あほ丸の嘘
「おはようございまーす」
中野林は始業の30分前に教室へ到着した。クラスでは早い方で、一番早く到着することも多いのだが、今日は先に席についている生徒がいた。
窓際の最前列から声があがる。
「おはようございます」
その声に反応して、中野林は顔を向ける。あほ丸が自分の席からこちらへ上半身を向けていて、目があった。
「あほ丸! おはよう!」
中野林はパァッと笑顔を咲かせて応えた。歩み寄ろうと半歩出たところで、ガタッとあほ丸が席を立ったので立ち止まった。中野林の席の前まであほ丸はやってきて言った。
「中野林……拙者、お主に詫びねばならぬことがある……」
神妙な面持ちで続けた。
「拙者、お主に、嘘をついた。誠に申し訳ない!」
あほ丸は腰を90度に曲げ、頭を下げて停止した。いきなりの事態に中野林は慌てた。
「えっ!? いやいや、そんなかしこまらなくても……と、とりあえず顔を上げて?」
「すまなかった……」
「わかったから、いったん顔を上げて? お願いだから」
そう言われて、あほ丸は上体を起こして申し訳なさそうに中野林を見つめた。
「あのさ、事情を説明してもらえる、かな」
あぁ、とあほ丸は口を開こうとしたが一度やめて、言った。
「立ち話もなんだ。まぁ、掛けてくれ」
「うん」
中野林は自分の席に座ると、立ったままのあほ丸を見上げた。
「お主が言っていた──」
「ちょっとまって! 僕だけ座ってあほ丸が立ってるのおかしくない? あほ丸も座りなよ」
あほ丸はポカンとした表情を一瞬浮かべてから、
「いや、拙者は詫びる立場であるし、最後に土下座するからこのままの方が──」
「いや! 土下座しなくていいから! ていうかしないで! お願いだから!」
あほ丸は眉をへの字にすると、自席から椅子を運んできて中野林の脇に置き、着席した。
「お主が言っていた、入学式の日にカツアゲからお主を助けた者だが、拙者ではないと嘘をついた。あれは拙者だ。お主のこともしっかり覚えておった」
「そ、そうだよね!? ……どうして人違いだとか、僕のこと、知らないふりしたの?」
あほ丸は困ったような表情で、
「お主が変に気を遣うと悪いと思ってな。実は、昨日の放課後にカツアゲ野郎から呼び出しを受けていた。また喧嘩になるやも知れぬと思って、お主が気に病むと悪いと思ったのだ。正直、同じクラスであることを知ってまずいと思っていた。きっと恩を返そうと接触してくると思ったので、しらを切ることにしたのだ。だが、この件は昨日やっと落ち着いたのでな。嘘をつく必要もなくなった」
「そうだったんだね……僕の為に……ごめんね」
「いやいや、お主は何も悪くない!」
「でもさ、あほ丸が僕を助けなければ、その、髪の毛も、切られずに済んだでしょ? ……僕のせいで、出席停止にもなっちゃうし、僕と会わなければ──」
「それは違うぞ中野林!」
あほ丸は声を張って続けた。
「困っている人がいれば助けるのが人の道理! 拙者は胸を張って、正しい行いをしたと言える。お主を助けたことを少しも後悔していない! 逆にあそこで見て見ぬふりをしたなら、拙者は後悔したであろう。髷も停学も、お主のせいではない。たしかに失ったものはあるが、それは拙者の責任、行動を起こせばそれなりの危険をはらむことは必至、覚悟の上。それに──」
あほ丸は、これまでにないほど優しい笑顔を浮かべて中野林を見つめながら、
「素晴らしき友を得た。この上もなき幸せだ」
力強くそう言った。
「あほ丸……」
中野林は、いつも険しい顔をしているあほ丸が、こんなに優しい表情になることに驚きつつ、少しも自分のことを恨んでいない、真っ直ぐな瞳に感動していた。
「お主の親切を、突き放す様なことも言って、済まなかった……拙者は嬉しかったのだ……だから、その……もしも、まだ、可能であればなのだが……」
あほ丸は、もじもじと身体を揺らしながら、恥ずかしそうに両手を合わせて、
「拙者に勉強を教えてくれぬだろうか」
そう言いながら頭を下げた。
「もちろんだよ! 僕たち、友達になったんだからさ。僕からも、しっかり言わせて?」
中野林は、あほ丸の身体を抱え起こして、あほ丸の顔を覗き込むようにして言った。
「僕を助けてくれて、本当にありがとう!」
「あぁ……どう、いたしまして」
二人はほほ笑みあい、頷き合った。
「ねぇあほ丸。今日の昼、一緒に食べようよ。久保も一緒に」
「おぉ、それだ。拙者、今日は弁当を忘れなかったぞ。お主達にも借りを返さねばと思ってな、甘味を作ってきたのだ」
「甘いもの? なんだろ。楽しみだなぁ。でもそんなに気をつかわなくてもよかったのに」
中野林は嬉しそうに言った。
教室に人も増えてきて、始業が近づいてきたので、あほ丸は立ち上がった。
「そろそろ自分の机に戻ろう。久保は……まだ来ていないのだな? もしかして休みか?」
あほ丸は後方の久保の席を見やってそう言った。
「あぁ、久保は毎日始業のチャイムと一緒に教室に入ってくるから、もうすぐ──」
キーンコーンカーンコーン
中野林が言い終わる前に、チャイムがなり始め、教室のドアの方を二人で振り返る。
「っぶねーーー! セーフ」
スライディングするように、久保が教室に突入してきた。
「久保こら〜廊下を走るんじゃなーい」
神田先生がゆっくりと教室のドアをくぐりながら、クラス全体に聞こえるようにそう言った。
「あちゃー見られてたかぁ〜すいませぇん!」
久保は苦笑いしながら応えた。教室中に笑いが起こった。
「ねっ!」
中野林があほ丸に目配せしてそう言った。
「さすがだな」
あほ丸はにやりとしながら返事する。
「ほら〜席に着け〜〜〜出席とるぞー」
神田先生の声に、あほ丸は慌てて戻っていった。
「うふふ、お昼が楽しみだなぁ」
中野林は心の中でそう考えながらにっこりした。




