幕間 500年前の残滓
聖地アルビオン「中央祭壇」――500年前の調律
どこまでも澄み渡る蒼天。
雲を遥か眼下に見下ろす大空の頂きに、その聖地は存在していた。
下界のいかなる穢れや争いをも寄せ付けない、絶対の不可侵領域。
白銀の結晶が組み上げられた「中央祭壇」を包む陽光は、神聖な祝福そのもののように温かく、エメラルドグリーンの輝きを放つ『天嵐の泉』の水をキラキラと揺らし続けている。
「――っ、ダメだ、また左右のバランスが崩れた! どうして上手くいかないんだ……!」
静謐な祭壇の空気を破ったのは、一人の若い戦士の、悔しげに震える声だった。
彼の名は、レイン。
後世において冷徹な赤眼をフードの隙間から覗かせ、白銀の髪を逆立てて戦場を駆ける暗殺者「アレン」となる少年の、500年前の姿だった。
当時の彼の姿は、現在とは真逆と言っていいほど光に満ちていた。
その髪は、夜の帳をそのまま紡いだような、瑞々しい艶をまとった黒髪。
そして何よりも特徴的なのは、新緑の若葉のように鮮やかにきらめく、まっすぐで純粋な緑の瞳だった。
挫折に唇を噛み、己の無力さに涙を浮かべ、それでも大切なものを護るために前を向こうとする。
その豊かな表情と危ういほどの純真さが、若き日のレインという少年のすべてだった。
レインは結晶の床に膝を突き、自らの両手を見つめていた。
彼が今挑んでいるのは、世界の均衡を司る『白竜の力』を完全にその身へと宿すための最も過酷な試練――『白竜の右の聖鱗』と『左の聖鱗』を同時に肉体へと宿し、エネルギーを完全に同調させる修行であった。
人間の肉体という脆弱な器にとって、大空の至高の遺産が放つ絶対的なエネルギーはあまりにも巨大すぎた。
右の鱗から溢れ出る絶対的な熱量と、左の鱗がもたらす天嵐の暴風。
その二つを寸分の狂いもなく肉体の中で均衡させ、調律しなければならない。
だが、その調律を試みるたびに、左右の魔力回路のバランスが僅かに狂い、肉体の内側から未知の熱暴走が弾け飛ぶ。
「う、あ……ぐっ……! 左が、左の制御が……追いつかない……っ!」
内側から引き裂かれ、焼き尽くされるような激痛に、レインの身体が大きく前に折れ曲がる。
右腕と左腕の皮膚がパチパチと白銀の火花を散らし、激しい拒絶反応がレインの全身を苛んでいた。
左右の聖鱗から流れ込む魔力の奔流は、不完全な彼の器を容赦なく破壊しようと狂い暴れる。
「そこまでよ、レイン! 無茶をしないで!」
その瞬間、祭壇の奥から駆け寄る、一人の少女の切迫した声が響いた。
彼女こそが、聖地から一歩も出ることなく、その生涯を捧げることを誓ったレインの『守人』。
そして、レインにとって誰よりも大切な、かけがえのない幼馴染の女だった。
その容姿は、後世においてアレンの相棒となる紅蓮の戦士、エルザに「瓜二つ」だった。
燃えるような真紅の髪、凛とした美しい顔立ち。
だが、彼女がその身にまとっているのは、戦いのための無骨な鎧や気高き烈火ではない。
聖地の守人としての、清廉で純白な、汚れなき神官の衣服。
そして彼女の宿す炎は、周囲を優しく包み込み、傷ついた者を癒すための、どこまでも温かく穏やかな『守護の烈火』だった。
「レイン、しっかりして! 今、左右の術式を反転させるから……!」
少女はレインの前に膝を突き、その痛々しく拒絶反応を起こしている両腕を、自らの両手でそっと包み込んだ。
彼女の全身から、眩いばかりの紅蓮の魔力が溢れ出る。
それは左右の聖鱗の暴走を宥め、傷ついた肉体を外側から優しく修復するための、慈愛の炎。
