第15話:差し出した心(凛視点)
文化祭終了後、生徒たちが片付けに追われる中、文化祭に来ていた内藤に屋上へと呼び出されていた。内藤はフェンスに背中を預けながら、いつになく真剣で少しだけ傷ついたような目で私を見つめている。
蓮と大喧嘩して以来、私の心にはぽっかりと穴が空いた。共有していたカレンダーからは蓮のスケジュールが消え、彼からの連絡も途絶えた。その2つが、西園寺ホールディングスという最強のパートナーへと乗り換えるための移行期間であることを突きつけてくる。
モデルの仕事中も、学園の女神を演じている時も、息をするだけで胸の奥が痛んだ。ただの都合のいいリソースでしかなかったという惨めさと、全てを兼ね備えた西園寺さんへの劣等感。自分の価値が根底から崩れ、ぽっかりと空いた心の穴には次々と冷たい風が吹き込んでくる。でも、私を一番苦しめていたのは、ぽっかりと空いた穴の正体が蓮への「愛」そのものだという自覚だった。
「最上は凛を傷つけることしかできないよ。あいつの頭にあるのはアプリの成長と数字だけだ」
内藤はゆっくりと私に近付き、その大きくて温かい手で私の手を握った。
「俺なら凛を絶対に泣かせない。ステージ裏で血の滲むような努力をしている凛を俺は知ってる。俺なら1人の女として凛を愛して守ってやれる。俺のところへ来い。もう無理をして演技をする必要はないんだ」
それはあまりにも甘く、絶望の底にいる私にとっては麻薬のようだった。彼の手を握り返せば、西園寺さんと比べられる惨めさからも、蓮から損切りされる恐怖からも抜け出し、全てを肯定してくれる甘美な安心感が手に入る。
でも、どれだけ砂糖を振りかけられても私の心は揺らがなかった。砂糖に埋もれながら内藤に手を握られた瞬間、私の脳裏に浮かんできたのは冷徹なデジタルバカの顔だけ。
『君の足の皮が剥けない最適なウォーキングルートをミリ単位で計算する』
──内藤先輩は私を甘い言葉で肯定してくれる。きっと大切にしてくれる。でも蓮はそうじゃない。私が傷つくなら傷つかない方法を考えてくれる。多分、私のことはほとんど肯定しない。でも、甘い言葉で誤魔化したりしない。私の隣で文句を言うけど、一緒に泥を被ってくれる。
今の私にただ甘やかされるだけの優しさなんて何の価値もなかった。私が本当に欲しいのは、効率的で、合理的で、でも不器用で、私のやることなすこと全部に容赦なく口を出してくる冷徹で大好きな蓮の言葉。
体の奥底から確かな熱が込み上げ、私は決まっていた覚悟を内藤に示す。
「ありがとうございます、内藤先輩」
私は自分でも不思議なほど自然な素の笑顔を浮かべていた。そして、握られた手を自分の意志で彼の手からゆっくりと引き抜く。
「……凛?」
「先輩の言う通りです。蓮はほんとにどうしようもないデジタルバカで、理屈っぽくて、合理的で、私の気持ちなんて1ミリも理解してくれない欠陥品です。でも、私はその欠陥品じゃないとダメなんです」
「どうしてだ?あいつは君をただの道具としてしか……」
「先輩は『私の傷を知ってる』と言いました。血の滲むような努力を褒めてくれました。それはすごく嬉しかった。モデルとしても女の子としても」
私は自分の胸にゆっくりと手を当てた。そこにある私の心に空いた穴は、今もなお大きくなり続けている。
「でも、蓮は私の傷を絶対に褒めたりしません。私が傷つくなら自分の身を挺してでも守ってくれます。私の足の傷を見た時も言ってました。『君の足の皮が剥けない最適なウォーキングルートをミリ単位で計算する』って。私のスケジュールを全力で管理しようとするんです。文句も言うけど、その文句も大好きなんです。私は、血生臭い努力を褒めてくれる優しい王子様より、私の隣で私のバグを必死に直そうとしてくれるあのバカがいいんです」
私の言葉に内藤は大きく目を見開いた後、負けを認めたかのように深く長いため息を吐いた。
「はあ……。そこまで言うならちゃんと最上を手に入れてこい。そして絶対に離すな」
「はい。ありがとうございました、内藤先輩」
私は深々と頭を下げて屋上から去った。足取りは軽く、迷いは完全に消え去っていた。
◇◇◇
パーティー当日。天桜学園の体育館はランウェイのように眩い光と熱気に包まれていた。体育館に掲げられた巨大なスクリーンには、蓮の作ったアプリの成果を示すグラフとアンバサダーである私のメインビジュアルが特大で映し出されている。
Chro-Noahは西園寺ホールディングスの後押しがあったか否かは不明だが、国内で大きな成果を出した。今日はその大々的な記念パーティー。会場を歩く私の周りには次々とメディアが集まり、称賛の言葉を吐き出していく。
私は漆黒のイブニングドレスに身を包み、いつも以上の「白神凛」として対応を重ねた。でも、私の視線は会場全体からただ1人の人物を探し続けている。
──いない。
会場は賑やかだったが、今日の私はあくまでもChro-Noahのアンバサダーという看板としての役割のみ。世間は私たちが交際していると信じ、多すぎる参加者を別々で捌いていると思っているだろう。しかしその実態は偽装交際そのものが凍結中であり、蓮の隣という特等席はすでに剥奪されている。
──あれは……、蓮?
