第12話:甘すぎる誘惑(凛視点)
女子トイレの大きな鏡の前で、私は愛用のリップを唇に滑らせた。鏡の中にいる「白神凛」は今日もいつも通り。計算し尽されたナチュラルメイクに整えられた前髪。そして、誰からも愛される学園の女神としての隙のない笑顔。
「バカ蓮……」
体育祭の、あの保健室での出来事。私の勇気を振り絞ったアプローチは、私たちがこれまで徹底して演じてきた偽装交際というビジネスの枠を越えられるかもしれないと思った。
でも、蓮はスツールを倒しながら私に背を向けた。蓮の体操着は血が滲んでいて手当てが必要だったけど、私の声は届かず。蓮はいつもの理論武装で意味のわからない言葉を並べると、私を置いてどこかへ行ってしまった。
──あれでダメならどうすればいいの……。
あの日以降、朝の登校時もお互いに見えない壁を作り、腕すら組めない距離感が定着してしまった。
体育祭後は息をつく暇もなく文化祭の準備が始まる。生徒会長である私自身も、実行委員である蓮も目の回る忙しさ。朝の登校以外で連絡が極端に減ってしまったのは、お互いが文化祭の運営に携わっているからだと自分に言い聞かせていた。でも、私が抱えていた拒絶という不安は最悪の形で決定的なものとなる。
「西園寺千代子」という時期外れの転校生。蓮のクラスに転校してきた彼女はすでに学園中を騒がせていた。財閥の御嬢様であり、圧倒的な権力と資本を持つ。その彼女が、昨日の放課後に蓮を伴ってどこかへ消えていったという噂が私の耳にも入ってきた。目的はビジネスの話以外には考えられない。蓮の野望にとって、西園寺ホールディングスは最適解に違いない。
──それに比べて私は……。
鏡の中の「白神凛」と目を合わせる。私は顔とスタイルが少し良いだけの高校生モデルにすぎない。蓮に提供できるのは、SNSのフォロワーという小さな影響力だけ。
『凛、君との契約はここまでだ。白神凛という古いUIは交換しなければならない』
蓮の冷徹な声が脳内で再生され、私の体は震えた。ただの便利なリソースとして扱われることに反発してあんな憎まれ口を叩いたのに。保健室であれほど明確に拒絶されたのに。
蓮にとってもっと有益なリソースが現れ、私が捨てられると思った瞬間、型落ちのドレスとしてクローゼットの奥に収納される恐怖に怯えている。私はすでに最上蓮の不器用な優しさに依存しきってしまっていたのだ。
私が重い足取りでトイレを出て、1人で中庭の見える渡り廊下を歩いていた時だった。
「きゃああああああ!」
「内藤先輩だ!」
「相変わらず王子様すぎ!」
文化祭の準備で騒ぐ生徒たちの喧騒ではなく、黄色い歓声が聞こえてきた。私は渡り廊下の中ほどで立ち止まり、中庭に視線を注ぐ。そこにいるのは女子生徒たちに囲まれながら、優雅に微笑む1人の卒業生。
卒業生の「内藤清正」は、事務所は違えど私と同じ元高校生モデル。現在は撮影で国内を飛び回り、最近は海外にも足を延ばしている。どの業界もみんなが考えるよりずっと狭い。最近は顔を合わせる機会は減ったが、以前はよく顔を合わせていた。
蓮が「冷徹なロジック」で人を動かすのであれば、内藤清正は「情熱的な感情」で人を狂わせる麻薬のような男。
──相変わらず派手な登場。
私が小さくため息をついた瞬間、こちらに視線を動かした内藤とばっちり目が合ってしまった。
「ごめんね、野暮用ができちゃった」
内藤は甘い声でウインクを投げると、長い足を優雅に動かして私へと近付いてくる。
「久しぶりだね、凛。ますます綺麗になったんじゃない?」
「お世辞は結構です、内藤先輩。相変わらず甘ったるいセリフが得意みたいですね」
