⑰大空と烈火の交信、あるいは失われた記憶の残滓
本日より毎日6時に1話ずつ投稿となります。
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天嵐の王国テンペストの最高中枢、白銀の結晶が組み上げられた「嵐の謁見の間」。
三人の師団長へそれぞれの任務を言い渡し、彼らが静かに退室していった後、広大な空間には嵐の竜王ゼピュロスただ一人が残されていた。
ゼピュロスは宙に浮いたまま、長く、静かな息を吐き出す。
ノクスの呪縛から完全に解き放たれ、本来の理知的な精神を取り戻した彼の脳細胞は、すでに大陸全土の地脈の動き、そしてこれから訪れるであろう「深淵の爪痕」への対抗策を高速で演算し終えていた。
だが、その冷徹な合理主義の方程式において、どうしても切り捨てられない「不確定要素」が一つだけ存在した。
アレン。
そして、その隣に並び立つ紅蓮の少女、エルザ。
「……さて。脳に血の巡り切っていない筋肉達磨に、どこまで通じるか。」
ゼピュロスは冷淡な呟きと共に、細身の指先をそっと空間に滑らせた。
彼の周囲を渦巻く風の魔力が一変し、翡翠色の細かな結晶の粒子が宙で円環を描き始める。
それはテンペストが誇る超広域通信魔法の術式だった。
リガルドの通信魔法は完全に遮断されていたが、ここテンペストの王宮から、すでに安全圏であるドラグニルの心臓部へと直接繋ぐ魔力回路であれば、何者にも遮ることはできない。
術式の円環が激しく明滅し、パチパチと空間が熱量を持った。
次の瞬間、謁見の間の静寂を力任せにぶち破るような、地鳴りのごとき豪快な声が通信の向こう側から響き渡った。
『――ハッ! 誰かと思えば、大空のモヤシ野郎じゃねえか。ノクスの陰気な毒に脳みそを弄られて、そのまま植物にでもなっちまったかと思ってたぞ!』
通信の向こう側から聞こえる、圧倒的な熱量を含んだ笑い声。
烈火の竜王国ドラグニルの覇王、紅蓮の竜王イグニスだった。
城塞都市マグマリアの王宮にいるであろう彼の周囲からは、ドクドクと煮え滾るマグマのような、圧倒的な炎の魔力が通信越しにすら伝わってくる。
「相変わらず品性のない大声だな、イグニス。私の『真空』でお前の周囲の酸素を数パーセントほど間引きしてやろうか。少しは脳に酸素が行き届いて、静かに喋る覚悟ができるだろう。」
ゼピュロスは眉一つ動かさず、冷酷なトーンで返した。
『ハッ、相変わらずへ理屈ばかりの細身男だ。ゾルディンの洗脳が解けてからというもの、俺の「業火」が暴れたがって仕方がない。ノクスの長を直接この手で消し炭にできなかったのが、今でも腹の虫が収まらないくらいだ。……それで? 用件は何だ。お前がわざわざ俺の魔力回線に直接繋いでくるなんてなぁ、明日の大陸に槍でも降るんじゃないか?』
イグニスの声には、好戦的な傲慢さの裏に、かつてアレンとの死闘の最中に正気を取り戻した男としての、揺るぎない野生の勘が宿っていた。
「無駄口を叩くエネルギーが惜しい。本題に入ろう。」
ゼピュロスは宙で静かに腕を組み、冷徹な目を通信の光へと向けた。
「我がテンペストは先ほど、天嵐近衛騎士団の全師団長を集め、新たな国是を通達した。――テンペストは、烈火の竜王国ドラグニルと正式に『同盟』を結ぶ。異論はないな、筋肉達磨?」
通信の向こう側で、イグニスが一瞬だけ沈黙した。
いつもなら「同盟だと? 弱者が群れるような真似をしやがって」と鼻で笑うはずの覇王が、珍しく真剣な、地を這うような低い声で言葉を紡ぐ。
『……ハッ、同盟、か。お前の口からそんな言葉が出るとはな。力こそがすべて、強い者が支配する。それが俺のドラグニルの理だ。だが……アレンの戦いっぷり、そしてお前をノクスの呪縛から引きずり戻したあの『結果』を見せつけられたらな。俺の炎も、改めて奴らの強さを認めざるを得ない。』
イグニスはフッと獰猛に笑った。
『いいだろう、可決だ。ドラグニル・テンペスト大同盟、これ以上の真っ向勝負の土台はねえ。ノクスの残党どもがどこで糞尿のように蠢いていようが、俺たちの同盟の力で上空と地上から完全に挟み潰してやるだけだ。』
