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第07話:ポンコツ(凛視点)

「ん……」


 私は強烈に強い光を受けて目を覚ました。窓から朝日が差し込み、それを合図に目覚めたようだった。でも、目に入ってきたのは見慣れた天井や部屋じゃなくて、生活感のない部屋。


──あ、そっか。昨日は蓮の部屋で……。


 そこまで思い出して私が体を起こすと、体の上から1枚の服がずり落ちた。それは蓮のワーキングチェアにかかっていたジップアップパーカー。ありきたりなグレーの生地に、黒字で「Chronos」というロゴが入っている。


──蓮はいつもこれを着てるのかな?


 温かみのあるパーカーを拾い上げた瞬間、生地に染みついた匂いが私を襲う。柔軟剤の香りの他に、どこか落ち着く蓮の匂いが寝起きの私を刺激する。


ブブッ。ブブッ。ブブッ。


 左手首に巻かれたスマートウォッチが目覚まし代わりのように激しく振動した。理由は明白。私の心臓は100を超える勢いで、全身に血流を送り届けている。


──朝から心臓に悪いわよ!バカ蓮!


 私はたまらずパーカーを抱きしめて、そのまま顔を深々と埋めた。生地に染みついた彼の匂いが私の嗅覚を支配し、脳に揺さぶりをかける。


──あのロボットみたいなCEOが寝てる私に自分の上着をかけてくれたの!?嘘でしょ!?


 効率的で合理主義の蓮が女の子に上着をかけるなんていう少女漫画の王道みたいな、非効率極まりない行いをした。その事実だけで私の心拍数は簡単に上がる。


 私はパーカーに顔をうずめたまま、長い脚をバタバタさせて悶絶した。学校のみんなは私を女神だと言う。でも、今の私は女神ではない。今の私は、上着1枚で顔を真っ赤にして心臓をバクバクさせている、恋するポンコツな女子高生。


──もしかして疲れて朝まで寝ちゃった?蓮の部屋で?


 別の真実に気づき、落ち着かない心臓を落ち着かせるために私はパーカーを羽織る。大きめに作られているのか、袖が少し余った。室内は昨日と変わらない。机の上には3枚のモニタが並び、その下からは蓮の両脚だけが見える。


 私は音を立てないようにソファから滑り降り、彼のパーカーの袖をゆらゆらと余らせたまま、蓮のところまで足を運ぶ。そしてデスクの隣に立ち、眠っている顔を上からゆっくりと覗き込んだ。


──眼鏡を外すと他の男の子と同じなんだ。


 いつもは眼鏡の奥にある瞳が冷徹に輝くが、今はその眼鏡もキーボードの近くに置かれている。眼鏡をしていない彼の素顔は「近寄りがたい高校生CEO」ではなく、無防備で少し幼い。綺麗に通った鼻筋と、少し長めの前髪が額にかかっている。正論を吐き出す唇も今は完全に閉ざしたまま。


──ほんと、黙ってればかっこいいのに。


 わずかに落ち着きを取り戻しつつあった心臓が再び騒がしくなるのを感じた。私たちは世界を騙すための偽装交際であり、お互いの利害が一致したビジネスな関係。周りのみんなは私たちの関係を本物だと信じきっている。


──でも……、なんで私はこの関係を大きく踏み越えようとしてしまうんだろう……。


 私は無意識のうちに右手を伸ばしていた。彼の額にかかる前髪に、ほんの少しだけ触れてみたいと思った。冷徹ではない、無防備な彼に触れてみたいと思った。


「ん……」


 私の指先が蓮の前髪に触れ、そのまま一瞬だけ額に接触した瞬間、彼がわずかに動いた。私は右手を引っ込め、そのままの勢いで数歩下がる。起きた蓮はゆっくりと頭を上げ、焦点の定まらない目で周囲を見回した。そしてキーボード横にある眼鏡を手探りで掴むと、手慣れた様子で眼鏡をかけた。


「おはよう、白神。僕の計算では君の起床はあと15分ほど後ろのはずだったが」


 蓮は寝起きの少し低いかすれた声で、情緒のないセリフを言った。


「人がせっかく静かに起きてあげたのに最初のセリフがそれ?いつになったら情緒をプログラミングするのよ」


 私は腕を組み、ぷいっと顔を背けた。高鳴る心臓を怒った演技で必死にごまかす。蓮はワーキングチェアから立ち上がり、体を軽くストレッチさせながら私の羽織っているパーカーに視線を留めた。


「白神、なぜ僕のパーカーを着用している?あくまでも君の体温管理のためにかけただけなのだが」

「ま、まだちょっと寒かったから着ただけ!っていうか、なんでかけてくれたの?」


 私は蓮と視線を合わせ、彼の反応を探った。


──普通なら「風邪を引いちゃいけないからさ」ってかっこよく言うところだけど。どうする、蓮?