私は努めて冷たい態度を装いながら返したが、私と彼は誰にも言っていない秘密を共有していた。
私がモデルとしてデビューしたばかりの頃。生まれ持った才能だけでトップに立てるほど甘い世界ではないことを痛感していた私は、誰もいない深夜のレッスンスタジオでヒールでのウォーキング練習をしていた。足の皮が破れて血が滲むまで何度も何度も繰り返し。
プレッシャーで過呼吸になりかけ、フロアの隅で1人で泣きじゃくった日も数えきれないが、当時、同じビルの別のスタジオで遅くまでレッスンを受けていた内藤だけが、私の血生臭いステージ裏を知っていた。
『凛のその血だらけの足、最高に美しいよ。絶対にトップを取れる』
彼だけが「作られた白神凛」の裏にある努力を知っている。だからこそ、私は彼に対してだけは「白神凛」を演じきることができないでいた。
彼がこの学園に在学していた頃、すでにトップモデルとして君臨していた彼と、トップの座にはまだ遠かった私が学園内で接触すれば厄介ごとになるのはお互いが理解していた。その結果、お互いの立場やブランドを守るという暗黙の了解ができ、私たちは学園では完全に他人のフリを貫いていた。しかし今は違う。
「冷たいなあ。せっかくスケジュールをこじ開けて凛の顔を見に来たのに」
内藤はそう言うと、私の右手首を躊躇いもなく掴む。
「ちょ、ちょっと……」
「場所を変えよう。ここはギャラリーが多いからね」
有無を言わせぬ力で私を引っ張ると、渡り廊下を渡りきった先にあるイベント専用倉庫の扉を開け、私を中へと押し込んだ。薄暗い倉庫に鍵の閉まる音がわずかに響く。
「……急に現れて何なの?」
私は手首を振り払おうとしたが、彼の指は万力のように食い込んで離れない。
「聞いたよ、彼氏ができたんだって?Chro-Noahっていうアプリを作ってる天才高校生だとか。しかも共同声明も出したっていうんだから事務所公認ってことでしょ?さすがに目を疑ったよ」
「事実よ。私たちはとても上手くいってるわ」
私は背筋を伸ばし、恋する乙女の笑みを顔面に貼り付けた。
「蓮は不器用だけど私のことを1番に考えてくれるの」
「嘘だね」
内藤の声からは、先ほどまでの砂糖のような甘さは一切感じず、私の心を覗き見るかのような目つきに変わった。
「今の顔は『恋をしている』演技の顔だ。カメラを前にした時と同じでただのポージングと一緒さ。凛、ビジネスで付き合ってるフリをしてるだけなんだろ?」
「ーっ!?」
私の心臓がヒュッという冷たい音を立てて縮み上がった。
「な、何を馬鹿なことを言ってるの!?体育祭での私たちのあれを見なかったの!?」
「見たよ、話題になってたからね。凛がお姫様抱っこされてるやつでしょ?」
内藤は私の手首を開放し、そのまま倉庫の壁に手をついて私を退路のない空間に閉じ込めた。そして、必死な熱が混じった甘言を吐き続ける。
「あれを見たから確信したんだ。あいつの目は愛する女を助ける男の目じゃない。あいつは常に周囲のカメラの位置とギャラリーの反応を計算してる。アプリの宣伝のために、トップモデルの凛を無駄に消費しただけだ」
「違う!」
私は思わず叫んでいた。
「違わないさ。凛も薄々気づいてるんだろ?あいつにとって、凛は客を呼ぶための看板さ。あの西園寺が動いたっていう情報も出始めてる。西園寺グループが動いたってことは、あいつに出資の提案を持ちかけてるんじゃない?」
内藤は私との距離を詰めた。彼の甘ったるい香水の匂いが私の領域に浸食してくる。
「あいつは合理的なんだろ?西園寺千代子も合理的って専らの噂だ。出資の条件に凛を……」
「やめて!!」
内藤の言葉を私は叫んで遮った。
──それ以上は言わないで!
