第11話:保留(凛視点あり)
大型アップデートを行った次の日。いつもの高級車が短いブレーキ音を響かせて滑り込んできた。
「みんな、おはよう」
凛は車から降り、周囲に笑みを振りまく。しかし鈴を転がすような声はいつもよりトーンが低く感じたが、笑顔を振りまきながら真っ直ぐに僕の隣まで歩み寄ってきた。
「おはよう、蓮。早速だけど、昨日の大型アップデートは見事だったわ。私が出した指摘以外にも改善されてるみたいね」
──今日は腕に寄り添ってこない。まあ……、そういう日もあるのかもしれない。
約30センチ。それが僕と凛との今の距離。凛は前を向いたまま周囲に笑みを振りまき続けるが、その横顔はどこか無理をしているように見えた。
「凛のインフルエンサーとしての価値を考えれば、体育祭での視覚的インパクトがSNSを支配したあのタイミングが大型アップデートの最適解だった。アンバサダー就任のニュースが相乗効果となり、ダウンロード数は右肩上がりだ」
僕も前を向いたまま事務的に答える。体育祭での一件によって、僕は凛に致死レベルで恋をしていることが判明したため、まともに彼女の顔を見ることができなかった。
「文句のつけようがない結果ね。おかげで私にも拍が付いたわ」
「な、なあ……」
僕の隣を歩く高橋が遠慮がちに口を開いた。
「もっちゃんと凛ちゃんさ、いつもより遠くない?腕も組んでないし。もしかして喧嘩してる?」
「違うのよ」
凛は目を細めた。
「くっつきすぎもよくないの、大人な関係にはね。そうよね、蓮?」
「……そうだ。僕たちは密着せずとも強固にリンクしている」
僕は凛の言動に合わせた回答を放った。周囲の生徒たちは勝手に高度な脳内補完を始めていたが、今はその歪んだバイアスが好都合だった。僕たちは腕を組まずに学園内に入り、僕は凛を彼女の教室まで送り届けた。
「……業務連絡は以上になる」
「ありがとう、CEO」
僕は凛と1度も目を合わせず、即座に反転して自らの教室へと逃亡。心拍数はかろうじて80代をキープしていた。
◇◇◇
──バカ蓮……。ちゃんと私の方を向いて話しなさいよ……。そしたら私も……。
体育祭の疲れが残っているわけではなかったが、朝から体が重い。蓮の適切な処置のおかげで右足首の捻挫は悪化しなかった。体が重い原因は、蓮に拒絶されているような寂しさそのもの。
腕を組まなかったのもそれが原因。いつもと違う行動を取れば、合理的な蓮が不思議に思って何か言ってくれる。でも、そんな淡い期待は見事に空振り。私は気持ちを切り替えて、学園の女神として自分の教室に入った。
「凛ちゃん!これ、どういうこと!?」
教室に入ると、女子たちが悲鳴のような歓声を上げながら私に群がってきた。彼女たちが突き出してくるスマートフォンの画面には、お姫様抱っこ拉致事件の画像と私がアンバサダーに就任したニュースの記事が表示されている。
「アプリのダウンロード数はぶっちぎりで1位みたいだよ!」
「拉致事件の後にこの発表って、最上くんは凛ちゃんのこと好きすぎない!?」
「これがきっかけで凛ちゃんは最上くんと意気投合したの!?」
興奮している同級生に囲まれながら、私は女神の仮面をしっかりと被って自分の席までたどり着いた。
「いつアップデートするかは前から決まってたから、たまたま重なっただけなの」
適当な嘘でその場をごまかす。蓮の戦略はCEOとして当たり前だった。SNSを賑わせた直後の大型アップデートの結果はアプリのダウンロード数に現れ、ビジネスとしては文句のつけようがない。
でもあの日、保健室で私が蓮に伝えた「ありがとう」はビジネスではなく、蓮の優しさに甘えたかったから出たセリフ。
──私が「ありがとう」って言った後、蓮は私を残して保健室から出てった……。嫌われちゃったかな……。アプリも完成したし、私の役目はもう終わりなのかな……。
