②ギルバートのメッセージ
不自然なほどに静まり返り、大気が固定された始まりの街リガルド。
外部からの魔力的接触をすべて拒絶する半透明の結界の膜を、ゼピュロスとイグニスから託された『竜王の紋章』の最高権限で強引にこじ開けたアレンとエルザは、静まり返った市街地を音もなく駆け抜けていた。
石畳の路地には、生活の痕跡だけを遺して住民たちが一人残らず消え失せている。
風は死に絶え、肌にまとわりつくような不快などす黒いノクスの呪詛の残滓が、ねっとりと大気を満たしていた。
アレンの衣服の袖に隠された左半身は、この異常な空間の魔力に当てられたのか、パチパチと制御を失った透明な魔力を霧散させ、じわじわと肉体内側の『炉心』の過負荷を再燃させようと悲鳴を上げ始めている。
「アレン、大丈夫……?」
隣を走るエルザが、痛々しそうにアレンの左半身を一瞥した。
彼女の全身からは、アレンの崩壊しかける肉体の輪郭を繋ぎ止めるように、優しく穏やかな『気高き烈火』の熱気がかすかに立ち上り、周囲の不快な闇を焼き払っている。
「……問題ない。急ぐぞ」
アレンは深く被ったフードの隙間から、冷徹な血のような赤眼を前方の薄暗い路地の奥へと向けた。
目指すのは、リガルドの路地裏の最奥、蔦に覆われた古い赤レンガの建物の地下に店を構える古書肆――「黒梟の灯」。
カイルの師匠であり、古代魔導研究の第一人者である歴史学者ギルバートが、世間の目を忍んで営んでいる隠れ家であった。
建物の地下へと続く、すり減った石の階段を下りる。
本来であれば、偏屈な老人が仕掛けた小賢しい魔導トラップが幾重にも牙を剥くはずの空間だったが、現在の地下通路には、そうした防衛術式の輝きが一切失われていた。
ギィ、と重々しい鉄の扉を押し開ける。
そこは、天井まで届く無数の本棚に、大陸の歴史から抹消されたはずの古代の古文書や魔導書がぎっしりと詰め込まれた、薄暗い知識の迷宮だった。
だが、現在の店内は、何者かによる乱暴な蹂躙の跡が痛々しく残されていた。
「ここも……荒らされているわ」
エルザが息を呑み、紅蓮の炎を大剣に宿しながら足元を見つめた。
引き裂かれた貴重なスクロール、粉砕された魔力抽出機、床一面に散乱した古書の山。
中央にある大きな木製のカウンターは真っ二つに叩き割られており、そこには明確な『魔力の衝突』があったことを示す、どす黒い闇の残滓がこびりついている。
奥の居住スペース、地下の書庫に至るまで、二人は一瞬の隙もなく探索を進めたが、どこにも一人の老人の姿はなかった。
ギルバートの不在。
リガルドを不自然な隔離結界に陥れた真の敵は、すでにこの場所をも特定し、襲撃を仕掛けていたのだ。
万策尽きたかと思われた、その時だった。
「アレン、カウンターの上を見て!」
エルザが、真っ二つに割れたカウンターの、ちょうど引き出しの影になっていた部分を指差した。
そこには、床一面に飛び散った薬品のシミや書類の山の中で、奇跡的に傷一つなく、自ら淡い光を放っている小さなエメラルドグリーンの結晶石が、ぽつんと遺されていた。
その結晶石は、テンペストの最高純度の魔力を宿しており、周囲のノクスの闇を完全に拒絶するように清らかな風の紋様を表面に浮かび上がらせている。
「これは……テンペストの記憶結晶か」
アレンが歩み寄り、衣服の包帯が巻かれた左手をかばいながら、右手の『白竜の聖鱗』の魔力を通すようにして、その結晶石へとそっと指先で触れた。
――カチャリ、と小気味よい魔導の錠前が外れる音が店内に響く。
結晶石が眩い翡翠色の光を放ち、謁見の間でゼピュロスが放っていたような、澄み渡る清廉な風の刃が周囲のノクスの残滓を一瞬で吹き飛ばした。
そして、光の中心から、少し掠れた、しかし極めて理知的で確かな意志を持った老人の声――ギルバートの【魔力録音】が、静かに再生され始めた。
