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最終話:「Hello,World」(凛視点あり)

 12月。秋が終わり、本格的な冬の足音がすぐそこまで迫ってきている。暖房の効いた送迎用の高級車の後部座席から窓の外を眺めていると、歩道を歩く見慣れた2人が見えた。冷たく乾燥した風が吹き抜ける中、指定のダッフルコートを着込んだ蓮と、その隣にはコートの他に首元をマフラーでぐるぐる巻きにしている高橋くんの姿があった。


 車が彼らと横並びになった一瞬、私は彼に向かって窓越しに小さく手を振る。それに気づいた蓮は高橋くんに何かを言い残し、少しだけ口角を上げながら校門へと駆け出してくる。普段は効率や合理性しか考えない蓮が私のために走る。その事実だけで、朝から私の胸は甘く満たされた。


 校門前に車が止まり、スライドドアが静かに開く。私は暖かい車内から、凍えるような車外へと足を踏み出した。制服の上には指定のダッフルコートを着ているが、コートの重さに対して脚のラインが綺麗に見えるよう、少し寒いのを我慢して30デニールのストッキングを選択した。


「おはよ、蓮。走らなくてもよかったのに」

「いつもより50秒早い到着だな、凛」


 相変わらず秒単位で時間を計算している蓮に安心しながら、私はいつものように彼の腕に寄り添った。そして迷うことなく彼のコートの右ポケットに冷たい彼の右手を取って自分の左手と一緒に滑り込ませる。この時ばかりは左手首のスマートウォッチが邪魔に感じた。


「いっつも冷たいね」

「気温を考えれば必然だが、今は最高の暖房が隣にいる」


 ポケットの中では私たちの指が強く絡み合う。誰の目にも触れない場所で外の寒さに負けないほど冷たい蓮の手のひらを、私の熱が浸食していく。


「お、バカップルが来たぞ」

「ここ最近、2人だけの世界に入ってるよな?」

「文化祭で喧嘩してたって噂は絶対嘘だろ?あの2人の周りは完全に夏だぞ」


 登校する周囲の生徒たちが私たちを見て噂話に花を咲かせる。噂通り、私たちの関係は終わる寸前だった。でも、荒波を乗り越えた私たちの間に迷いはない。私たちの関係が偽装交際ではなく、ただの交際という口頭契約でもなく、「未来の夫婦」という独占契約になったことは誰も知らない。本来踏むべき過程をすっ飛ばして、私たちは人生のゴールであり、新たなスタート地点に向けて共に歩んでいる。


 私の頭の中には、理論武装を解除した蓮の不器用で全力のプロポーズがしっかりと刻まれている。偽装交際が終わった日から今日まで、私たちは偽物だった時間を本物に塗り替えるかのように数えきれないほどの言葉を交わし、過ぎ去った時間を取り戻すように濃密な日々を重ねてきた。そしてそれは寄りかかれる安心感に変わり、私たちはすれ違いながらも安定して日々を送っていた。


「あーあ、今日も放課後は生徒会室に籠もらなきゃ。役員選挙の書類チェックと引き継ぎ資料の作成が山積みなんだよね」


 私は甘えるように、ポケットの中で蓮の手をぎゅっと握りしめた。文化祭の次にやってくるのは生徒会役員選挙。来年の3月に卒業する現生徒会長である私が出馬することはない。でも、次代を担う新役員たちを選出するための厳正な選挙管理と、膨大な引き継ぎ資料の作成という裏方作業が山のように残っている。


 私たちの時間は限界まで削られていた。朝のエスコートの時間と、昼休み以外に時間を共有するタイミングはない。普通のカップルならこのすれ違いが原因で別れるのかもしれない。でも、私たちが結んだ独占契約がそれを防いでくれる。


「凛、君の声から疲労を感じた。僕の保守運用能力を持ってしても君が倒れたら元も子もない。そしてモデル業への……」

「わかってる。私の自己管理能力を甘く見ないで。でも、そうやって蓮が心配してくれるだけで私のモチベーションは上がっちゃうんだけどね」


 私は蓮に少しだけ悪戯っぽく微笑んで見せた。蓮は私に対して理論武装を解除するようになった。非効率的だとわかっているのに、自分の言葉を間違いなく私に届けるための最適解なのだ。