「蓮が私を捨てる」という想像だけで、目の前が真っ暗になり上手く息が吸えない。
「凛」
震える私の肩を内藤の両手が決して逃げられない強さで掴む。
「あいつの駒になるな。凛は誰かのビジネスの道具じゃない」
彼の唇が私の耳元で甘く囁いた。
「俺のところに来いよ」
「え……?」
「俺なら凛を1人の女として愛せる。足から血を流して1人で泣きながら頑張ってきたのを俺は知ってる。俺なら受け止められる。あいつみたいな合理主義の塊に凛の美しさなんてこれっぽっちも理解できない」
内藤の言葉は、甘く、熱く、私の最も弱っている部分に染み込む。
──先輩の言う通りだ。私と蓮の関係は元を正せばただの契約。蓮は常に数字を見て、リスクを計算してる。自分の感情なんて少しも出さない。それに比べて、目の前の先輩は私の全部を知った上でストレートに感情をぶつけてきてる。
1人の女の子として、どちらを選べば幸せになれるかは火を見るより明らかだった。
──蓮……。
私は内藤の胸板に両手を当て、必死に彼を押し返そうとした。
「離して」
「凛?」
「確かに蓮は効率的で合理的なデジタルバカよ」
私の脳裏に浮かぶのは内藤のようなスマートな笑顔ではない。不器用に私と恋人繋ぎをした時の熱。PR活動で私を庇ってドキドキさせていた時の心臓の音。蓮は私を道具として見ていたわけではない。蓮は不器用ながらに、一生懸命私と向き合ってくれていた。私はそれを知っている。
「蓮は私を絶対に手放したりしない!」
私の叫びは蓮に対する信頼ではなく、自分自身に言い聞かせるための悲痛な叫び。
「はあ……。凛は本気であいつに心酔してるんだな」
内藤は呆れたように大きなため息をついた。でも、その顔には余裕の笑みが貼り付いたまま。彼は片手を私の肩から外し、私の頬にかかる髪にそっと触れる。
「現実を見ろよ。凛がここで叫んでも、凛の隣にあいつはいないじゃないか。今も西園寺と密会中なんじゃないか?自分の会社を大きくするためにね。それに、もしあいつが本当に凛を必要としてるなら、こんなところで俺と一緒に閉じ込められてる状況を見過ごすはずがない」
──それは、そう……。蓮からの連絡は全然ない……。蓮は実行委員だから忙しい……。私も……。
「それは……」
「凛のそういうところ、昔から変わってないな。俺はそういう凛も好きだけど」
私は抵抗しようと身をよじるも、内藤の体格と力には敵わない。
「凛、あんなやつじゃなくて俺を選べ。後悔はさせない」
彼の甘い瞳に、諦めと恐怖がない交ぜになった私の顔が映り込んでいた。私は力いっぱいに目を閉じ、祈るようにして両手を握りしめる。
──蓮……、どこにいるの……。早く来てよ……!
ガンッ!ガンッ!ガンッ!
私が届かない祈りを捧げた瞬間、耳をつんざく轟音が狭い倉庫内に響き渡った。
「な、なんだ!?」
内藤が驚いて私から離れて後ろを向いた。轟音の正体は、鍵のかかった倉庫の扉に外から凄まじい衝撃を何度も叩きつけられた音。
ガンッ!ガンッ!ガンッ!
扉がひしゃげるような衝撃が幾度となく加えられ、内側からかけられた扉の鍵が耐えきれなくなり、悲鳴のような金属音を立てて軋み始めた。
「おい、嘘だろ……」
バキッ!
鍵が壊れると同時に、倉庫の扉が勢いよく内側へと倒れ込む。乱れた息に着崩れた文化祭実行委員の法被。そして、普段は冷徹なCEOである彼の瞳には怒りが宿っていた。
「蓮!?」
私の声は震えていた。蓮は内藤には目もくれず、真っ直ぐに私へと歩み寄ってくる。
「お前、最上だろ?勝手に鍵を壊して……」
内藤が全てを言いきるよりも早く、蓮は私の腕に手を伸ばした。少し痛いくらいの強い力で私の右手首が掴まれ、彼の火傷しそうなほどの熱が私に伝わる。
「れ、蓮……?どうしてここに……?」
蓮は何も答えない。ただ私の手首を掴んだまま、ギリリと奥歯を強く噛みしめる音がかすかに聞こえた。
「凛は僕のものだ。無許可でのアクセスは控えていただきたい」
「おいおい、凛を所有物扱いか?お前は西園寺と……」
「黙れ」
蓮は内藤の言葉を怖いほど冷たく遮った。
「凛、行くぞ」
「ちょ、ちょっと待って!?引っ張らないでよ!?」
私が抗議の声を上げるも、蓮は振り返らない。実行委員の法被を揺らしながら大股でどんどんと廊下を進んだ。すれ違う生徒たちはいつものバカップルではない空気を察して道を開ける。でも、蓮は周囲の視線を気にする素振りを見せない。
「蓮、どこに行くの!?西園寺さんはいいの!?」
「西園寺は関係ない。今は君のシステムを最優先でデバッグする必要がある」
歩き続けた私たちがたどり着いたのは、今は文化祭準備のために使わないものを収納している第2セミナー室。蓮はドアを勢いよく開けて私を連れ込み、内側から鍵をかけた。