「あ……、あぁ……っ」
少女の炎が触れた瞬間、レインの荒れ狂っていた左右の魔力回路が、嘘のように静まり始めていく。
両腕の白銀の火花は収まり、内側からの熱暴走がゆっくりと引いていった。
「はぁ、はぁ、はぁ……。すまない、また、君の手を煩わせた……」
レインは荒い息を吐きながら、顔を上げた。
新緑の緑の瞳が、申し訳なさそうに、直視するのも眩しいほどの深い信頼を込めて幼馴染の少女を見つめる。
「謝らないで、レイン。私は貴方の『守人』。貴方の心と身体を護るために、私はここにいるのよ」
少女はほっとしたように、エルザと瓜二つの顔に、これ以上ないほど優しく、聖母のような美しい微笑みを浮かべた。
その手は、未だにレインの手を強く、片時も離したくないと言わんばかりに握り締められている。
「でも、焦ってはダメ。白竜様の左右の聖鱗を同時に同調させるなんて、人間の身にはあまりにも大きすぎるわ。ゼピュロス様もイグニス様も、貴方の器の歪さを心配されているのよ? 脳に血が巡っていないイグニス様でさえ、貴方の無茶を見て『死にたがりか』って怒っていたんだから」
「あはは……。イグニス様は相変わらず怖いな。ゼピュロス様には『不条理なエネルギーの浪費だ』って冷徹に計算されちゃうし」
レインは少し照れくさそうに笑い、自らの黒髪をがしがしと掻いた。
その笑顔は、完全に年相応の少年そのものだ。
冷酷な暗殺者のような凄みをまとった現在のアレンからは想像もつかないほど、光に満ちた無邪気な表情だった。
「外の世界に蠢くノクスや、あの不気味な深淵の脅威……それらが、いつこの聖地に牙を剥くか分からない。だから俺は早く強くなりたいんだ。白竜様の左右の聖鱗を完全に同調させて、本物の戦士になりたい。そうすれば……この聖地を、そして何よりも、俺の守人でいてくれる君を、今度は俺の力で完璧に護れるから」
レインの緑の瞳に、まっすぐな、純粋すぎる正義感の光が宿る。
「誰も死なせてたまるか」「大切な者を守り抜く」。
そのひたむきな執念は、500年後のアレンにも通じる彼の魂の形だった。
だが、当時のレインのそれは、まだ世界の泥に汚れていない、眩しいほどに綺麗な『理想』だった。
レインのその言葉を聞いた瞬間、少女の微笑みは一切変わらなかった。
ただ、レインの手を握る彼女の指先に、じわりと、異常なほどに強い力がこもる。
その真紅の髪の陰に隠れた瞳が、一瞬だけ陽光を拒むように深く陰った。
「どうしたの? 浮かない顔をして」
レインが、少女のわずかな沈黙に気づき、小首をかしげた。その緑の瞳は、どこまでも無垢に彼女を心配している。
「ううん、なんでもないわ。レインのその言葉が、とっても嬉しかっただけ」
少女は再び、可憐で儚げな守人としての笑みを浮かべ、そっと上目遣いで彼を見つめた。
「貴方が私のためにそこまで言ってくれるのは、本当に嬉しいわ。でもね、私は時々、とても怖くなるの。貴方がその左右の聖鱗と同調して、どんどん遠い存在になっていってしまうんじゃないかって」
「そんなことないよ! 俺はどこにも行かないさ」
「口ではそう言えても、白竜様の真の力を得るということは、この世界の理そのものに魂を登録するということでしょう?」
少女の瞳に、みるみるうちに大粒の涙が溜まっていく。
それは精巧に作られたガラス細工のように美しく、レインの心を激しく揺さぶった。
「私と貴方を繋ぐ絆なんて、この聖地でのささやかな思い出だけ。もし、貴方が完全に力を得て私を忘れてしまったら……私は、どうすればいいの? 貴方をここに繋ぎ止めるための、私だけの『特別』が欲しいのよ……」