「話が早くて助かる。お前の脳細胞が最低限の演算能力を維持していたようで安心したよ。すでにシルフの突撃大隊にはノクスの竜神族の動向調査を、ニルヴァには国政の調律を、ハヤテには一時的に封印された『白竜の翼』の絶対防衛任務を言い渡してある。これでお前が余計な侵略行為という名のエネルギーの無駄遣いをしなければ、大陸の最低限の防衛ラインは維持できる。」
『言うじゃないか。だが、お前がリガルドに軍を動かさねえってのは、アレンの『器の完成』をただ座して待つって意味か? ゼピュロス、お前、アレンの左半身の欠陥を見て、一番最初に「灰になる」って突き放した張本人だろうが。冷血漢のお前が、ずいぶんと生温かいバックアップをするじゃないか?』
イグニスの鋭い指摘。
だが、ゼピュロスはその冷徹な表情を一切崩さなかった。
「生温かいだと? 勘違いするな、イグニス。私は完全無欠の合理主義者だ。感情で動いているわけではない。」
ゼピュロスは静かに魔導杖を指先で弄びながら、声を一段と低くした。
「アレンが『白竜の翼』という大空の遺産を完全に同調できなければ、天空城の絶対権限を維持することはできない。そして、奴の器が歪なまま自滅すれば、世界を混乱に陥れる最大の『バグ(不確定要素)』が処理できぬまま残ることになる。奴が左の防壁――『左の聖鱗』を手に入れ、完全なる器となることは、これからの深淵との決戦において最も成功確率の高い数式なのだよ。私はただ、その数式の成立を邪魔させないために、テンペストの風で周囲の雑音を消しているに過ぎん。」
『ハッ、相変わらず綺麗に飾った言い訳だ。まぁ、奴が俺の炎で焼き尽くされる前に、勝手に器の爆発で死なれちゃあ、俺の獲物が減るからな。その点に関しては、お前の合理主義とやらに乗っかってやるよ。』
イグニスの豪快な笑い声が戻ってくる。
同盟の締結、そして戦後処理の方針の合意。
二大竜王の対話としては、これ以上ないほどスムーズに「計算」が成り立った。
しかし。
ゼピュロスは通信を切る術式に指をかけることなく、そのまま深い沈黙を維持した。
『あんだ? 用件が済んだならさっさと回線を切りやがれ、モヤシ野郎。俺はこれから滞ってた軍の再編で忙しい。』
「……イグニス」
ゼピュロスの声が、これまでとは明らかに異なる、どこか遠い過去を想起させるような、奇妙な響きを帯びた。
そのわずかなニュアンスの変化を、イグニスの野性的な直感が逃すはずはなかった。
通信の向こうで、覇王が大剣「大炎灼竜剣」を床に突きたてるような、重々しい音が響く。
『……あ? なんだよ、その湿気た声は。お前らしくないな。』
「お前に、一つだけ演算の確認をしたい。」
ゼピュロスはゆっくりと、玉座からさらに上空へと身体を浮かび上がらせた。
彼の周囲の風が、悲しげな旋律を奏でるように細く鳴り響く。
「今から、およそ500年前の記憶だ。――お前は、かつて我ら竜族の『聖地』と呼ばれたあの場所にいた、ある一人の女のことを覚えているか?」
『……500年前、聖地だと?』
イグニスの声から、完全に茶化すような気配が消え失せた。
「そうだ。まだ、白竜様が失踪する前。……あるいは、あのアレンという小僧が、竜の力をその身に宿す前の、ただの未熟な人間――『レイン』という名で呼ばれていた頃の話だ。」
ゼピュロスの冷徹な口から紡がれる、かつてアレンが持っていた真の名前。
「アレン」という存在の魂の根底にある、500年前の因縁。
「その聖地にて、レインの『守人』を任されていた人間の女だ。毎日のように笑顔を振り撒き、私やお前の傍にいた……。奴はレインの幼馴染であり、未熟な奴の行く道を照らす灯火のようだった。……お前のその、酷く摩耗しやすい脳細胞は、あの守人の女の顔をまだ記憶しているか?」
通信の向こう側で、圧倒的な沈黙が支配した。
ただ、ドクドクというイグニスの心臓の鼓動と、彼の周囲の熱量が、急激に跳ね上がっていくのだけが魔力回線を通じて伝わってくる。
