⑯大空の調律
天嵐の王国テンペストの中枢にそびえ立つ、翡翠と白銀の結晶で築かれた王宮。
その最上階に位置する「嵐の謁見の間」は、数日前までの澱んだ気配が嘘のように、清廉で冷徹な、かつての清々しい大気の唸りに満たされていた。
アレンとエルザが天空城の絶対権限を奪い返し、ノクスの長をその魂の根底から完全に焼き尽くしたあの瞬間、大陸の地脈を呪縛していた邪悪などす黒い闇の波動は完全に霧散した。
この天嵐の王宮をじわじわと黒く浸食し始めていた深淵の影も、跡形もなく消え去っている。
玉座へと続く白銀の大階段の下。
テンペストの最高戦力である「天嵐近衛騎士団」の三人の師団長は、片膝を突き、深く頭を垂れていた。
彼らの正面、遥か高みに鎮座する玉座には、嵐の竜王ゼピュロスが座している。
そこに、かつての「目が濁り、覇気が失われていた」王の姿はなかった。
毒による精神への干渉から完全に復帰したゼピュロスの瞳には、世界のすべてを見透かすかのような、鋭く理知的な輝きが戻っている。
その巨躯から放たれる圧倒的な威圧感は、恐怖によるものではなく、天候すら完璧にコントロールする大自然の法則そのものが持つ、絶対的な神聖さに満ちていた。
(……戻られた。私たちの、真の王が)
第三近衛師団長「千刃の風使い」ハヤテは、床の一点を見つめたまま、その胸の内で歓喜の涙を流していた。
隻眼の青年の背中には、透き通るような風の短剣が多数背負われている。
かつて泥をすすっていた自分を拾い、最も近くで育ててくれたゼピュロス。
その主から染み出す「真空」の気配が、無差別な破壊の衝動ではなく、テンペストの調律を保つための「理知の盾」に戻っていることを、ハヤテは誰よりも敏感に察知していた。
(ノクスの呪縛は消えた。ゼピュロス様の目は、もう濁っていない。かつてのように、世界を広く見据える大空の覇王としての威厳に満ちている……!)
ハヤテの隣で、第二近衛師団長「天障の智将」ニルヴァもまた、細いフレームの眼鏡の奥にある目を僅かに和らげていた。
細身のローブの下で魔導杖を携えるインテリの彼は、ここ数日間の国政の乱れに誰よりも心を痛めていた。ノクスの竜神族たちが我が物顔で王宮を闊歩していた悪夢は去り、地脈の同期システムに混ざり込んでいた不快なノイズも完全に排除されている。
ニルヴァが現場で統括する「大陸一の防空網」は、再び数理的な完璧さをもってテンペストの空を護っていた。
(やはり、あれは王の本来の御心ではなかった。ノクスの長が滅び、術式が上書きされたことで、テンペストの風は本来の清廉さを取り戻したのだ。……だが)
ニルヴァは同時に、かつてない緊張感をその背に感じていた。
復帰したゼピュロスが、ノクスを打倒したアレンたちの存在を、そしてそのアレンが起こした『白竜の翼』との同調拒絶(熱暴走)の事実を、どのように捉えているのか。
それがこれからの国家の方針、ひいては大陸の勢力図を大きく決めることになる。
数日前、王が残した言葉。
アレンが『白竜の翼』を宿す資格があるかを試すような、あの厳しい眼差しを。
アレンたちの『器』の欠陥を誰よりも最初に見抜いたゼピュロスが、この次なる局面にどう動くのかを、誰もが息を呑んで待っていた。
そして三人の中で最も前方に平伏する第一近衛師団長、「神速の蒼翼」シルフは、鋭いショートヘアの隙間から、冷ややかに玉座を見つめていた。
風を裂くための超薄型の軽量鎧を纏う彼女は、合理主義の極みを行く女傑である。
