幕間② 「支配力の洗礼」
ある日の午後。
マグマリアの王宮に併設された広大な中庭は、うららかな陽光に包まれていた。
数日後にテンペストとね大戦が控えているとは信じられないほど、そこには穏やかな時間が流れている……はずだった。
「――っ、く……!」
中庭の片隅、大理石のベンチで、頭部に一対の「竜の角」を持つ竜人族の女戦士・エルザが小さく声を漏らした。
マグマリアの激闘で負った脇腹の傷が急に疼いたのか、彼女は痛々しくもそれを堪えるように、無意識に鋼鉄の籠手で脇腹を押さえて歩みを止める。
感情の揺らぎに呼応して、頬の端に薄く赤い「鱗」が小さく覗いていた。
「おい、エルザ。無理すんなって言っただろ」
そこへ、お盆に乗せた温かいお茶と、昨日カイルから渡された焼き菓子の残りを運んできたアレンが眉をひそめた。
「なんでもないわ、アレン。これしきの傷、あの時のバルザックの首を獲るための覚悟に比べれば……」
エルザは鋭い八重歯を覗かせ、苛烈な炎を宿した瞳で強がってみせる。
「はぁ……。本当に、頑固で不器用なお嬢さん達だね。」
近くの東屋で、手元の魔導書から顔を上げたのは元第三師団・主席魔導参謀のカイルだ。
眼鏡のブリッジを指先で押し上げながら、いつものようにニヤニヤとした笑みを浮かべている。
「傷を労わらないと、いざという時にその自慢の剣が鈍るよ? もっとも、僕の医療魔術で今すぐ細胞ごと焼き直してあげてもいいけれど……結構痛いよ?」
「断るわ、カイル。あんたの胡散臭い術に頼るくらいなら、寝て治す!」
そう言って冷たくあしらったのは、白い軍服に身を包んだ第一師団・遊撃隊長のレイラだった。
彼女は中庭の警備を兼ねてそこにいたが、カイルの軽薄な態度にはいつも容赦がない。
「おいおい、手厳しいなレイラ。これでも僕は君たちの命の恩人なんだけど?」
「フン、お前らの内輪揉めはどうでもいいが、エルザの傷はガチだ。アレン、さっさと座らせな。」
影からぬっと姿を現したのは、レジスタンス隊長のガロウだ。
黒い毛並みが混じる亜人族(黒狼の獣人)の巨躯を揺らし、顔の左半分の大きな火傷の痕を動かしながら、鋼鉄の義手でエルザの肩を優しくベンチへと押し込む。かつて幼い彼女を保護し、戦い方を教えた彼なりの不器用な気遣いだった。
「……っ、私はまだ動けるわ、ガロウ!」
エルザは頑なに立ち上がろうとし、ガロウがそれを義手で制する。
そこへ、さらに最悪の男が通りかかった。
「騒々しいぞ。アレンの休息の場を汚すな。」
腕を組み、傲然たる足取りで現れたのは火竜神族の王・イグニスだった。
「特にエルザ。傷を負った無様な姿をアレンの前に晒すな。」
その言葉に、エルザの瞳に一気に激しい憎悪が宿った。
頬の鱗が逆立ち、八重歯がギリ、と軋む。
ガロウもまた、義手を軋ませてイグニスを睨み据えた。
レイラは剣の柄に手をかけ、カイルは「おやおや」と楽しげに傍観している。
一瞬にして、のどかだった中庭が、血を洗う戦場の一歩手前へと変貌する。
その中心で――ただ「みんなで茶でも飲もう」と思っていただけのアレンの堪忍袋の緒が、ついにブチ切れた。
「……どいつもこいつも、いい加減にしろって言ってんだよ!!」
アレンが手にお盆を持ったまま、怒りに任せて怒鳴りつけた――その瞬間だった。
――ドクン!!――
日常の穏やかな空間が、突如として底なしの深海へと沈んだかのような錯覚。
アレンの背後に、陽光を遮るほどの「傲然たる純白の巨影」がゆらりと立ち上った。
天を衝く白竜の輪郭。
同時に、アレンの瞳が冷徹な縦長の『竜眸』へと変わり、そこから絶対的な『支配の波動』が周囲へ爆発的に放射された。
「――ッ!?」
真っ先にその場で崩れ落ちたのは、傲慢に言い放ったはずのイグニスだった。
最強の火竜神族である彼の肉体が、魂の根源に刻まれた『絶対王政』の呪縛によって、ガチガチと激しく震え始める。
抗うことなど微塵も許されない王の威圧。
イグニスは胸を押さえ、猛烈な息苦しさに喘ぎながら、中庭の芝生にドサリと片膝を突き、頭を垂れた。
(な、んだ……この、絶対的な、力は……日常の、ただの八つ当たりで、これほどの……っ!?)
