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①始まりの街の異変、ギルバートの不在

 かつてアレンとエルザが、その長きにわたる果てしない戦いの産声を上げた場所――始まりの街リガルド。


 烈火の竜王国ドラグニルと天嵐の王国テンペストの境界線付近に位置するその街は、本来であれば両国の旅人や商人が行き交い、常に活気ある喧騒と、心地よい風が吹き抜ける緑豊かな要衝の地であるはずだった。

 

だが、二人が目にしたその光景は、記憶にあるリガルドのそれとはあまりにもかけ離れていた。


「……静かすぎるわね。」

 

馬を並べ、リガルドへと続く街道の丘の頂に立ったエルザが、手綱を握る手に力を込めながらぽつりと呟いた。

 

彼女の美しい真紅の髪が、湿り気を帯びた重苦しい風に揺れる。

背中に背負った大剣の柄へと視線を落とした後、その目は眼下に広がる街並みを鋭く射抜いていた。

 

リガルドの街全体が、まるで巨大な墓標のように沈黙していた。

いつもなら昼夜を問わず立ち上っているはずの宿場町の煙突の煙は一筋も見えず、市場の賑わいも、兵士たちの足音すら聞こえてこない。


ただ不気味なほどに凪いだ空気だけが、街を包み込んでいる。


「ああ。空間そのものが、完全に『固定』されている。」

 

隣に並ぶアレンが、深く被ったフードの隙間から、冷徹な血のような赤眼を街へと向けた。

 

衣服の袖に隠された彼の左半身は、マグマリアでの応急処置によって外傷こそ塞がったものの、未だに内側から漏れ出る透明な魔力がパチパチと不規則に弾け、大気を歪めている。


右腕の『白竜の聖鱗』が、体内にある『ドラグニルの心臓』の強大すぎる熱量を必死に抑え込んでいるが、左半身に防壁がない「歪な器」の限界は、アレンの肉体を蝕み続けていた。

 

アレンは自らの左手を軽く握り込み、その視線をリガルドの周囲を取り囲む空間の『歪み』へと移した。

 

街の境界線に沿って、目に見えないほど微細な、しかし絶対的な拒絶の意思を持った半透明の魔力膜が張られている。


「カイルの言っていた通りだな。ただの通信障害じゃない。外部からのあらゆる接触、物理的な侵入から魔導的な干渉に至るまで、すべてを『拒絶』し、内側を完全に隔離するための高等な結界だ。」


「テンペストの広域通信網をこれほど完璧に遮断するなんて、ただの盗賊や並の魔術師にできる芸当じゃないわ。ノクスの残党……あるいは、その背後にいる何かが、本格的に動き出している証拠よ。」

 

エルザの言葉には、かつてバルザックを討ち果たし、復讐の炎を乗り越えた者としての、凛とした強靭な精神力が宿っていた。

彼女の全身からは、アレンの行く道を遮るすべての闇を焼き尽くさんと、純粋な『気高き烈火』の熱気がかすかに立ち上っている。


「行くぞ、エルザ。どのみち、この結界を破らなければ中には入れない。」


「ええ。でも、どうやって? 外部からの干渉をすべて拒絶する結界なら、私の炎で力任せに焼き破れば、街の中にいる人たちにまで被害が及びかねないわ。」


「これを使う。」

 

アレンが懐から取り出したのは、白銀と真紅の結晶がそれぞれ融け合った、手のひら大の重々しい金属製の2つのプレートだった。

表面には、猛る竜の横顔と、嵐の渦が精緻に刻印されている。

 

大空の覇王ゼピュロス、そして烈火の覇王イグニス――世界の両輪たる二大竜王から、正式な同盟の可決と共に、両国の最高権限の証明として託された国境の『竜王の紋章』。


「ゼピュロス様とイグニス様の魔力が、直接込められた紋章か……。それなら、この大陸のあらゆる法や結界を『上書き』できるはずね。」


「ああ。テンペストの地脈を利用した結界であれば、なおさらだ。下がっていろ、エルザ」

 

アレンは『竜王の紋章』を右手に握り締め、結界の膜が空間を歪めている境界へと一歩踏み出した。

 

彼が紋章を突き出すと同時に、右腕の『白竜の聖鱗』が臨界点を超えた純白の魔力を一瞬だけ解放し、紋章に刻まれた竜の眼がカッと眩い光を放った。

 


キィィィィィン――!!



 空間を鋭く引き裂くような高音が周囲に響き渡る。

リガルドを覆っていた不自然な隔離結界の膜が、『竜王の紋章』から放たれた圧倒的な竜王の魔力に触れた瞬間、抵抗することすら許されずにバキバキと音を立てて波打ち始めた。


最高権限の承認。

結界の術式が、ゼピュロスの風の波形によって強引に書き換えられ、アレンたちの目の前の空間だけが、まるでカーテンを開くように滑らかに割れていく。


「解けたわ……! さすがね、アレン」


「いや、完全に消滅させたわけじゃない。紋章の権限で、俺たちの通る最小限の『穴』を一時的に開けただけだ。結界の核が街の中にある以上、油断はできない。行くぞ」

 

二人は割れた結界の隙間をすり抜け、静まり返ったリガルドの街へと足を踏み入れた。




◇◇◇◇◇

 



 結界の内側に一歩入った瞬間、肌にまとわりつくような不快な空気の重みが二人を襲った。

 

風は完全に死んでおり、大気中の酸素が僅かに希薄になっている。

それはかつてテンペストの王宮で、ノクスの影響下にあったゼピュロスが放っていた『真空』の気配、あるいはそれを模した不気味な呪詛の残滓のようでもあった。

 

街道を進み、リガルドの市街地へと入る。

石畳の道には、投げ出されたままの荷車や、買い物の途中で落とされたであろう果物がそのまま腐らずに転がっていた。

だが、奇妙なことに、どこを見渡しても『死体』が見当たらない。

住民たちの姿が、まるで一瞬にして空間から掻き消えてしまったかのように、ただ生活の痕跡だけがそこに残されていた。


「誰も、いない……? 争ったような血痕もないわ。リガルドの民は、一体どこへ消えてしまったの?」

 

エルザが周囲を警戒しながら、大剣の柄を握る。


「死んでいない、と思う」

 

アレンはしゃがみ込み、床に落ちていたパンを拾い上げた。

まだ僅かに柔らかさが残っている。


「結界が張られてから、それほど時間は経っていない。民はおそらく、この不自然な結界の魔力によって一時的に強制的な『仮死状態(スリープ)』にされ、どこか一箇所に集められているか……あるいは、この街の地脈の底へと沈められているかだ」


「カイルの師匠、ギルバートさんはどうなったの?」


「黒梟の灯(くろふくろうのともしび)へ向かう。あの人の書店は、リガルドの街の外れ、地脈の結節点に位置している。もしこの異変の正体を知る者がいるとすれば、あの偏屈な老人しかいない。」

 

二人は速度を上げ、リガルドの北側、鬱蒼とした森の入り口近くにひっそりと佇むギルバートの庵へと急行した。

 

アレンの左半身の魔力漏出が時折激しくなり、彼の息が荒くなる。

エルザはその都度、自らの『気高き烈火』の温かみをかすかにアレンへと寄り添わせ、彼の肉体の輪郭を繋ぎ止める手助けをしながら、寄り添うように走った。

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