「そんな、涙を流さないでくれよ……」
レインは完全に狼狽した。
目の前の幼馴染が涙を流す姿を見るのが、彼にとっては大切な何かが壊れてしまうかのように耐え難かったのだ。
「俺たちの絆は本物だ。忘れるわけないじゃないか」
「だったら、証明して」
少女は一歩、レインへと距離を詰めた。彼女の放つ守護の烈火の熱が、レインの肌を優しく包み込んでいく。
「貴方の本当の『真名』を教えて」
その言葉に、レインの身体が明確に強張った。
「……え?」
「竜王様達から聞いたわ。貴方には、表向きの名前とは別に、決して他者に明かしてはならない、魂の根底に刻まれた『本当のミドルネーム』が存在するって。それを知る者は、対象の魔力回路、ひいてはその存在の全権限に直接干渉する資格を得る……世界のシステムから隠された、絶対的な禁忌の名前」
少女の細い指先が、レインの胸元、ちょうど左右の聖鱗の魔力が交差する中心へと触れた。
「それを私に教えて、レイン。私を安心させて。そうすれば、貴方がどれほど強大な力を得ようとも、私は貴方の特別な守人でいられる。貴方が白竜に奪われるのを防ぐことができるの。お願い……教えてくれないの?」
ぽろぽろと零れ落ちる涙。
縋り付くような真紅の髪の少女の姿に、レインの胸は締め付けられる。
一族の掟、世界の調律。
それを他者に明かすことは、自らの器の制御権を半分譲り渡すに等しい暴挙。
絶対に教えてはならないと、厳しく叩き込まれてきたはずの禁忌。
だが、当時のレインはあまりにも純粋で、無邪気すぎた。目の前の幼馴染が、自分への愛ゆえに不安に押しつぶされそうになっているのだと、それだけを頑なに信じてしまった。
「……分かったよ。君にだけなら、いいよ」
レインは諦めたように、しかしどこか誇らしげに苦笑した。
「でも、本当に誰にも言っちゃダメだよ? ゼピュロス様たちに知られたら、俺、本当に大目玉を食らうどころじゃ済まないからね。」
「ええ、もちろんよ。私と貴方だけの、永遠の秘密。」
少女の瞳の奥の涙が引き、その輪郭が怪しく明滅した。
レインは少女の耳元に口を寄せ、世界のシステムを書き換えるための鍵となる、その本当の『真名』を静かに囁いた。
「――俺の本当の名前は、レイン・⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎・オルタニシス。その中央にある文字が、俺の魂の本当の形なんだ。」
そのミドルネームが祭壇の空気に放たれた瞬間、周囲の結晶がキィンと微かに冷たく共鳴した。
少女はその名前を頭の中で反芻し、自らの魔力回路の底へと完璧に刻み込んでいく。
「ありがとう、レイン。愛しているわ。本当に、本当に愛している……」
少女はレインの首に細い腕を絡ませ、深く、深く抱きしめた。
レインはその腕の異常なほどの強さに少しだけ息苦しさを覚えながらも、大切な人を安心させられたという満足感から、彼女の真紅の髪を優しく撫で返していた。
この時、レインはまだ気づいていなかった。
自らが明かしたその『真名』こそが、この数日後に起こる最悪の悲劇――聖地が強固な結界によって完全に遮断され、大空の覇王たる白竜が失踪を遂げ、彼自身が中央祭壇の内部へと囚われの身となる事件の、決定的な引き金になったということに。
そして、その混沌の最中に行方不明となった少女が、500年の時を経た今もなお、その名前を呪文のように唱えながら、底なしの狂気の中で彼を待ち受け続けているということに。




