第16話:狂気の沙汰もバグ次第
僕の腕の中に、まるで電源を落とされたマシンのように凛の体が崩れ落ちた。ここから出ていこうとした彼女から転倒の予兆を確認したので、僕はすぐに彼女の体を後ろから強引に抱きとめて腕の中に抱え込んだ。
しかし意識を失っている。だらんとした体をゆっくりと床に座らせ、背中を壁に預けた。極度の感情的負荷によりシャットダウンした凛の体からは一切の反発が消え、かすかな呼吸だけを行っている。
「ん……」
僕は彼女の長い脚の上に陣取り、乱れた前髪を直す。長すぎる数十秒が経過すると凛の瞼がビクリと震え、意識が回復した。
「意識が戻ったか」
「……蓮?」
焦点の合わない彼女の瞳が僕を捉えた瞬間、再び大粒の涙が零れ落ち、そのまま激しく暴れ始めた。
「私を損切りしたんだから触らないでよ!なんで抱きしめたりするの!」
凛は両手で僕の胸を叩き、僕を退かそうとする。しかしここで逃がせば、僕たちは永遠に交わることのない人生を送ることになるだろう。
「凛、暴れるな」
「嫌!もう蓮の顔なんて見たくない!どいて!」
僕は暴れる彼女を胸に抱き、少しでも落ち着かせるために頭を撫でながら音声データを発した。
「凛、話を聞くんだ。僕は君からの仕様変更を明確に拒絶した。だが、それは白神凛という存在を削除するためではない」
「え……?」
抱きしめた後も暴れていた凛の動きがピタリと止まる。
「『ただの恋人』という『何の法的拘束力も外的要因へのファイアウォールを持たない脆弱な口頭契約などで妥協してはいけない』と僕の脳内CPUが弾き出した」
僕はゆっくりと凛から体を離し、再び涙で濡れた瞳をしっかりと見据える。
「僕の人生において、白神凛という存在は最も重要なコアだ。その最重要インフラを、いつでも解除可能な『交際』という生温い環境で運用するリスクをCEOとして……、いや、1人の男として看過できるわけがない」
「蓮……?何を言って……」
混乱する凛の瞳から流れる涙を拭い、僕は1度立ち上がった。そして、机に置いた革製のバインダーを手にし、再び凛の所に戻る。
「凛、これが僕の唯一にして絶対の最適解だ」
凛は恐る恐るバインダーを受け取り、ゆっくりと開いた。
「こ、れ……」
◇◇◇
「これが僕の導き出した『最適解』だ。僕のシステムは彼女と言うバグを内包した状態でしか最高のパフォーマンスを発揮できない。だから、僕は彼女そのものを僕のインフラに統合すると決めた」
「……どういう意味です?」
「西園寺、君の提案には感謝する。そのおかげで、僕のシステムに存在する致命的な脆弱性に気づくことができた」
僕はドアノブに手をかけたまま振り返り、西園寺に最後の言葉を置いていった。
「西園寺、僕はこれから白神凛に対する『M&A』の策定に入る」
自宅に戻った僕は、トリプルモニタの光を浴びながら深刻な顔で1つレポートを作成していた。画面に展開されているのは事業計画書でもプログラミングの画面でもない。「白神凛との関係性における脆弱性の分析と対策」という極秘プロジェクト。
──なぜ僕のシステムはあんなにも容易く崩壊の危機に瀕したのか。内藤清正という外部からの攻撃。セミナー室でのエラーの応酬。決定的だったのは、凛自身の口から発せられた偽装交際の破棄宣言。これらのバグを引き起こした根本的な原因は一体どこに?西園寺の提案か?僕自身のコミュニケーション能力の欠如も要因かもしれないが、根本的な問題ではない。
僕はキーボードを叩くのを止め、温かいコーヒーを胃に流し込んだ。