フラッシュの止まないVIPエリアに彼の姿を見つけた。ダークスーツを着こなし、投資家やメディアに囲まれながら、いつもと変わらない表情で淡々とプレゼンをこなしている。その隣には西園寺さんの姿がない。
──西園寺さんがいない?交渉はどうなったの?今日の最後に発表?
蓮は1度だけこちらを見た。久しぶりに彼と目が合ったが、彼は何も言わず、表情すら変えず、冷たい態度で視線を外して再び投資家たちとの会話に戻っていった。
──ああ、そっか。私はもう用済みってことね。
国内1位という成績を残し、私の広告塔としての役目はこれ以上ない形で終わりを迎えた。彼のその冷たい視線がそう物語っている。
パーティー終了後、蓮と最後の話し合いが待っていた。そこで私たちの契約は正式に破棄され、私の仕事も終わる。明日からはただの同級生であり、赤の他人。
◇◇◇
パーティー終了後、私は体育館から逃げるように歩き出した。向かった先は第2セミナー室。そこは私と蓮が幾度となく会議を行った場所。
蓮から連絡が来た時は心臓が悲鳴を上げると同時に熱くなった。それが希望でも絶望でも関係なかった。「蓮からメッセージが来た」という事実だけが私を満たす。
──蓮、覚悟しててよね。私が蓮の人生を根っこからひっくり返してやるんだから!
私は誰もいない廊下を歩きながら、仮面を破壊するために両手で強く頬を叩いた。
パチンッ!
──もう偽装交際は終わり。蓮が私を捨てて西園寺さんを選んでもいい。私が欲しいのはビジネスパートナーとしての蓮の隣じゃない。
第2セミナー室のレバーハンドルを押し下げて中に入る。そこに蓮の姿はない。午後6時25分。予定の時間まであと5分。
私は椅子に座り、スマートフォンを握りしめた。光る画面に映るのは時計。時計で時間を確認しながら、焦る気持ちを必死に抑えて蓮を待つ。
午後6時29分59秒。第2セミナー室のドアが開いた直後、私のスマートウォッチが鳴った。私がスマートウォッチのタイマーを切ってから顔を上げると、革製のバインダーを脇に抱えた蓮の姿があった。
「1秒の遅れもなし。時間通りね」
「当然だ。タイムマネジメントすらできない人間に、市場を破壊することはできない」
久しぶりに会うにも関わらず、蓮はいつも通り意地悪で挑発的な笑みを浮かべる。蓮は私に背を向けてゆっくりと扉を閉めると、少しだけ深呼吸をしたような気がした。そして振り向いた彼は私の顔を見て、机を挟んだ向かい側の椅子に腰を落ち着け、バインダーを机の上に置いた。蓮は私を見つめ続けている。その沈黙が私の心臓を痛めつけた。
「話って?」
「僕たちの偽装交際は一時凍結となっている。だが、プロジェクトの凍結解除、もしくは正式なクローズの手続きを行うためには当事者間での直接的な対話が不可欠となる。よって、このような場を設けさせてもらった」
どこまでも論理的で数字と合理性で世界に立ち向かう、私が1番大嫌いで、私が1番大好きな高校生CEO。いつもの冷徹さは健在で、その冷徹さに触れた瞬間、私は我慢ができなくなった。
「もういい、もう演技は終わり」
私は椅子から立ち上がり、蓮の隣に向かって歩き出す。
「アプリはダウンロード数1位。私をアンバサダーにした結果、蓮の計算以上の結果を叩き出したはず。違う?」
蓮も椅子から立ち上がり、私の正面に立った。ヒールの靴を履いているせいか、いつもより蓮を見下ろす形となる。
「君のパフォーマンスは僕の計算を大幅に上回った。これには感謝している」
「だったら!」
私は両手でドレスの胸元を強く握りしめた。
「もう『偽装交際』なんていう都合のいい契約の裏に隠れるのは終わり。私、気づいたの。内藤先輩に告白されて、蓮と大喧嘩して、カレンダーが真っ白になった後のこと」
視界が涙で滲み始める。私はそれを必死に堪えながら、最も傷つきやすい部分を真っ直ぐに突き出した。
「自分が死んじゃったんじゃないかってぐらい何も手につかなかった。頭の中が蓮のことでいっぱいで、胸も苦しくて息もできなかった」
蓮の眉がピクリと動くも、何も言わずに私の言葉を待っている。
「私、蓮が嫌いだった。冷徹で効率とか合理的とか、わけのわからない言葉もたくさん使う。私のこともリソースとしてしか思ってないし、ロボットみたいな男だと思ってた。でも、蓮は私のことを考えてくれてた。蓮はロボットなんかじゃない。根っこは世界で1番優しい。私はその優しさに触れちゃったの。その優しさの積み重ねのおかげで私は蓮のことが大好きになった」