「蓮、またお昼にね」


 私の教室の前に到着すると、私は名残惜しさを隠して彼のポケットから手を抜いた。そして、蓮のせいで飴細工となってしまった女神の仮面を被り直す。


 昼休み。山積みの書類と戦っていると、生徒会室のドアがノックされた。ノックの後に入ってきたのは、私が呼び出した世界で1番頼れる助っ人。


「蓮!こっちこっち!」


 私は書類の山から顔を上げて蓮に助けを求める。周囲の選挙管理委員の2年生たちは蓮が入ってきて驚くどころか、救世主が来たような顔で崇め始めた。


「凛、選挙で僕の助けは不要だと言って……」

「助けてくれないの?」


 周囲の2年生が書類に向かっていることを確認した直後、私は女神の仮面を一瞬だけ外し、本気の甘えた顔を蓮に向けた。私の顔を見た蓮は目を見開き、耳を赤くして私の右隣にパイプ椅子を開いたので、会長の椅子を蓮に譲って私が隣のパイプ椅子に座った。


「……どれだ?」

「これなんだけど」


 蓮は慣れた手つきで生徒会室のノートパソコンを操作して不具合修正を始め、私はそれを眺めながら昼食を口にし始めた。


「最上先輩、相変わらず仕事が早すぎる……」

「会長とのコンビネーションはプロみたいにすごいよ」

「最強のバカップルじゃん」


 2年生の委員たちが小声で囁き合っているのが聞こえる。みんなは私たちの表面しか見ていない。蓮が高速でキーボードを弾いて不具合修正を行い、私は昼食を食べ進める。でも、会長机の下は幕板が目隠しとなっているため、私は靴を脱いで蓮の脚をフットレストにし始めた。


 脚を乗せた瞬間、蓮は私を睨むも私は笑顔で返す。机の下の無言の意地悪に周囲の生徒たちは気づかない。この意地悪が、忙しい私を癒してくれる最高の贅沢だった。


「これでいい」

「ありがとう、蓮」


 キーボードから外れた手を、机の下で私は1度だけぎゅっと握ると蓮も握り返す。


「他に用事がなければ帰るが?」

「これだけ、ありがとう」


 私は蓮に脚を叩かれたのでフットレスト扱いをやめると、蓮は2年生たちに称賛されながら生徒会室を出ていった。その直後、私のスマートウォッチが振動し、蓮からのメッセージを表示する。


(独占契約を結んでいるとはいえ、今後、あのように可愛い顔を学園では見せないように。)


「んふっ!」

「会長、大丈夫ですか?詰まりましたか?」

「だ、大丈夫……」


 私は水をゆっくりと飲みながら蓮からのメッセージを閉じた。理論武装を解除した彼の言葉は私の心臓に悪く、私の心に栄養を与える。


◇◇◇


 1週間後。生徒会役員選挙の全プロセスが終了し、天桜学園の生徒会は新バージョンへとアップデートされた。凛は生徒会長として全てのタスクを完全に終了したことになり、今日以降、彼女の持っていた生徒会室へのアクセス権限は実質的に消滅する。


 放課後、夕日が沈みかけ、夜が始まりつつある時刻。僕は全ての業務を終え、1人で生徒会長の机の掃除を行っている彼女のところへ向かった。


「全部終わったみたいだな、凛」

「うん。生徒会の仕事はなくなったし、あとは3月の卒業式だけ」


 凛が僕を視界に入れた瞬間、彼女の中の張り詰めていた糸が完全に切れ、強張っていた肩から力が抜けるのを確認した。長期間にわたる巨大プロジェクトを完遂した達成感と「生徒会長」という最高権力の喪失が彼女の表情に現れていた。


「これでやっと蓮の隣にいれる時間が増える」

「来月のファッション誌の表紙が決まったそうだが?」

「その話したっけ?」

「共有カレンダーに入っていた」

「そうだったっけ?」


 凛は片付けの手を止め、僕のパーソナルスペースへと真っ直ぐに侵入。そして一切の躊躇いなく僕に抱きついてきたので、僕も反射的に彼女の背中に腕を回してホールドした。かすかに甘い香水の匂いと凛の体温がダイレクトに伝わる。生徒会室のドアは施錠しておらず、誰かがログインしてくるリスクがあったが、凛の欲求を満たすことがここでの最適解。