「あ、う……アレン、様……待っ、魔力が……っ」
カイルは持っていた魔導書を放り出し、両手で頭を抱えてベンチから転げ落ちた。
白竜帝の無意識の怒りに呼応して、王宮の地下の竜脈が暴走。過剰な魔力がカイルの体内に逆流し、彼の端正な顔を苦悶で真っ白に染め上げる。
「く、あ……っ」
レイラもまた、息を吸うことすらできず、白い軍服を芝生で汚しながらその場に両手をついて平伏した。
騎士としての矜持も、白竜の絶対支配の前には何の意味もなさなかった。
「ガハッ……! クソ、冗談、じゃねえ……っ!」
ガロウは鋼鉄の義手を地面に深く突き立て、野獣としての本能が鳴らす最大級の危険警報に脂汗を流していた。全身の毛が逆立ち、一歩も動けない。
「ア、レン……?」
エルザだけは、その場にへたり込みながらも、狂おしいほどの強い瞳でアレンを見上げていた。
負傷した体にのしかかる圧は重かったが、彼女の意志だけは、この絶対的な王の気配にすらギリギリで抗っていた。
周囲のあまりの惨状と、自分が持っていた湯呑みの茶が、自身の発した圧力の振動で激しく波打っているのを見て、アレンはハッと我に返った。
「あ……おい、すまん! 今のはその、怒鳴るだけのつもりで……!」
アレンが慌てて頭を冷やすと、背後の純白の巨影は霧のように消え去り、その瞳も元の濁りのない人間のものへと戻った。
「はぁっ、はぁっ、はぁ……!」
圧迫から解放されたイグニスが、猛烈に息を荒げながら床に手を突く。
その額からは冷や汗がアポロのように滴り落ちていた。
しかし、その瞳には、自分の王がこれほど圧倒的であることへの、狂信的とも言える歓喜がギラギラと輝いている。
「……信じられないな。ただの『お説教』で、僕たちをここまで完璧に調教するなんてね。」
カイルが震える手で眼鏡を拾い上げ、衣服の乱れを整えながら、引きつった笑みを浮かべた。
「アレン様。君のその『支配力』、やっぱり制御できていないね。」
「ふん、日常茶飯事でこれじゃあ身が持たねえが、頼もしい大将だ。」
ガロウが義手を引き抜き、顔の火傷を歪めて不敵に笑う。
「ええ。アレン様が道を拓いてくださるなら、私は上空から確実に敵陣を強襲します。」
レイラもまた、衣服の土を払いながら、騎士としての鋭い視線で頷いた。
「アレン。あなたのその力、決戦の場で見せつけてやりなさい!」
エルザが鋭い八重歯を覗かせ、苛烈な覚悟を秘めた笑みをアレンに向けた。
ただの日常の諍いを止めるつもりが、全員を恐怖と歓喜で平伏させてしまった。
アレンは自身の掌を見つめながら、己の中に眠る白竜帝の理不尽な力に、人知れず盛大にため息をつくのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
中庭での騒動から、さらに数時間が経過した夜のこと。
王宮の私室に戻ったアレンは、ベッドに寝転がりながら天井を睨みつけていた。
(何なんだよ、一体……)
昼間に引き起こしてしまった失態のせいで、アレンの心はひどく波立っていた。
ただの人間として育ってきた自分の中に、触れることすら恐ろしい『白竜帝』の絶対的な支配力が確実に根を張っている。
その底知れない恐怖と、数日後に迫るテンペストとの決戦への緊張が、アレンの神経をじわじわと削り、脳を過敏に冴え渡らせていた。