ゼピュロスがノクスの影響から脱したことを喜びつつも、彼女の頭脳はすでに「次なる一手」への合理的な計算を始めていた。
「――近衛の騎士たちよ」
地鳴りのような、低く重々しい声が王宮を震わせた。ゼピュロスの口が開いたのだ。
その声が響いた瞬間、謁見の間の全酸素がピタリと安定し、ノイズの無い純粋な静寂が空間を支配する。
「ノクスという名の矮小な闇は、ドラグニルの羽虫ども――いや、アレンの手によって塵へと還った。天空城の権限は奪い返され、この世界を縛っていた歪な呪詛は解けた。……だが、世界の歯車は、むしろここから加速する。」
ゼピュロスの冷淡な、しかし極めてクリアな瞳が、三人の師団長へと向けられる。
「まず、お前たちに我がテンペストの新たな国是を伝える。――我らは、烈火の竜王国ドラグニルと正式に同盟を結ぶ。」
その力強い宣言に、三人の師団長は一瞬だけ驚きに目を見開いた。
長年、大空と烈火として時に競い、時に不可侵を貫いてきた二大国家が、真の意味で手を結ぶ。
その歴史的な決断が、ゼピュロスの口から一切の迷いなく告げられた。
「あやつらは不完全ながらもノクスの長を打ち破り、その実力を証明してみせた。世界が真の破滅へと向かう前に、大空と烈火は世界の両輪として機能せねばならん。近衛の騎士たちよ、今後ドラグニルの者を敵と見なすことは一切許さぬ。奴らは我らの、最も信頼に足る『同盟国』だ。」
「御意に」
シルフが、そしてニルヴァとハヤテが同時に深く頭を垂れた。彼らの胸から、これまでの国家間の不和に対する懸念が完全に消え去り、次なる大局への道筋がはっきりと見えた瞬間だった。
ゼピュロスは静かに、しかし有無を言わせぬ絶対的な覇気をもって、三人に次なる命令を下した。
「だが、同盟の基盤を揺るがす火種が、未だ我がテンペストの内外に蠢いている。……近衛の騎士たちよ、リガルドへの進軍は行わぬ。お前たちに、このテンペストを護るための、真の防衛と内偵の任務を言い渡す。」
ゼピュロスは一度言葉を切り、まず第一師団長を見据えた。
「シルフ。お前は『神速・突撃大隊』を率い、大陸中に散ったノクスの竜神族どもの動きを徹底的に調査しろ。奴らの拠点は潰えたが、その残党がどこで深淵の再起を企てているか、あるいは真の黒幕の手先として動いているか、その実態を『神速』で暴き出すのだ。」
「了解いたしました。」
シルフは頭を下げたまま、その鋭い声を響かせた。
「第一師団長として、即座に隠密偵察網を大陸全土へ展開します。ノクスの竜神族どもの残存魔力波形はすでにデータベースに登録済みです。奴らのいかなる微弱な蠢きも、我が突撃大隊の速度から逃れることはできません。作戦の完全遂行を、お約束します。」
シルフの瞳に、純粋な戦士としての高揚感が宿る。
無駄な侵略や不合理な虐殺ではなく、国家の安全と大陸の平和を担保するための「完璧な情報戦数式」を解くこと。それこそが、彼女の真の矜持だった。
「ニルヴァ」
次にゼピュロスが呼んだのは、第二師団長の名だった。
「はっ」
ニルヴァは眼鏡の位置を直し、背筋を伸ばした。
「お前は『風壁・結界大隊』を統括し、ノクスの竜神族どもによって徹底的に荒らされたテンペストの国政を、数理的な正しさをもって即座に整え直せ。歪められた地脈の同期システムを再調律し、不純物を完全に排除するのだ。我が国の防空網を、元の清廉なる『天障』へと完全に戻せ。」
ニルヴァの胸に、熱いものが込み上げてきた。