──最大のバグ。それは僕と凛の交わした偽装交際そのものであり、ただの恋人という絶望的なまでの脆弱性にある。「付き合う」というステータスは当事者間の口頭契約に過ぎない。法的な拘束力は皆無であり、他者の介入を防ぐための社会的なファイアウォールも存在せず、どちらかの感情的エラーでいつでも一方的に破棄することができてしまう。だからこそ、内藤のような砂糖の塊が凛の隣に入り込み、凛は僕と西園寺との商談結果を聞く前に、自分は損切りされる存在だと勝手に考え、偽装交際の破棄という命令文を実行してしまった。
「こんなエラーはもう御免だ」
僕は誰に向けてでもなく、1人しかいない自宅で呟いた。
──凛が誰かに触れられるかもしれないという恐怖。凛が僕の前から消えてしまうかもしれないという絶望。あんなシステムダウンは人生で1度経験すれば十分すぎる。
僕の人生のロードマップの再構築には白神凛が必要不可欠。彼女のいない人生はもうあり得ない。ならば、僕の選ぶ最適解は1つしかない。凛を誰も手出しできない完全なブラックボックスへと移行し、彼女の中にある損切りという不安を完全に消し去ること。
僕はトリプルモニタに新しいドキュメントを立ち上げた。「白神凛に対するM&A計画書」というタイトルで。
ビジネスの世界において、会社にとってプラスになる外部リソースを、恒久的かつ独占的に確保するための最も合理的手段。それがM&A、包括的経営統合だ。相手の株式を100パーセント取得し、自社の構造に組み込む。
これを個人間の人間関係に変換した場合、該当する法的手続きはたった1つ。「婚姻」である。僕は脳内CPUの弾き出した飛躍しすぎな計算結果に思わず自嘲気味な笑みを浮かべた。しかし合理的に考えれば考えるほど、これほど理にかなった仕様変更はない。
──高校生同士の結婚か。一般的に見れば完全に狂気の沙汰だろうな。だが、それだけでは足りない。
僕は更に新しいドキュメントを立ち上げ、凛と生涯を共に歩むための「誓約書」の策定を開始した。
その1:専有稼働
最上蓮および白神凛は互いを独占し、第三者の介入や誤解を招く行動を禁止する。
その2:衝突時の逃亡禁止
感情的な衝突が起きた場合、一方的な通信遮断や現場からの逃亡を禁ずる。衝突した原因を共同で解決しなければならない。
その3:無期限のサポート
最上蓮は、白神凛の抱える不安やコンプレックスを含めた全てを受け入れ、生涯にわたって守り、支え続けることをここに誓う。本サポートに有効期限はなく、解除のオプションは存在しない。
──完璧だ。
その後、僕は事前に役所のサイトからダウンロードしておいた婚姻届をA3用紙に印刷。そしてボールペンを手に取り、深呼吸をしてからペン先を紙に滑らせる。僕は自分の欄を書き終え、次に彼女の欄を記入していく。祈りを込め、絶対に逃がさないという執念を刻み込むように書き連ねた。
──これでいい。あとはこの誓約書に納得してもらい、届出人署名にサインをしてもらえば契約締結となる。
僕は誓約書を印刷し、記入済みの婚姻届を革製のバインダーへと丁寧に挟み込んだ。時計の針はすでに午前5時を回っている。窓の外は薄っすらと夜明けの光が照らし始めていた。
徹夜で狂気的な誓約書を作成し、僕の脳内CPUは限界に達している。しかし、僕の意識は恐ろしいほどに澄みきっていた。僕は真っ白になってしまったスケジュールカレンダーを画面に出す。
──僕の計算が狂わなければ、パーティー終了後、このカレンダーは僕のタスクや彼女のタスク、2人の共同タスクで死ぬまで完全に埋め尽くされるだろう。ただの彼氏彼女になりたいなんていう脆弱な提案は受け付けない。僕が君に要求するのは人生の完全な統合、M&Aだ!