 蓮は眼鏡のブリッジを指先で少しだけ押し上げると、いつも通り冷徹で非の打ち所のないビジネストーンで言い放った。


「昨夜のデスマーチ終了時点での室温や君の睡眠状態を観測した結果、外部補熱を行わなければ君が急性上気道炎を発症する確率が58パーセントという計算が出た。マスターデータは完成したが、君の仕事に影響が出れば我が社にも波及する。君のパフォーマンス低下を防ぐための極めて合理的なリスクヘッジの一環である」


──出た出た、リスクヘッジ。


 私は心の中で蓮の石頭に特大のハリセンを叩きつけた。


──確かに風邪を引いたら困るけど、今はそんなのどうでもいいの!「寒そうだったから」とか「風邪を引かない」とか。気持ちを素直に伝えてくれればそれだけで私の好感度は100万ポイントぐらい跳ねあがるの!なんでこの男は自分の優しさを難しい言葉で丁寧にラッピングするのよ!バカ蓮!


「見事なリスクヘッジだったわ、CEO」


 私は大きくため息をつき、パーカーのポケットに両手を入れた。


「これより、朝のワークパフォーマンスを最大化するための補給を行う」


 蓮はそう言うとキッチンに入っていく。私がその後を追うと、蓮はドリップケトルに水を入れ、電子コンロで沸かし始めた。その間にコーヒー豆の重さを測ってコーヒーミルで細かくする。その光景は化学実験を行っているかのように見えた。


──コーヒーを入れるたびにこれ?毎回実験してる感じね。


 私はソファに座り直し、蓮のパーカーに包まれたままコーヒーの完成を待った。


──全部に理由を付けて、無駄を嫌って効率優先。でもその中に私が存在してる。蓮はそのことに気づいてるのかな?


「待たせた」


 私は袖の長いパーカーから両手を出し、彼が持ってきた白いマグカップを受け取った。カップからは温かいコーヒーの湯気が立ち、芳醇で優しい香りが鼻をくすぐる。私は両手でカップを包み、口元へと運んだ。熱い液体が喉を通って胃に落ちていくたびに、体の芯からじんわりと解きほぐされていく。


「……おいしい」

「当然だ、僕の配合に狂いはない」


 蓮は私にカップを渡した後、立ったままコーヒーを口にして眼鏡を曇らせている。


「ねえ、蓮」

「修正箇所がまだあるのか?」

「違うわよ。学園のみんな、今頃私たちのことであれこれ大騒ぎしてるかもね」


 私はカップを見つめながら、少しだけ悪戯な笑みを浮かべてみせた。


「『今夜は覚悟しておいて』って私が言ったでしょ。あれのせいで色々と大変だったんだから」

「君の不注意ではない」


 蓮は冷たくそう言うとワーキングチェアに座り、パソコンを操作し始めた。


「高橋を含め、彼らの情報処理能力の低さには呆れるばかりだ。僕たちの実態は、マスターデータの確認と修正という名のデスマーチ。しかし彼らの脳内CPUはピンク色に染まりきっているため、正常な答えを出すことができない」

「そうね……。ほんと、ただのビジネスよね」


 私はわざと明るい声で相槌を打った。でも、鋭い針でちくりと刺されたようなかすかな痛みが胸の奥に走る。


──ただのビジネス……。私の暴れまわる胸の鼓動なんて、蓮にとってはただのノイズでしかないか……。


 私は視線を落とし、マグカップの中を見つめた。そこには少し寂しそうな私の顔が映っていた。


「……白神」


 落ち込んでいるところに蓮が私を呼んだ。いつもの冷徹な声色ではなく、少しだけ戸惑ったような揺らぎを含んで。


「何よ、CEO」

「君に貸し出しているスマートウォッチから同期されたデータだが、不可解なエラーログを発見した」


 私はカップをテーブルに置いて、パソコンに向かっている蓮の隣に行き、エラーログを直接確認した。モニタに表示されていたのは、私が目を覚ましてパーカーに顔を埋めてジタバタと悶絶していた時刻。私の心拍数のデータが起きてすぐに「102」まで急上昇していた。


──ちょっとバカ蓮!私の恥ずかしいデータを真面目に考えないでよ!