『――カイル、あるいは、アレンよ。この録音が再生されているということは、私のリガルドの拠点はすでに敵の手によって破られ、私はここを離れた後ということだろう』
ギルバートの声は、焦燥に駆られながらも、歴史学者としての冷静さを完璧に保っていた。
『アレン、君の「炉心」がいくら探しても、同じ白竜の遺産であるはずの「左手の聖鱗」の位置に一切の反応を示さない理由……。私は地脈の数理演算を重ね、ついにその決定的な理由を突き止めた。――それは、「左手の聖鱗」が現在、高度な結界魔術が使える人物の強力な魔力によって「偽装・封印」されているからです』
「偽装、封印……!」
エルザが手記を見つめるように結晶石の光を見つめ、驚きに声を漏らした。
『そう、単に隠されているのではない。白竜の遺産の波形そのものを、別の強力な魔力で包み込み、世界のシステムから完全に隠蔽している者がいる。残念ながら、今の私ではその封印を施している人物の正体、そして正確な在処までは掴めていません。……だが、猶予はない。ノクスはすでにその場所を特定し、君の「器の未完成」に付け込んでその力を強奪せんと、本格的に動き出しています』
ギルバートの声が、一段と重々しさを増す。
『そして同時に、奴らはある別の遺産をも狙っている。……500年前、聖地アルビオンが結界によって閉ざされ、白竜が失踪を遂げたあの事件。あの時、地上へと密かに持ち出されたのは「左手の聖鱗」だけではない。世界のすべてを見通すと言われた白竜の【眼】。それをも、奴らは手に入れようとしているのだ』
「白竜の、眼……」
アレンの赤眼が、フードの奥で鋭く尖る。
『私はノクスの密偵の目を引きつけるため、彼らの襲撃を逆手に取り、一足先に東部、碧海の竜王国「アクエリア」の領域へと向かいます。奴らが次に狙う白竜の【眼】の防衛、そして君の「左手の聖鱗」の封印を解くための手がかりが、間違いなくそこにあるはずです』
メッセージの背景から、かすかにドカンと庵の扉が爆破されるような激しい衝突音が響き、ギルバートの短い嘆息が聞こえた。
『アレン、君の左半身の崩壊は待ってはくれない。だが、今回の君の隣には、ただ悲劇に泣くだけの存在はいないはずだ。往け、青き海の国アクエリアへ。世界が真の深淵に飲み込まれる前に、お前たちのその牙と炎で、すべての歪みを撃ち砕いてみせろ――』
フッと翡翠色の光が収まり、結晶石は元の静かな石へと戻っていった。古書肆「黒梟の灯」の店内に、再び重苦しい静寂が戻ってくる。
「碧海の竜王国、アクエリア……」
エルザは大剣を静かに構え直し、アレンの隣へと並び立った。
その瞳には、かつて復讐の炎に身を焦がしていた頃の危うさは微塵もない。
アレンの行く道を遮るすべての闇を焼き尽くすと誓った、強靭で、気高き烈火の輝きだけがそこにあった。
「カイルの師匠は、自らを囮にしてまで、次の手がかりを私たちに遺してくれた。アレン、迷っている暇は無いわ。リガルドの結界を抜けて、すぐに東のアクエリアへ向かいましょう!」
「ああ……」
アレンは懐の手記、そして『竜王の紋章』の感触を確かめ、静かに壊れた地下の扉を見上げた。
「カイルがテンペストで『翼』を護り、ゼピュロス様とイグニス様が同盟の防衛線を敷いている。俺たちがここで立ち止まる理由は、百分の一パーセントも存在しない」
始まりの街リガルドの異変、ギルバートの不在、そして500年の時を超えて動き出す白竜の【眼】と『左手の聖鱗』の偽装封印の謎。
歪な器を克服し、完全なる英雄へと覚醒するため、そして自らを囮にした智者を救い出すため、アレンとエルザの二人きりの、碧き海の国への大急行の幕が、今まさに上がろうとしていた。