――ドクン、ドクン、と。
苛立ちと不安に比例して、アレンの右腕の奥、魂の芯が不規則に脈動を始める。
アレン自身は必死に感情を抑え込んでいるつもりだった。
しかし、彼が完全に眠りにつくこともできず、鬱屈とした思考のループに陥っているその間にも、彼の身体からは無意識のうちに「白竜の魔力の波動」が、さざ波のように、しかし濃密に周囲へと漏れ出し続けていた。
それは、アレン自身すら気づかないほど微弱で、不可視の魔力のさざ波。
だが、その影響は王宮の壁を透過し、またたく間に城内に広がっていった。
「――っ、は……あ……?」
最初に向かいの執務室で異変を察知したのは、カイルだった。
手元の書類にペンを走らせていた彼は、突如として襲ってきた強烈な目眩と身体の火照りに、思わずペンを落とした。
カイルの端正な顔が、またたく間に朱に染まっていく。
魔導参謀として莫大な魔力をコントロールする彼だからこそ、その影響は劇的だった。
王宮の地下を流れる竜脈(魔力)が、アレンの流す波動に過剰同調し、カイルの魔力回路へ奔流となって流れ込んできたのだ。
「っ、く……あはは、なんてことだ……。アレン様、ただ起きて悩んでいるだけで、僕たちの魔力をここまで狂わせる(・・・・・)なんて……ッ」
カイルは震える指先で眼鏡のブリッジを押し上げようとしたが、指に力が入らず、そのまま机に突っ伏した。
体内の魔力回路が歓喜の悲鳴を上げ、強制的に「活性化」させられている。それは苦痛であると同時に、竜族としての本能を極上の快楽で満たすような、恐るべき支配の波動だった。
同じ頃、王宮の長い回廊を巡回していたレイラは、その場に崩れ落ちそうになるのを、壁に手を突いて必死に堪えていた。
白い軍服の胸元を、細い指先でぎゅっと掴み、激しく息を乱す。
「な、に……この、温かくて……重い、気配は……っ」
遊撃隊長である彼女の強靭な肉体が、内側から激しく疼いていた。
アレンの放つ波動は、イグニスの狂気に絶望し、真の正義を求めて戦う彼女の魂の隙間に、容赦なく染み込んでくる。
抗うことなどできない。
ただただ、その波動の源であるアレンの元へ駆けつけ、その足元に跪き、守られたいと願ってしまう。
騎士としての強固な理性が、白竜帝への盲目的な忠誠心によってドロドロに溶かされていく感覚に、レイラは脂汗を流しながら歯を食いしばるしかなかった。
王宮の地下、レジスタンスの待機所では、ガロウが凄まじい獣の咆哮を必死に喉の奥で押し殺していた。
「ガ、ア……ッ!! クソが、何が……起きやがった……!」
黒い毛並みが混じる亜人族(黒狼の獣人)である彼は、生物としての本能が最も鋭敏だった。
顔の左半分の大きな火傷の痕が、体温の上昇で赤黒く浮き上がる。
ガロウは鋼鉄の義手で頭を抱え、獣特有の荒い息を吐きながら床を転げ回った。
アレンの波動は、彼の野生の防衛本能を完全に破壊していた。
「逃げろ」と脳裏で警報が鳴り響く一方で、身体は「逆らうな、その絶対者に命を捧げよ」と命じている。かつて故郷を滅ぼされ、誰よりも強靭な精神力を培ってきたレジスタンスの将が、ただ一人の少年が放つ無意識の気配に、完全に圧倒されていた。
そして、アレンの私室に最も近い客間で休んでいたエルザもまた、ベッドの上で激しく身悶えしていた。
「あ、う……アレン……、っく!」
