育祭のかすかな喧騒がカーテンの中に響く。冷却スプレー後、僕は彼女の足首に包帯を巻き、適切なトルクで固定。それは僕がこれまで構築してきたプログラミングよりも繊細で神経を尖らせた作業となった。
「まずはこれでいい。これで20分ほど足を高くした状態を維持すれば炎症リスクは大幅に低下する」
処置を終えた僕は、ノイズのように引っかかっていた彼女の足の絆創膏を見つめた。
「凛、もう1度聞くがその絆創膏はどうした?」
「トップモデルの仕事も見た目ほど綺麗じゃないってこと」
無理をして笑った彼女の笑顔は寂しさで溢れ、僕の胸の奥が少しだけ痛んだ。固定した彼女の足首からそのまま絆創膏へと指先をおもむろに滑らせると、凛の体がビクっと小さく跳ねた。
「僕なら、君の足の皮が剥けない最適なウォーキングルートをミリ単位で計算する」
「……え?」
呆然とする彼女を残し、僕はベッド脇のスツールに座り直す。未だに体育祭の喧騒はかすかに聞こえてくるが、白い布で仕切られた僕たちの世界は完全に孤立していた。
僕は自分のスマートウォッチに視線を落とす。画面には、先ほどの猛ダッシュによる運動負荷とは明らかに異なる異常な数値が表示されている。
──心拍数108……。走るのをやめてからすでに数分は経過している。僕の心肺機能のリカバリー速度から計算すれば、心拍数は80前後をマークしていなければならないはずだ。
「蓮」
凛が僕の名前を呼んだ。偽装交際中はお互いを名前で呼ぶ契約だが、彼女の甘い声で名前を呼ばれるだけで僕のシステムはわずかに狂う。
「さっきはビジネスで私を拉致したの?」
彼女は白いシーツを少しだけ握りしめ、今にも泣きだしそうな笑みを浮かべて僕を見た。
「担架があればもっと簡単に私を運べたと思う。でも蓮は1人で私を運んだ。それってビジネスじゃなくて、蓮の独占欲のためじゃないの?」
図星だった。彼女の鋭い指摘の前では僕のファイアウォールも意味をなさない。
「蓮、ちょっとこっち来て」
凛が少しだけベッドの上から身を乗り出し、僕の体操着を引っ張る。引っ張られるまま彼女の方へ近付くと、彼女は僕の耳のすぐ隣にその小さな唇を寄せると同時に、彼女から漂う甘い汗の匂いが僕の鼻にハッキングをしかける。
「ありがとう」
小さく、かすかに、僕のシステムを根本から書き換えてしまう再びの感謝の言葉。
ブブッ。ブブッ。ブブッ。ブブッ。ブブッ。ブブッ。
僕は弾かれたようにスツールを倒しながら後退し、即座に彼女へ背を向けた。
「え、蓮?その背中、手当しないと……」
──極めて危険な状態だ……。このまま彼女と同じ空間に滞在し、彼女の甘い香りと熱に当てられ続ければどうなる?偽装交際という契約を自らの手で破棄し、彼女を力任せに抱きしめ、唇を奪い……。
僕の脳内CPUが弾き出した計算結果は、僕がこれまで築き上げてきた「最上蓮」の完全なる崩壊を意味していた。この圧倒的で、暴力的で、計算不可能な「恋」という感情を処理するためのデータが、今の僕には実装されていない。
「蓮、体操着が赤くなってるから背中が……」
「凛!」
僕は自分でも驚くほど裏返った声を出していた。
「げ、現在の君の足首の表面温度は僕の計算よりも1度高い!このままでは患部の冷却効率が著しく低下し、炎症のリスクが増加する!よ、よって、氷を使用した継続的なアイシングが必要だ!」
「え?でもスプレーしたばっかりだし、今は私より蓮の……」
「更に言えば!体育祭を途中離脱したことを報告する義務が僕には存在する!君の足首の具合も専門家である養護教諭に確認してもらうべきだ!」
「それはそうだけど蓮も……」
「そのまま安静にしているんだ!」
僕は彼女の言葉を遮り続け、カーテンを引き裂くように開けて保健室から逃亡。廊下に出た僕は保健室のドアを勢いよく閉め、反対側の壁に痛む背中を預けてずりずりとその場に座り込んだ。
振動し続けるスマートウォッチのバイブレーション機能を一時的にオフにし、両手で熱くなっている顔を覆う。
──僕は白神凛に恋をしている……。それも致死レベルで……。
◇◇◇
体育祭の翌日。日曜日の朝から僕は背中の痛みに耐えつつ、Chro-Noahの大型アップデートを行っていた。SNSでは「お姫様抱っこ拉致事件」が予想を大幅に超える閲覧数となり、僕たちの関係が偽装交際であると疑う勢力はもはや存在しない。
──アップデートはこれでいい。あとは凛が我が社のアンバサダーであることを周知しなければならない。
大型アップデートから遅れること数時間、SNSは「Chro-Noahのアンバサダーに白神凛就任」という話題で持ち切り。それによってアプリのダウンロード数は一気に増えたが、事前にサーバーを増強しておいたので事なきを得た。




