第03話:ありがとう
翌朝、自社オフィスを兼ねたマンションで、プロテインドリンクを作るためにシェイカーを激しく振りながら鏡の中の自分を見つめていた。
白神凛との「あーん」パフォーマンスでの異常な心拍数。その後の放課後ミーティング。それらについて徹底的なデバッグを行う。
──あれは「恋」などという非論理的なバグではない。ポイントは3つ。1つ目は、白神凛という国内トップクラスのリソースが急接近したことによる生物に宿る防衛本能。2つ目は、僕の使用しているプロトタイプのスマートウォッチの脈拍センサーに個体差があるということ。3つ目は、第2セミナー室の換気が不十分であり、室温が高くなっていたということ。これら複数の要因が同じタイミングで発生したシステムエラー。そうに決まっている。
「もっちゃん、大丈夫か?」
登校中、朝から引き続きデバッグを行っている僕の顔を覗き込みながら、高橋は言う。非論理的なデバッグ作業によって僕の睡眠時間は削られていた。睡眠を取らなければ大幅な効率低下を招くが、今回は作業を優先。
「問題ない。昨日の一時的なシステムダウンのリカバリーはすでに終わっている」
「システムダウンって、俺との昼食を断って凛ちゃんに『あーん』してもらって、耳まで真っ赤になってたやつ?SNSに上がってたぞ」
「あれはホワイトバランスの乱れにすぎない」
「はいはい、そういうことにしといてやるよ。お、噂をすれば」
高橋が視線で促した先、天桜学園の校門前には学園の女神である白神凛が立っていた。しかし、今日の彼女の周囲はいつもとは異なっている。全生徒が遠巻きに彼女を見つめ、不穏な空気がこちらまで伝わる。
──白神?
校門を背にした彼女の目の前には、真っ赤な高級スポーツカーが横付けされていた。そこから降りてきたのは天桜学園の生徒ではない。国内でも超が付くほどの金持ち学校として知られている「帝王館学院」の制服を着た男。整った顔立ちをしているが、仕立てのいいスーツのような制服の胸元を大きく開け、傲慢な笑みを浮かべている。そして、男の手にはスポーツカーに負けないほどの真っ赤なバラの花束が握られていた。
「あれって神宮寺じゃね?」
「不動産王の神宮寺グループの御曹司だろ?なんでここに?」
「神宮寺って凛ちゃんに付きまとってるって噂だよ」
僕は周囲の生徒たちが勝手に発したデータを集め、男の身元を瞬時に割り出す。「神宮寺恭平」は、白神凛に対する執拗なアプローチを続けている害虫の実物。
「愛しの凛。そんな安っぽい高校生活は終わりにしよう。今すぐこの車の助手席に座るといい。凛のためにクルージングを用意してある。その後は三ツ星シェフによるディナーが待っている」
神宮寺は彼女以外が視界に入っていないのか、片膝をついて花束を差し出していた。対する彼女は、いつも通り1ミリも揺らぐことなく微笑んでいる。しかし彼女の手は握りこぶしを作り、わずかに震えていた。
ブブッ。ブブッ。ブブッ。
僕のスマートウォッチが緊急のアラートを受信して震える。
(Chro-Noah:緊急通知!白神凛のストレス指数が急上昇中!至急、デバッグされたし!)
──なるほど、ここで虫除けの出番ということか。
「高橋」
「どうした?」
「僕の鞄を預ける」
「お、おう」
僕は鞄からノートパソコンを取り出して鞄を高橋に預ける。そして革靴の踵を鳴らしてターゲットへと向かった。
「凛、僕の計算では君がここに立ち止まっているせいで君の貴重なリソースが失われ、現在進行形で更なる無駄を生み出している」
僕がそう言いながら彼女と神宮寺の間に割って入ると、神宮寺は眉をひそめて立ち上がり、バラの花束を窓から車内へ投げ入れた。
「蓮……!」
「おい、誰だお前は?貧乏人の分際で僕と凛の大切な愛の対話を邪魔するな」
凛の瞳に安堵の光が宿るのを僕は見逃さなかった。彼女は一瞬で恋する乙女へとスイッチを切り替え、僕の左腕にそっと自分の両腕を絡める。
ブブッ。ブブッ。ブブッ。
「ごめんなさい、神宮寺さん。発表があった通り、私はこちらの最上蓮くんという将来を誓い合ったパートナーがいるの。だから、あなたからのお誘いを受けるわけにはいかないわ」
凛の対応に、神宮寺は僕の顔と僕たちの腕が絡んでいる部分に視線を交互に落とすと、怒りで顔を歪ませた。
「お前があの生意気な貧乏人か!高校生CEOだか何だか知らないが、神宮寺グループの資本力があればお前の会社なんてすぐに潰せるんだぞ!」
周囲の生徒たちは神宮寺の圧に息を呑む。不動産王の御曹司から社会的脅迫を受けた僕だが、貴重な脳内CPUのリソースを割り当てて彼を論破する準備に入った。
「君の発言には3つの致命的なバグが存在する」
僕はノートパソコンを開き、少しだけ操作をした後に画面を彼へと向けた。画面には神宮寺グループのここ数年の決算データと、真っ赤なスポーツカーの減価償却費のグラフが表示されている。
「1つ目は神宮寺グループの現在のフリーキャッシュフロー、つまり自由に動かせる現金および直近の投資計画を考えると、我が社のような非上場企業を敵対的買収するだけの資金は残っていない。また、無理に実行すれば君の父親である現会長は経営権を剥奪されるだろう」