◇◇◇
Chro-Noahの大型アップデートから1週間。校内は「白神凛お姫様抱っこ拉致事件」と「白神凛アンバサダー就任」から「文化祭」へと熱が移動している中、僕個人のメンタルヘルスは未だに危険水域を彷徨っていた。
──未定義変数……。いや……、致命的な脆弱性……。
僕は、自分のデスクでノートパソコンを開きながら深くため息をついた。脳裏にフラッシュバックするのは、カーテンで遮られた陸の孤島で凛が僕にゼロ距離で発した「ありがとう」という5文字の音声データ。
あの瞬間に僕のシステムは完全に狂い、暴走の恐れを回避するために彼女をあの場に置き去りにするという、偽装交際であったとしても0点な回答を出力してしまった。
あの日以降、朝のエスコートは凛が僕の腕に寄り添ってこなくなったが、ビジネストークは健在。しかし、それ以外は最低限の業務連絡のみに留まっている。幸い、体育祭から文化祭へと立て続けの過密スケジュールが、僕に絶好の隠れ蓑を与えてくれた。文化祭実行委員としてのタスク処理を言い訳に、彼女への連絡頻度を不自然に思われることなく最小限にすることができる。
自分のシステムに発生した「恋」という名のバグ。これを隔離環境に押し込めてパッチを当てるまでの間、凛と不用意に接触するのはあまりにもリスクが高い。
◇◇◇
「みんな、席につけ。今日は転校生を紹介する」
いつもより緊張した担任教師の声が教室に響く。「転校生」という単語に教室の空気がざわめき、僕もノートパソコンを閉じて顔を上げた。
教室の入り口から1人の女子生徒が圧倒的なオーラを放ちつつ、静かに教壇へと歩みを進める。肩をかすめる艶やかな黒髪のストレートヘア。天桜学園の指定制服を優雅に着こなし、凛とはまた違ったベクトルで完成されたプロポーション。
しかし、彼女から発せられているのは凛のように周囲を魅了するものではない。もっと冷徹で、合理的で、他者を跪かせるような権力そのもの。
「『西園寺千代子』と申します。以後、よろしくお願い致します」
彼女が黒板の前に立って美しい角度で一礼した瞬間、教室内の空気が凍りついた。
「西園寺って、まさかあの西園寺ホールディングスの?」
「嘘だろ?総資産数十兆の超巨大財閥の令嬢がなんでうちに?」
「凛ちゃんと同じぐらい可愛いじゃん!」
クラスメイトたちのざわめきが教室中に広がる。西園寺ホールディングスとは、国内のインフラ、金融、IT、不動産を牛耳る圧倒的な支配者。不動産王の神宮寺グループなど足元にも及ばない。
西園寺千代子はチョークで自分の名前を黒板に書き終えると、教室全体を見渡すような無駄な行動はしなかった。彼女の瞳は、教室の後方に座る僕だけを一直線に捉えている。
彼女は教壇を降りると、教室中の視線を絡めとりながら最短ルートで僕の席まで歩いてきた。そして僕のデスクの上に両手をつき、感情が一切込められていない声で流暢に告げた。
「あなたが最上社長ですね」
「いかにも。ただ、財閥の御令嬢が僕のような人間を相手にするとは思えませんが?」
僕は彼女の圧倒的なプレッシャーに対抗するため、ファイアウォールを最大出力で展開して冷たく返した。すると、彼女は薄い笑みを浮かべて見せた。
「挨拶は結構。あなたの開発したChro-Noahに興味があります。西園寺ホールディングスの資本を提供することでさらなる躍進が見込めると判断しました。放課後、お時間をいただけますか?これは提案ではありません。あなたの未来をより良いものにする最適解です」
◇◇◇
放課後、夕暮れの校舎を出た西園寺の後ろを影のように僕が従っていた。体育祭での出来事やChro-Noahの大型アップデートから1週間が経ち、ようやく平穏を取り戻しかけていた学園内は新たなバグに包まれて騒然としていた。