イグニスという男は、小細工を嫌い、真っ向勝負での圧勝を好む覇王だ。
だが、その彼にとっても、500年前の「聖地」の記憶は、決して消し去ることのできない、魂に焼き付いた業火の一部だった。
『…………ゼピュロス。お前、何が言いたい?』
イグニスの声は、低く、押し殺した咆哮のようだった。
『あの守人の女のことが、今のアレンと何の関係がある。あの聖地での日々は……500年前、すべて深淵の闇の中に消えたはずだ。あの白竜が失踪した事件の時に――』
「関係があるからこそ、こうしてエネルギーを無駄遣いして口にしている。」
ゼピュロスは自らの右手をそっと見つめた。
その指先には、かつて聖地で吹いていた、優しく穏やかな風の記憶がかすかに残っている。
「お前も、アレンの隣に立つあの紅蓮の少女――『エルザ』の姿を見た時、その網膜の奥に、かつてないほどの激しい既視感を覚えたはずだ。……ゾルディンの洗脳のせいだと思おうとしていたようだが、洗脳が解けた今なら、その歪みに気づいているのではないか?」
『……エルザ、だと?』
「そうだ。エルザ。バルザックを討ち果たし、復讐を終えてなお、アレンの傍らで『未来を拓くための純粋な烈火』を爆発させているあの少女。……彼女の容姿、彼女の放つ炎の気配、そしてアレンを真っ直ぐに見つめるあの強い瞳。それは――」
ゼピュロスは、一言一言を刻みつけるように、その名を口にした。
「500年前、聖地でレインの守人を務めていた、あの幼馴染の女に『瓜二つ』だ。」
ドッ!!!
通信の向こうで、マグマリアの王宮の床が派手に爆発するような音が響いた。
イグニスの感情の激昂が、魔力回路を通じてこちら側の謁見の間の大気を激しく震わせる。
『ふざけるなッ!!』
イグニスが怒号を挙げた。
『そんな偶然があるか! あの女は、500年前のあの事件……聖地が強固な結界で完全に遮断され、レインが聖地の中に囚われの身となったあの日、白竜の失踪と共に行方不明になったんだぞ! 魂ごと、世界のどこへ消えたかも分からねえあの女が……今になって、あのアレンの隣にいる少女がその生き写しだと? DNAの悪戯か何かって言いてえのか、モヤシ野郎!!』
「偶然か、あるいは必然か。私の合理主義的な演算を以てしても、この確率の収束には不気味な意図を感じざるを得ん。」
ゼピュロスは、イグニスの怒号を受け止めながらも、どこまでも冷徹に、しかし確かな哀愁を含んだ声で言葉を続けた。
「魂の輪廻などという不確定なオカルトは信じたくないが……事実として、エルザの宿す炎は、お前の荒々しい『業火』とは異なり、かつて聖地の女が有していた、周囲を包み込み、守るための『気高き烈火』そのものだ。そしてアレン――いや、あの聖地に囚われ、500年の時を経て再び外の世界へと現れたレインの魂は、かつての拒絶反応のまま『白竜の力』という歪な器をその身に宿し、再びあの少女と共に歩んでいる。」
ゼピュロスはゆっくりと、足の裏を結晶の床へと降ろした。
彼が地面に足を着けるのは、極めて稀なことだった。それほどまでに、この対話は彼の理性を重く縛り付けていた。
「イグニス。お前はかつて、人間の身でありながら白竜の力を宿したアレンを『極上の獲物』と見なし、その力が本物か焼き尽くして確かめてやると豪語したな。……だが、本当は違ったのではないか?」
『……あ?』
「お前は、アレンの姿に、そしてエルザの姿に……500年前、聖地が結界で閉ざされ、白竜が消え失せ、あの守人の女が行方不明になったあの時、己の力不足のせいで何も護れなかった『あの日の幻影』を見ていたのではないか。だからこそ、洗脳されていたとはいえ、誰よりも激しくアレンの前に立ちはだかり、奴の『強さ』を、奴の『覚悟』を、真っ向勝負で確かめずにはいられなかった……。私は、お前のその前時代的な筋肉脳の裏にある、狂おしいほどの『罪悪感』を、そう演算している。」
『黙れ……ッ! 黙りやがれ、ゼピュロス!!』