「な、何だと!?」
「2つ目はそこにある高級スポーツカーだが、道路交通法や速度制限に基づいて考えると、その車の持つポテンシャルの90パーセント以上を無駄にしている。簡単に言えば金のかかる鉄の塊にすぎない」
神宮寺の顔が怒りで真っ赤に染まり、彼をあざ笑うかのような笑い声が周囲の生徒たちから漏れ始めた。
ブブッ。ブブッ。ブブッ。
僕は自分の腕を抱きしめている凛の柔らかなバグを意識しないよう、神宮寺の目を冷徹に見据え続ける。
「そして最後に、白神凛という僕の大切なリソースを奪おうとするならば、現在開発中のシステムに対する明確な遅延行為であり、業務妨害に値する。君の無意味な求愛行動を受ける凛の時給と、それにより我が社の受ける機会損失を計算すると、1分ごとに約15万円の損害を被る計算になる」
僕はノートパソコンを閉じ、わずかにズレた眼鏡を少し上げた。
「これ以上の損失は容認できないのでお引き取り願おう」
神宮寺は僕の圧倒的な正論の前に言葉を失い、急いで車に乗り込み、けたたましいエンジン音を響かせながら去っていった。
「すげえ……、あの神宮寺グループの御曹司を完全論破しやがった……」
「最上って冷徹だけど、凛ちゃんを守る時だけは容赦ないな……」
「最上くんってかっこよかったんだ……」
エンジン音が消えると静寂が訪れる。しかし1人の生徒が拍手を始めると、割れんばかりの歓声と拍手の嵐が巻き起こった。生徒たちの目には「愛する彼女を質の悪い金持ちから守り抜いたヒーロー」に見えているのかもしれないが、僕たちの脳内はそうではない。
「ナイスよ、CEO。見事な害虫駆除だったわ」
「これで君の大切なリソースをこれ以上失うことはなくなった。今回のコストパフォーマンスは計り知れない」
凛は幸せな笑顔を周囲に振りまきながら僕たちは校門をくぐる。ここで腕の絡みを解けば不自然であるため継続中だ。
◇◇◇
放課後、今日も第2セミナー室にてミーティングを行う。夕日の差し込む室内でいつものように向かい合って座っている。朝の神宮寺排除イベントがSNSで好意的に拡散された結果、アプリの検索数は上がり、ダウンロード数もわずかに増えた。
「……以上が進捗報告だけど、何か質問はある?」
凛はスマートフォンから目を離して僕を見る。僕はデータをチェックしながら淡々と答えた。
「完璧だ。君のマーケティング戦略のおかげで広告費は当初の予算から約21パーセントは削減できるだろう」
「そう、それならよかった」
凛はそう言ってスマートフォンを机の上に置いた。部屋の中は僕の弾くキーボード音が支配し、その隙間に外から部活動の音がかすかに混じる。
彼女はじっと窓の外を見つめていたが、意を決したように僕の方を向くと真っ直ぐに僕を見つめる。僕はその視線に気づき、彼女と視線を合わせた。そこには、学校で見せる笑顔でもビジネスで見せる顔でもなかった。
「ねえ、蓮」
「なんだ、白神。アジェンダの追加か?」
「違うわよ、バカ。……あの、朝のこと、ちゃんとお礼を言ってなかったから」
凛は少しだけ頬を赤らめ、視線を泳がせながら小さな声で言った。
「本当に助かったの。神宮寺さん、私の事務所の方でもなかなか強く言えないんだ……。ここまで来られた時は本当にどうしようかと思って……。蓮が私の前に立って論破してくれた時、私……」
彼女はそこで言葉を切り、大きく息を吸い込んでから言葉を紡ぐ。
「すごく安心した。……ビジネスだってわかってたけど、嬉しかった。ありがとう、蓮」
ブブッ。ブブッ。ブブッ。
その瞬間、僕の脳内CPUが完全にフリーズした。
──「ありがとう」とは感謝の言葉だ。文字数は5文字。大枠では挨拶に分類されるだろう。
「蓮?顔が真っ赤だけど、どこか具合が悪いんじゃない?」
凛が心配そうに身を乗り出す。彼女の顔が近付くたびに、僕の中にはエラーログが指数関数的に増大していった。
「い、いや!違う!問題ない!これは、室内の換気が不十分なため、体内に熱が溜まっているだけだ!君の感謝の言葉で僕の許容量をオーバーフロー……」
「何言ってるかわかんないんだけど」
凛は呆れたように言葉を発したが、彼女の耳が赤く染まっているのを僕は確認した。
「CEOってほんとに不器用ね。せっかく私が本気でお礼を言って……」
彼女は最後まで言い切らず、再び窓の外に顔を向けた。
「と、とにかく!私の時給に換算するとあなたに大きな貸しができたわけだから、今後の会議の時はコーヒーぐらい奢ってよね!経費じゃなくて自腹で!」
「……了解した、僕のポケットマネーから補填するとしよう。これで今朝の借金はクリアだ」
「……バカ蓮」
凛は窓の外を見つめたまま、小さく口を尖らせた。その後、僕たちはお互いに目を合わせることなくミーティングは終了。僕のノートパソコンには凛のスマートウォッチから送られてくるデータが並んでいる。そして、僕自身のスマートウォッチからもデータが送られてくる。そこには狂ったような心拍数のデータが並んでいた。