「ゼピュロス様……! 畏まりました。我が大隊の総力を挙げ、国政の歪みを正し、大陸一の防空網を数刻のうちに完全復活させてみせましょう。テンペストの純粋なる魔導、その威信にかけて、二度と外部の邪悪に我が国の法を汚させはいたしません。」
ニルヴァの杖を握る手は、もう震えていなかった。
王の本来の知性が戻り、ノクスの介入をすべて排除して内政を整えるという命令は、彼にとって何よりの救いであり、本来の誇りを取り戻すための聖務だった。
「ハヤテ」
最後に、ゼピュロスは最も若き第三師団長の名を呼んだ。
「はい……っ!」
ハヤテの身体がビクリと跳ねる。
しかし、そこにはもう恐怖の色はなかった。慕う親の前に立つ子供のような、純粋な緊張感と忠誠心が溢れていた。
「お前は『真空・魔導大隊』を率い、我が国で現在厳重に再管理されている『白竜の翼』の防衛任務に就け。アレンが起こした過負荷により、翼はカイルの手で一時的に封印されたが、その強大すぎるエネルギーは、常に外敵や深淵の影に狙われ続けることになる。ハヤテ、お前の『真空』の加護をもって、何者もその封印コンテナに近付かせるな。一歩でも不埒な者が近づけば、大気を奪い、その場に平伏させよ。いいな。」
「はい……! はい、ゼピュロス様!」
ハヤテの隻眼から、歓喜の涙がこぼれ落ちそうになる。
「僕の『千刃の風』、そして大隊のすべての風を以て、白竜の翼を、そしてテンペストの未来を絶対に護り抜きます! アレンさんたちが、その歪な器を完成させて戻ってくるその日まで、一つの傷も、一つの不純物も、あの遺産には触れさせません!」
ハヤテは床に両手を突き、声を詰まらせながらも、これ以上ないほど力強い服従の誓いを立てた。
彼の背負う風の短剣が、チリンと、清々しく高い音を立てて謁見の間に響き渡った。
「往け、天嵐の騎士たちよ。我が国を本来の調律へと戻し、次なる決戦に備えるのだ。アレンよ……お前が仲間たちと共に、リガルドの地で『左の防壁』を行方を見つけ出し、完全なる器として我が前に立つその時まで、この大空の背後は、我らがテンペストの風が完全に護り抜いてみせよう。」
ゼピュロスが静かに目を閉じると、王宮の最上階から、三人の師団長を包み込むようにして清らかな蒼い風が吹き抜けた。
それは彼らの体内の魔力回路を極限まで活性化させ、王の絶対的な加護を付与する「覇王の風」だった。
シルフは無言で立ち上がり、限界まで削ぎ落とされた軽量鎧の感触を確かめながら、蒼いマントを翻して歩き出した。
その瞳には、疑問を完全に払拭した、神速の女傑としての鋭い光が宿っている。
ノクスの残党の不穏な動きを、大陸の果てまで追い詰めるために。
ニルヴァは理徹な目の奥に確かな誇りを湛え、魔導杖をしっかりと握り直して、荒らされた国政を完璧な数理をもって整え直すために現場へと向かう。
ハヤテは隻眼の涙を袖で拭い、満面の笑みをその顔に浮かべながら、風のように軽やかに二人の姉姉の後に続いた。
アレンたちが戻るべき最高の遺産『白竜の翼』を、完璧な絶対防御の檻で護り抜くために。
天嵐近衛騎士団、三人の師団長。
彼らの胸にあった葛藤と恐怖は完全に消え去り、今や「絶対の王命」という名の、ドラグニルとの同盟を強固にし、テンペストの真の調律を取り戻すための完璧な数式を遂行するため、彼らはそれぞれの任務へと、誇り高き歩みを開始するのだった。
テンペストの清廉なる風は今、アレンたちの帰還を最高の状態で迎えるための、大いなる『守護の暴風』へと変わりつつあった。




