明崎未咲⑨
『なぁ、恭』
土色に薄汚れ、角の欠ける白板に過去の記憶が映る。
藍色を水に溶かしたような夕暮れの先には、まだ微かに残る朱。しゃがみ込み、土に埋もれたこのプレートを掘り起こそうと何度も手ではらう明崎は、今よりも少しだけ幼さの残る顔立ちをしている。
傍らに立ち、無言のままただ見つめる蒼海に協力を促す事もせず、空に広がる暗色よりも濃い影に覆われた唇がハッキリとした声を紡ぐ。
『オレは、"蒼海恭輔"がこんな形で終わるなんて、納得がいかない』
ザッ、と。仕上げだと言わんばかりの強いひと払いに現れたプレート。
懐かしい友人に会ったような、そんな顔で満足気に明崎が笑む。
『お前の"最期の舞台"はオレが用意する』
真っ赤に変貌した陽はとっくに視野の範囲にないと言うのに、蒼海にはその"戦場"がやけに鮮やかに思えた。
同時に湧き上がってきたのは、奥底に押し込めていた"未練"。
しゃがみこんだまま、真っ直ぐに蒼海を見上げた明崎の眼が、遠くの朱色を映して深いオレンジを反射する。
『……オレの我儘に、付き合ってくれ』
懇願するような言葉に反し、滲むのは決意と揺るぎない誓い。その強さに、蒼海の身体中に隠した"本心"が満ちる。
"出来ることなら、もう一度"。未だ残る"最期の"投球の感覚に、グッと握りしめた右手。
高い夏空の下、滴る汗をそのままに蝉の声だけが耳についたあの日からもうすぐ一年が経とうとしている。いくばかりか握力も衰えているだろうに、初めて露呈した"迷い"に拳が小刻みに震える。
明崎には、全てを話していた。それでいて尚、蒼海に"付き合え"というのだ。
思い描いた"最期"に散る、"蒼海恭輔"を看取る為だけに。
馬鹿か。思って、"説得"と称し付き纏われ続けた日々を思い返し、馬鹿だったなと思い直す。
そしてその馬鹿は、更に数人。もっと開けた道が他にあっただろうに、何故そうも進んで隘路を行こうとするのか。
閉じた瞼の裏。思い浮かぶ面々に蒼海は静かに嘆息する。心にポッカリと開いていた風穴が、心地良い温度の粒子で埋まっていく感覚。
明崎の立ち上がる気配にゆっくりと瞼を上げる。
言わずとも、答えはわかりきっている。そう言いたげな笑みを浮かべる明崎に、蒼海は観念したフリをして首を縦に振ったのだ。
明崎の言う"その時"まで、持ちうる全ての技術で、力で、限界まで"届けて"やろうと心に決めながら。
つまり、だ。蒼海はただひたすらに、明崎との誓いを果たすべく自身を鼓舞し続ければいい。
実際、入部してからは唯一の投手として、真摯に日々邁進してきた。
だというのに。"甘え"を捨てきれないような"お気楽人"に、何を求めるのか。
自身への不快感に蒼海が僅かに眼を細めるも、未咲の動向に集中している今、そのほんの数ミリの変化に気づいた者はいない。
セットから、投球。変わりない一連のモーションに、未咲が片手にした球を宙に放る。
瞬間、ニッと楽しげに上げられた口角に、蒼海は悟る。次の、ノック先は。
カキーン!
空間を切り裂く高音。「ライト!」と叫ぶ声は誰のモノか。
駆け抜ける白球は風雅と小鳥遊の間を抜け、構える古義の元へと一直線に向かっていく。
容赦のない勢いを保つ打球に、一歩を詰めるのが精一杯。そう言うように、僅かに前進した古義が捕球の為にグローブを下ろす。
そこから、だった。眼を見張ったのは明崎と深間、そして蒼海。
古義は球を収めたグローブを右耳に引き寄せ、追うようにポケットに引き入れた右手で掴みながらも、上半がブレないようにと少し腰を落としてステップを踏む。
割り開かれる左肘。目標の風雅へとグローブポケットを向けると、一気に右腕を振り下ろす。
きっと、明崎の言葉を聞いていなければ、気づくことはなかっただろう。
けれども、蒼海は気づいてしまった。古義の見せたその動きは、間違いなく、高丘の。