「あれって最上か?」
「なんで西園寺さんと歩いてるんだ?」
「女神の次は西園寺ホールディングスか!?」
すれ違う生徒たちの視線が突き刺さる。しかし僕の前を歩く御令嬢は周囲のノイズなど聞こえていないのか、ただ前だけを見据えていた。
学園の来賓用駐車場に足を踏み入れた瞬間、異様な存在感を放つ塊が視界に入る。全長6メートルを超えるであろう最高級リムジン。ミラー仕上げのボディはオレンジ色の夕日を機械的に反射している。
僕たちが近付くと、車の傍らに直立不動で控えていた黒いスーツを身にまとった運転手が深くお辞儀をし、白い手袋をはめた手で重厚なドアを滑らかに開けた。
「お乗りください最上様、御嬢様」
抑揚のない声で促されるままに僕が先に車内へ足を踏み入れ、続いて西園寺が制服の裾を乱すことなく流れるように滑り込んできた。
重厚なドアが閉まった瞬間、外の世界とは完全に隔離される。運転席とはパーテーションで区切られ、最高級のリムジンにのみ許された対面式の上質なレザ-シートに僕と西園寺は向かい合って腰掛け、真っ向から視線を交錯させる。
西園寺はシートに深く背を預けると、無駄のない所作で手元のタブレットを起動し、淡々と説明を始めた。
「最上社長、単刀直入に申し上げます。西園寺ホールディングスは、あなたのChro-Noahに対してまずは5億の出資を提案します。いかがですか?」
「5億……」
僕はできるだけ表情に出さないよう努めたが、脳内CPUはフル回転していた。現在、僕が集めた資金は数千万規模。Chro-Noahそのものはすでにリリースされており、若年層の利用を促すために白神凛を広告塔に起用し、アプリの改善も依頼。その大型アップデートも先週には完了済みだった。
仮に5億のキャッシュが投入できるのであれば、サーバー強化だけではなく、AIの深層学習モデルもレベルアップさせることができる。
「資金だけではありません」
西園寺はタブレットをスワイプし、次の画面に切り替えた。
「西園寺グループの保有する全国の施設、インフラ、そしてそれらに付随する膨大な顧客データとの連携を約束します。つまり、Chro-Noahは明日からでも国内の全ユーザーのスマートフォンにインストールされることになるでしょう。顧客獲得に向けて無駄なコストを払う必要もありません」
「テックスタートのCEOとして、この提案を拒否する理由は存在しない」
僕は彼女の提示した圧倒的な提案に舌を巻かざるを得なかった。西園寺は、僕が喉から手が出るほどに欲しているインフラやデータといった資本の全てをひとまとめにして提示してきた。
「最上社長のアプリは素晴らしいのですが、デザインが旧時代的でした。これは憶測ですが、白神さんのアンバサダー就任の裏では開発協力もあったと睨んでいます。若年層を取り込むために彼女を起用するのは悪い判断ではありませんが、個人のインフルエンサーが社会に与える影響は軽微。せいぜい砂場での泥遊び程度でしょう」
西園寺が僕たちの関係が偽装交際であることを知らなかったとしても、今の発言には僕と凛がこれまで積み上げてきたものに対する冷酷な評価が含まれていた。
「あなたも理解しているはずです。ビジネスにおいて求めるべきは局所的な最適解ではありません。もっと大きな、グローバルな視点での答えが必要なのです」
西園寺は僕の目を真っ直ぐに見据える。
「契約書はすでに作成済みです。今すぐにサインを。ただし、この契約には1つだけ『条件』があります」
「その条件を聞かせてもらおう」
僕は警戒レベルを引き上げ、西園寺を睨み返した。これほどの提案に紐づく条件。それがソースコードの完全譲渡等であった場合、即座に交渉決裂となる。しかし、彼女の口から飛び出てきたのは技術的な要求ではなかった。