感情の高ぶりに呼応するように、彼女の頬の端に薄く赤い「鱗」がびっしりと浮かび上がり、唇の間から鋭い八重歯が剥き出しになる。
ドラグニルでの死闘で負った脇腹の傷が、熱を帯びて激しく拍動していた。
だが、それは傷の悪化ではない。アレンの魔力の波動が、エルザの体内の竜人族としての血を強制的に呼び覚まし、凄まじい速度で傷を強制再生させているのだ。
彼女の「剣」としての魂が、アレンの圧倒的な「王の器」に共鳴し、震えている。
エルザは痛々しくもシーツを血がにじむほど強く握りしめ、ただアレンの部屋がある方向を見つめ、熱い吐息を漏らすことしかできなかった。
王宮の最上階。
イグニスは、月明かりが差し込むバルコニーで、ただ一人静かに立ち尽くしていた。
火竜神族の王である彼の身体からも、アレンの波動に呼応するように、赤黒い烈火の魔力が勝手に吹き荒れている。
イグニスの頑強な身体は歓喜で震えていた。
アレン自身がどれだけ拒絶しようとも、その魂から溢れ出る白竜帝の魔力は、こうして王宮にいるすべての竜族、竜人、亜人たちを確実に『支配の檻』へと閉じ込め、変貌させていく。
「お前がどれだけ望まなくとも……お前は我らの『神』なのだ、アレン。」
イグニスは暗闇の中で鋭い牙を覗かせ、狂信的な笑みを浮かべた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
翌朝。
ようやく少しだけ眠れたアレンが部屋を出ると、そこには異様な光景が広がっていた。
回廊に控えるドラグニルの兵たちやメイドたちが、アレンが通りかかる遥か手前から、全員が一糸乱れぬ動きで床に深く平伏する。
その全員の目が、どこか熱を帯びたように潤み、アレンを崇拝の眼差しで見つめていた。
「……? おい、みんな、どうしたんだ?」
不審に思ったアレンの前に、カイル、レイラ、ガロウ、エルザの4人が姿を現す。
カイルはいつもより少し顔色を紅潮させ、眼鏡を直しながら引きつった笑みを浮かべた。
「おはようございます、アレン様。……いやはや、昨夜は素晴らしい『洗礼』をありがとうございました。おかげで寝不足ですよ。」
「洗礼……? 何のことだよ」
アレンが眉をひそめる。
レイラは白い軍服を完璧に整えていたが、アレンと目が合った瞬間、わずかに耳の裏まで赤く染めて視線を彷徨わせた。
「……いえ、アレン様が健やかであられるなら、我ら臣下にとってこれ以上の喜びはありません。」
「ふん、おかげで一晩中、獣の血が騒いで一歩も動けなかったぜ?」
ガロウが義手を軋ませ、顔の火傷を歪めて不敵に笑うが、その立ち姿には明確な『臣下としての礼節』が混じっている。
「アレン」
エルザが一歩前に出た。
驚いたことに、昨日まで痛々しく堪えていたはずの脇腹の傷が、すっかり完治したかのように彼女の足取りは軽かった。
エルザは鋭い八重歯を少しだけ覗かせ、苛烈な、しかしどこか艶っぽい笑みをアレンに向けた。
「あなたの魔力のおかげで、傷が完全に塞がったわ。これで、いつでも戦いに行ける。」
「はぁ!?」
アレンは自身の両手を見つめ、愕然とした。
自分がただ寝苦しい夜を過ごしていただけで、王宮の化け物たちを全員、無意識に『調教』してしまっていたという事実に、アレンは人知れず頭を抱え、盛大なため息をつくしかなかった。