◇◇◇
凛の濡れた瞳が大きく見開かれた。凛は涙を拭い、紙に刻まれた文字をしっかりと捉えようとしている。
「婚姻届……?結婚って、私たち……、まだ高校生……」
突然の出来事に混乱している凛は、上ずった声でぶつ切りの音声データを出力する。
「法律上、卒業のタイミングが好ましい。だが、この誓約書は今日この瞬間から効力を持つ取り消し不可能なものになる」
僕は婚姻届の後ろにある誓約書を見せながら説明をする。
「この誓約書の最後に『無期限のサポート』とある。僕は凛が抱える不安やコンプレックスなどを全て受け入れる。ここに書かれている通り、解除のオプションは存在しない」
「……」
「これでもまだ僕が西園寺の、凛以外のところへ行くというバグが君の中には発生するか?」
僕の用意したロジックと法的根拠の前に、凛は言葉を失っていた。しかし凛の瞳からは涙が止まらず、その表情には戸惑いの色が残る。
──やはり書類だけではダメか……。
僕は、書類に視線を落とす彼女の目の前で大きく深呼吸をした。彼女が求めているのは綺麗な書類ではない。
「凛」
僕は凛からバインダーをゆっくりと取り上げて床に置き、存在を確かめるように彼女の両肩をしっかりと掴んだ。
「僕は、言葉で感情を表現することを極めて非合理的だと定義してきた。だが、現在の君のシステムに僕の意思を100パーセントの精度でインポートするには、感情を言葉で伝えることが最適解だと再計算した」
「蓮……?」
「僕は……、凛を失うのが怖かった」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥の炉が一気に燃えたぎり、一切のフィルターを通さずに僕の考えを彼女へとぶつける。
「内藤が君に触れた時、君が僕以外の男に微笑んだ時、僕の脳内は嫉妬と怒りで真っ黒になった。西園寺の提案なんて、君が僕の隣からいなくなる未来の損失に比べればゴミクズ以下の価値しかない」
凛の瞳が大きく揺れる。僕は彼女の目から溢れ出た涙を自分の手で優しく拭った。
「凛は僕のことを冷徹なデジタルバカだと言った。その通りだ。僕は君の感情に振り回され、何度も処理落ちを起こした。『白神凛』という存在は、僕の完璧だった人生のロードマップを破壊しつくす厄介なバグだ」
僕は凛を強く引き寄せ、抱きしめた。
「僕はもうその厄介なバグがないと生きていけない。凛、愛している。偽装ではない。ただ1人の男として、白神凛という女性に狂うほど惚れてしまったんだ」
僕の言葉の後に静寂が訪れた。理論武装を解除し、高校生でもCEOでもなく、ただの最上蓮としての言葉。それはあまりにも不器用で、重く、独りよがりな感情の塊。しかしその結果、僕の人生史上最大の非効率的な出力は彼女の最も深い部分へと到達した。
「……バカ」
震える声で彼女の声が聞こえた。それを聞いた僕が体をゆっくりと離そうとすると、凛は僕の背中に手を回し、力強く抱きつく。
「バカじゃないの!高校生であんな……、あんな頭のおかしい書類作って……。それに、そんな反則みたいな言葉で……」
「凛を僕の隣に置き続けるためにはこれしかなかった」
僕が凛の両肩に手を置くと、彼女も腕の力を緩めた。そして体を離すと、彼女の目からは何度目かわからない涙が溢れ出していたが、それは絶望の涙ではない。彼女の奥にある最も純粋な感情が限界を超えて出力されていた。
「ほんと……、どうしようもないデジタルバカ……」
凛は涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら笑う。その笑顔はどんな美しい花よりも美しい笑顔だった。計算されつくしたトップモデルとしての笑みではなく、僕の心臓を直接鷲掴みにする、白神凛の本当の笑顔。僕は胸ポケットからボールペンを取り出し、彼女に差し出した。
「凛、答えを聞かせてほしい」
凛は僕が差し出したボールペンを震える手で受け取った。ビジネスにおいて、サインが完了しなければ契約は成立しない。しかし、僕の心配は杞憂に終わった。凛はバインダーを抱え、一切の迷いなく、力強い文字で自分の名前を書き込んでいく。インクが紙に染み込んで文字として定着した瞬間、僕と凛の間に存在していた全てのバグが消滅した。
「……これでいい?」
凛はサインした書類を僕に見せると、両手で涙をぬぐった。
「私の面倒なバグに付き合って、一生メンテナンスし続ける覚悟はできてるの?」
「僕の保守運用能力を甘く見てもらっては困る」
僕は凛からバインダーとボールペンを受け取り、床に置く。
「偽装交際は今この瞬間をもって終了とし、これより本番環境へと移行する」
僕は涙が止まりつつある凛の顎にそっと手を添え、少しだけ上を向かせた。凛の瞳が驚きと甘い期待に揺れると、彼女はゆっくりと瞳を閉じる。そして、僕は凛の震える唇に自らの唇を重ねた。
カメラのフラッシュもない、SNSの反応も関係ない、お互いの熱量だけを直接シンクロさせる物理的な接続。唇が触れ合った瞬間、僕の脳内にはこれまで動かしてきたどのプログラムでも得られなかった幸福感が押し寄せてきた。効率も合理性も全てが消し飛び、凛の確かな熱が僕を完全に支配した。
永遠のような数秒間が流れた後に僕が唇を離すと、凛の涙は止まっていたが、変わりに顔が真っ赤になっていた。そしてそれを隠すように、凛は僕の胸に顔を埋めた。
「……バカ蓮」