涙が頬を伝う。もう止まらなかった。私は導き出した真実を喉の奥から絞り出すように吐き出す。
「私は蓮と本当の意味で、心を通わせた真剣な交際がしたい。偽装でもビジネスでもない。白神凛として最上蓮の隣にいたい。西園寺さんの提案を受けてもいい。それでも、プライベートでは蓮の隣にいたい!これが私の本心!」
セミナー室に私の声が響き、消えていく。これは私の心を完全に差し出した究極の賭け。彼がその気になれば、簡単に私の心を破壊することができる。
──蓮、何か言って……。
蓮は動きを止めていた。彼の表情はまるでフリーズしたかのように固まり、どんな計算をしているのかは読み取れない。私は震える唇を噛み締めながら、祈るような気持ちで蓮の言葉を待った。
「凛」
蓮は視線を私から床に移動し、眼鏡を直してからもう1度私に視線を合わせた。彼の口から発せられた声は恐ろしいほどに低く、一切の揺らぎを感じない。動揺も、赤面も、感情の乱れもない。
「君の提示した仕様変更についてだが、断らせていただく。凛との『交際』は承認できない」
私の世界が止まる。蓮の言葉の意味を理解するまでに少しだけ時間が必要だった。
「な、なんで……?」
私は口からひねり出した音を吐き出す。
「理由は極めて単純だ」
蓮は私にとどめを刺すため、淡々と説明を積み上げていく。
「君の言う『真剣交際』というスキームは脆弱性の塊で、不確実性が高すぎる。感情というパラメータに依存した口頭契約ほど信頼できないものはない。現に、君はその脆弱性からあの男に言い寄られていただろう」
「あれはそういうんじゃ……」
「そうやってすぐに感情的なエラーを起こし、仕様をひっくり返そうとする。それが『交際』というシステムの限界なんだ」
蓮の声はどこまでも平坦で、私をただのリソース以上としては見ていなかった。
「僕にとって君を失うということは、Chro-Noahのアンバサダーとしてだけではなく、僕の人生の全てにおいて最大級の損失を意味する。だからこそ、そんな不安定でいつでも解除可能な『交際』という生温い環境を、僕が承認するわけにはいかないんだ」
──ああ……、そういうこと……。
私の頭の中で最悪の単語が赤く点滅し、全ての思考を奪い去る。蓮は私を「損切り」したのだ。
『人生の全てにおいて最大級の損失』
そんな言葉ですら、私を傷つけずに契約を終了するための社交辞令にしか聞こえなかった。結局、蓮は西園寺ホールディングスという最強のリソースを選んだ。感情に振り回されて扱いづらい私は、彼の輝かしい今後の人生においては排除すべきだったのだ。
「……最低」
私の両目から大粒の涙が溢れ出した。
「最低のデジタルバカ!!」
私は、蓮に向かって残された全熱量を暴言に変えてぶつけた。
「結局!蓮は最後まで私の心を見てくれなかった!私がどれだけ蓮のことが好きか!どれだけ覚悟を持って告白したか!蓮にとっては全部不安定なパラメータでしかなかった!」
涙で視界が歪み、蓮の顔を正確に認識できない。あんなに大好きだった蓮の姿が、冷たい氷山のように見えた。
「もういい!もう蓮なんて知らない!顔なんて見たくない!私の記憶も全部消して!」
ブブッ。ブブッ。ブブッ。ブブッ。ブブッ。ブブッ。
心臓が痛むほどの声を上げ、私の全身が絶望という過負荷に耐えかねて悲鳴を上げ始める。私は蓮に背を向けてセミナー室のドアに走り出そうとした。このまま蓮と一緒にいたら、私の心もプライドも全てが粉々に破壊され、二度と立ち直れなくなってしまうと思った。でも、涙で視界が歪んでいた私の足元は大きく揺らぐ。
──あ……、転ぶ……。私の恋はこんな情けない姿で終わるんだ……。
体の軸が傾き、硬い床に引き寄せられていく。床にぶつかる衝撃に備えて目をぎゅっと閉じると、信じられないほどの強い力で背後から引き戻された。
でも、私の世界は暗転した。それは物理的な衝撃によるものではない。絶望が私の全身を支配し、転ぶという醜態がそこに加わったことで私の防衛本能が機能し、私の意識を奪った。意識が深い闇の底へ落ちていく中で、私を抱きとめた彼の腕の温度が私の全身を優しく包み込んでくれた。