通信の向こうで、イグニスの荒い息遣いが響く。
覇王のプライドが、自らの内面をこれほど完璧に見透かされたことに激しく反発していた。
だが、彼の放つ炎の魔力は、怒りではなく、悲痛なほどの激しい揺らぎを見せていた。ゼピュロスの推測は、百分の一パーセントの狂いもなく、イグニスの魂の急所を射抜いていたのだ。
500年前、彼らは竜王でありながら、聖地を襲った異変――聖地の完全なる結界遮断と、白竜の失踪、そしてそこにいた女の失踪を、ただ見届けることしかできなかった。
レインは結界の内に囚われ、少女は行方不明となり、白竜の力は歪な形で残された。
それが、理知を誇るゼピュロスにとっても、力を誇るイグニスにとっても、生涯消えない「敗北」の記憶であり、枷だった。
「……責めているわけではない。私もまた、同罪だからな。」
ゼピュロスは静かに魔導杖を収めた。
「アレンの肉体は今、過負荷を起こし、左半身から崩壊しかけている。かつて、500年前にレインが力の拒絶反応で苦しんでいたあの時と、全く同じの歪みだ。……だが、今回の奴の隣には、かつてのように聖地の外で行方すら分からなくなってしまった少女ではない。傷つきながらも、自らの烈火でアレンの行く道を遮る闇をすべて焼き尽くすと誓う、強靭な相棒がいる。」
ゼピュロスは再び、宙へと身体を浮かび上がらせた。
その瞳には、冷徹な合理主義の奥に、かつて失われた未来を今度こそ掴み取ろうとする、真の王としての強い意志が宿っていた。
「だからこそ、私は今回の数式を完璧に守護する。ノクスの残党どもに、あの二人の歩みをこれ以上邪魔させるわけにはいかん。テンペストの国政を整え、ノクスの動きを大陸全土で内偵し、『白竜の翼』を最高の状態で維持する。それが、私が導き出した、この時代における最も『効率的な世界救済の解』だ。」
通信の向こうで、イグニスの荒い呼吸が、徐々に、徐々に落ち着きを取り戻していく。
やがて、覇王はフッと、自嘲するような、しかしこれ以上なく頼もしい笑い声を漏らした。
『……フン。相変わらず、長々と小難しい理屈を並べやがって。……だが、お前の言いたいことは分かったよ、モヤシ野郎。』
イグニスの声に、かつての豪快で獰猛な、ドラグニルを統べる王としての絶対的な覇気が戻っていた。
『エルザが、あの日行方不明になった守人の女の生き写しだろうが、関係ない。奴らが今、この時代で必死に足掻いて、ノクスの長をぶちのめした。その「事実」だけで十分だ。奴らの器が完成して、本物の「竜神の再来」となって俺の前に現れたその時は……今度こそ、洗脳の邪魔なしで、最高の真っ向勝負を仕掛けてやる。それまでは――』
イグニスは大炎灼竜剣を力強く握り直した。
『それまでは、このドラグニルの地上戦力も、お前らの風に遅れは取らねえ。マグマリアの王宮から、大陸全土の警戒網を最大出力で維持してやる。アレンたちがリガルドの地で何を見つけ出そうが、その背後は、俺たちの「同盟」が完璧に保証してやるぜ。』
「フッ……計算通りだな。」
ゼピュロスは、初めて、通信越しに微かな笑みを浮かべた。感情を一切表に出さない合理主義者が、500年の因縁を前にして、初めて見せた人間らしい表情だった。
「では、回線を切る。お前の無駄な大声のせいで、謁見の間の大気が余計な熱量で膨張してしまった。調律し直すのが面倒だ。」
『ケッ、勝手にしろ! 次に会う時は、その冷ました面を俺の炎で焦がしてやるからな、ゼピュロス!!』
ガシャリ、と重々しい音と共に通信が途絶え、翡翠色の結晶の術式が空間へと霧散していった。
静寂が戻った「嵐の謁見の間」。
ゼピュロスは静かに目を閉じ、窓の外に広がる無限の大空、そしてアレンたちが向かった遥か南のリガルドの地を見つめた。
500年前、結界に遮断され、白竜が失われ、守人が行方不明となったあの悲劇の連鎖を、この時代で完全に断ち切るために。
大空の覇王と烈火の覇王は、今、歴史的な同盟の固い絆を結び、若き二人の戦士たちの背中を支える最強の防壁となったのだった。