「最初は蓮のアプリを広めるための広告塔だったのに、いつの間にか蓮に魅了されちゃった」


 凛が僕の耳元で呟いたことに対し、僕は腕の力を少しだけ強めて僕たちは更に密着する。


「凛、今の発言に訂正を求める。最初に魅了したのは君の方だ」

「え?」

「僕の構築した完璧な人生を根本からひっくり返したのは後にも先にも君だけだ」


 効率的で合理的。あらゆる物事に最適解を導き出すことが世界の全てであり、僕のアイデンティティだった。しかし「白神凛」という強烈なバグを前にして、僕は自らの認識を改めざるを得なかった。僕は彼女をバグとして受け入れ、彼女もまた僕の合理性を愛してくれている。


「蓮」


 凛は腕の力を緩め、少しだけ身を引いて僕の瞳を真っ直ぐに見つめてきた。


「ここを卒業した後は私も蓮も進学しないでお互いの仕事に専念するけど、どうしてもすれ違いは起こると思ってる」

「環境が変わればすれ違いは避けられない。だが、その点に関しては問題ない。独占契約が存在する」


 世間の一般ユーザーたちは、高校生CEOとトップモデルが今でも順調に交際し続けていると認識している。だが来たる4月1日、新年度の開始とともに僕たちは婚姻届を提出する。「進学せずに電撃入籍」というニュースはSNSのサーバーをパンクさせ、メディアを大パニックに陥れることが容易に計算できる。


「世間がパニックになりそうだけど、私たちの契約は何があっても揺るがないよね?」


 凛のこの言葉は不安から発せられたものではない。「最上蓮」という未来の夫から誓約という名の甘く重たい返答を引き出し、自分自身の承認欲求を満たすための極めて高度で意図的な挑発。


 僕は彼女のその意図を瞬時に理解し、あえて大きくため息を吐いてから彼女の最も欲しがっている言葉を出力した。


「僕たちの間に外的要因の入る隙間はすでに存在しない。世間では様々な憶測が飛び交うだろうが、凛が耳を傾けるべきは世間の声ではなく僕の声だ。それから、凛は1つ勘違いをしている。あの日、あの書類にサインをした瞬間から僕たちはすでに夫婦だ」


 僕のあまりにも実直で、重力すら歪めかねない重たい言葉に耐えきれなくなった凛はクスッと笑い声を漏らした。


「ほんと、蓮には敵わないな」

「勝ち負けの話では……」


 僕が反論しようとした瞬間、凛の柔らかな唇が僕の唇に重なった。思考が停止する。重なり合った唇によって全ての論理が吹き飛び、「白神凛を愛している」という情報だけが脳内CPUを支配していく。


「愛してる、バカ蓮」


ブブッ。ブブッ。ブブッ。

ブブッ。ブブッ。ブブッ。


 唇を離した凛は、顔が赤く染まっているのを隠すように音声データを高速で出力し、慌てて残っているタスクの片付けに入った。その一方で、僕は自身の内部温度が危険域に達していることを自覚しながら、決して汚れてなどいない眼鏡を外し、クロスで何度も何度も拭き続けるという無意味な行動を繰り返して内部温度を下げた。


 5分後、完全にクリーンアップされた生徒会長の机を、凛は最後にゆっくりと撫でた。


「蓮、帰ろ」


 凛は自然な動作で僕の腕に寄り添い、冷え込む12月の廊下を並んで歩き出した。僕たちの未来に偽りのデータは存在しない。結んだ手のひらは隠す必要などなく、僕が指先に力を込めれば即座に彼女もそれ以上の力で握り返してくる。


「あ、そうだ。独立の相談なんだけど」

「問題ない、完全にバックアップしよう。凛の独立などChro-Noahを作るよりも……」

「はいはい、わかったわかった。ところで、年末年始でうちの両親に挨拶するっていう予定が入ってたけど?」

「あ、ああ……」

「蓮でも緊張することあるんだ」

「模範解答も過去問も存在しない最高難易度の試験になる。想定される質問は網羅したつもりだが、何が起こるかわからない。凛、当日は僕の隣でフォローをお願いしたい」

「んー、考えとく」

本編はここまで。

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