「これはいったいどういう現象だ?朝の起床時における急激な血圧上昇は、凛エディションを構築するために君のデータを収集しだしてから初だ。まさか健康リスクが……」

「な、何言ってるのよ!このデジタルバカ!」


 私は蓮に怒声を吐きながら振り返り、そのまま口角を大きく上げたままソファに戻った。私のデータの隣には蓮の心拍数のデータが表示されている。そこには、深夜2時20分に「111」まで上昇したという蓮の最大心拍数が表示されていた。


 私は怒っている演技をしたままソファに勢いよく体を預け、カップを手に取って中身を飲み干す。


「……バカ蓮」


 私と蓮は3枚のモニタに遮られ、お互いの顔を確認することができない。それを利用して、私は自然な笑みでモニタの先にいる蓮の顔を見つめた。


「コーヒーごちそうさま。おいしかった」


 私は空になったカップをテーブルの上に置き、自分のスマートフォンを引き寄せてスリープを解除した。時刻は7時50分。マネージャーからのメッセージを確認すると、今日のスタジオ入りは10時。


──もう終わりか……。今から帰ってシャワーを浴びていつもの「私」になるには、8時にはここを出ないと間に合わないかな。


 私はソファを撫でながらゆっくりと立ち上がり、体を包んでいた蓮のパーカーを脱いだ。脱ぎ捨ててしまうのが惜しかった。パーカーを着ている間は彼が私を守ってくれているような錯覚を覚えてしまったのだ。


「これ、返すね」


 私は両手で丁寧に畳んだパーカーを、ワーキングチェアに座る蓮に手渡した。


「ああ」


 蓮はそれだけ言うと、私からパーカーを受け取る。パーカーを受け取る際、私の指に彼の指がほんの少しだけ触れると、静電気ではない何かが指先を走る。


──バカ蓮!


 私は慌てて手を引っ込め、ソファに戻って荷物を手にし、玄関へ向かって歩き出した。私の後ろからついてくる蓮の気配を感じながら、「恋するポンコツな女子高生」から「完璧な白神凛」へと切り替える。私が玄関で靴をトントンと鳴らして履き終えると、仮面を被って彼の顔を見た。


「じゃあまた来週、学園でね。昨日はお疲れ様」

「お礼を言うのはこちらの方だ。君のおかげで助かった」


 蓮は私から受け取ったパーカーを左手で抱えたまま、いつものトーンで言った。そして私が玄関に向き直ってドアノブに手をかけた瞬間、蓮が私を呼び止める。


「白神」

「何?」

「これを着ていけ」


 蓮は左手に抱えたパーカーを私に差し出した。


「なんで?もう風邪引かないけど?」

「現在の外気温は16度。更に今日は風が強い。その格好では君が自宅に帰るまでに急性上気道炎を発症する確率が67パーセントだと、僕の脳内CPUが弾き出した」


 蓮はいつも通りビジネスなトーンで、仕様書でも読み上げるかのように淡々と私に告げる。でも、彼の耳が赤くなっていることに気づいているのは私だけ。


「したがって、それは君に貸与……、いや、進呈しよう」

「じゃ、じゃあもらっとく」


 私はその場でパーカーを羽織り、蓮の匂いに包まれながら彼の部屋を後にした。マンションの廊下に出ると冷たい風が私の頬を撫でるが、体は熱くなっていた。


──バカ蓮!バカ蓮!バカ蓮!せっかく仮面を被ったのに完全に崩れちゃったじゃない!「外は寒いから着ていけ」って言えばいいじゃん!


 私はパーカーの袖で顔を隠した。でも、さっきまで彼が抱えていたせいで彼の体温がパーカーに少しだけ残り、コーヒーの匂いと彼の匂いがエレベーターという密室で容赦なく私を包み込む。


ブブッ。ブブッ。ブブッ。


──はあ……。今の心拍数も同期されてるんだろうな……。


 私はエレベーターが1階に到着するまでの間、頭の中で蓮を罵倒しながら彼の匂いに悶絶し続けた。

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