「Chro-Noahの広告塔変更を求めます」
「なっ!?」
予期せぬ音が僕の喉から鳴った。
「白神さんを降ろし、私を起用すること。これがこの契約の絶対条件となります」
「……君を起用?」
「白神さんの美しさは認めます。ですが、彼女の持つ影響力は女子高生モデルという局所的な領域に限定されます。それに対し、私を起用した場合は西園寺ホールディングスのバックアップが公となり、ブランドと信頼性が担保されます。そのため、私を起用した瞬間に桁違いの顧客を獲得することができる、と私のAIが弾き出しました」
西園寺が手元のタブレットの画面を送ると、青と赤のグラフ画面に切り替わった。青いグラフは凛を起用し続けた場合。赤いグラフは西園寺を起用した場合。その差は誰の目にも明らかだった。西園寺を起用した瞬間に赤いグラフは垂直に伸び、そこから指数関数的なカーブを描き、天を突くように上昇。
「最上社長。あなたは冷徹で、誰よりも効率的で、誰よりも合理的だと聞いています。感情というノイズに惑わされず、常に最適解を導き出せる方だと」
西園寺はわずかに腰を浮かせ、細い指で僕の胸元を軽く叩いた。
「白神さんではあなたの満足する結果を得ることはできません。私に乗り換え、共に世界を創造しましょう。さあ、サインを」
僕の脳内CPUが西園寺千代子の提案に対して何万回ものシミュレーションを行った結果、その全てで「YES」という答えが返ってきた。
──全ての観点において西園寺の提案に乗るのが正解だ。凛との偽装交際はあくまでも若年層を獲得するために、トレンドリーダーである彼女を起用したにすぎない。西園寺の提案は若年層どころではなく、この国の国民全員を顧客にすることと同義であり、その先には世界が待っている。凛を捨て、西園寺ホールディングスの資本を受け入れろ。それだけで僕の夢は明日にでも実現する。しかし……。
僕は西園寺からタブレットを受け取ったまま完全にフリーズし、1ミリも動かなかった。
「どうしました?ペンの調子が悪いのですか?」
西園寺は不思議そうに小首を傾げる。
──違う、ハードウェアのエラーではない。
(「もういい。ごめんね、わかってる。私たちはただの偽装交際でビジネスパートナー。今日のPR活動も悪くなかったと思うわ、CEO。ちょっと疲れたから少し寝る」)
(「ありがとう」)
隔離したはずのあのバグが僕のサインを強く拒絶する。僕のCPUは、ダブルデートというPR活動の帰りの電車できらりと光っていた涙と、保健室で見せた無理をした瞳がフラッシュバックしていた。
──凛は僕と一緒に偽装交際というプロジェクトを立ち上げ、文句を言いながらも常に僕の隣で予想を上回るパフォーマンスを見せ続けてくれた唯一無二のパートナーだ。彼女を捨てる?白神凛という代替不可能なリソースを僕のシステムから削除する?そんなこと、できるわけがない。
西園寺の提案を受け入れないことは金額以上の機会損失を生む愚かな選択。しかし、僕の胸の奥は凛を手放すことへの強烈な焦燥感と拒絶反応でオーバーヒートを起こしそうになっていた。
「……西園寺」
僕はタブレットから視線を外して彼女を見た。
「保留だ」
「今なんと?」
ポーカーフェイスな西園寺の表情に初めてわずかなエラーが走った。
「この提案だが、即決するには計算すべき変数が多すぎる。僕のAIによる更なる熟考が必要となる。回答期限は2週間後に行われる文化祭終了後とする」
「最上社長、あなたはこの私の提案を保留にするというのですか?」
西園寺の声の温度が氷点下まで一気に低下した。
「僕はCEOだ。最終的な決断は僕がする」
僕は高級車の重厚なドアを開け、彼女のプレッシャーを強引に振りきるようにして駐車場を去った。




