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⑩嵐の真実

 天脈の昇降陣(グランド・リフト)が最上階へ到達し、轟音とともに停止する。

カイルがリフトの制御盤をハッキングして大門のロックを強制解除した瞬間、天空宮殿を遮る巨大な結晶の扉が、左右へと静かに滑り開いた。

 

――だが、そこに待っていたのは、凄まじい嵐でも、ノクスの伏兵でもなかった。

完全なる、死の静寂。

一歩足を踏み入れた瞬間、アレンたちの全身に凄まじいまでの「消失感」が襲いかかった。


「……ッ!? ぐ、は……っ!」

 エルザが喉をかきむしり、その場に激しく膝を突く。

肺の中の空気が、周囲の空間へと強制的に吸い出されるような感覚。

音を伝えるべき大気すら存在しない。

そこは、奪う酸素すら初めから存在しない、風王ゼピュロスが展開した絶対の『真空』領域だった。


「おの、れ……っ、これほどの規模、で……!」

 カイルもまた、魔術障壁を張るための「呪文(詠唱)」の声を出すことすらできず、窒息の激痛に視界を火花で散らせる。

ハヤテの操る劣化版とは次元が違う。

空間そのものを無へと変える、本物の天嵐の支配者の権能がそこにあった。


「フン……! 俺の前で、随分と不埒な空間を作ってくれるではないか、ゼピュロス!」

激しい窒息の檻の中で、巨体を震わせて一歩前に進み出たのは、紅蓮の竜王イグニスだった。

 彼は喉を使わず、身体から直に『爆炎』を噴出させた。

酸素のない真空の領域であろうとも、地脈の熱エネルギーそのものを燃やすイグニスの熱波は消えない。

紅蓮の炎が周囲の真空を力任せに焼き焦がし、アレンたちの周囲にわずかな大気の対流を無理やり作り出す。


「ハァ、ハァ……ッ! 助かった、イグニス……!」

アレンは肺に飛び込んできた熱い空気を貪るように吸い込み、愛剣を構えた。

 フードが風すらない空間で不気味に逆立ち、血のような赤眼が、王座の間の奥を見据える。

 そこには、濁った赤黒い瞳をギラつかせ、冷徹に彼らを見下ろす風王ゼピュロスが佇んでいた。

 彼の全身からは、黒い泥のようなオーラが、滝のように宮殿の床へと染み出している。

かつて部下達が慕っていた理知的な覇王の面影はどこにもなく、そこにあるのは世界のすべてを否定し、消滅させようとする狂王の威圧そのものだった。


『――よくぞ這い出てきた、我が数式を乱すノイズども。』

 音が伝わらないはずの真空の空間に、ゼピュロスの冷酷な「思念」が、直接脳を突き刺すような不快な響きで響き渡る。


『白竜の心臓と同化し、創造主のバグコードを操る人間の小僧。そして、正気を取り戻したとて満身創痍のイグニス。……非合理だ。これほどの戦力差がありながら、我が『真空』の領域へ自ら飛び込んでくるとは。その傲慢の代償、今ここで肉体ごと削ぎ落として証明してやろう。』

 ゼピュロスが右手を軽く掲げた瞬間、イグニスの炎によって作られたわずかな空気の防壁すらも、ギチギチと音を立てて再び圧縮され始めた。

呼吸を奪われ、音を奪われ、一歩動くことすら命を削る極限の死地。

闇に呑まれた狂王との、大陸の命運を賭けた最終決戦の火蓋が、ついに切って落とされた――



◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 


 ギチギチと大気を圧殺する『真空』の結界。

その圧倒的な権能の最中、正面からゼピュロスと対峙していた覇王イグニスの赤眼が、鋭く細められた。

500年来の戦乱を共に駆け抜けた盟友の「全盛期」を誰よりも知る男の洞察力は、狂王の致命的な異変を見逃さなかった。


「――ゼピュロス。お前の『真空』、全盛期の半分も維持できておらんぞ?」

 イグニスの低い呟きが、胸の傷から噴き出す炎の爆音に混ざって響く。


「チッ……」

傍らに控えていたネロの手先、ノクスの竜神族が舌打ちをし、わずかに動揺の気配を見せた。

 

「闇に呑まれただけではない。その身、内側から激しく蝕まれておるな。……カイルよ、この男の魔力波形を視ろ!」

 イグニスの鋭い指示に、カイルは即座に魔導端末を展開した。

窒息の苦しみに耐えながら、冷徹な平和主義者の目でゼピュロスから放射される魔力の数式を瞬時に解析する。


「……っ、これは! 闇の魔力じゃない、ただの『遅効性の猛毒』だ! それも、数十年単位で少しずつ細胞を壊死させる、ノクス特有の忌むべき禁忌毒……!」

 カイルの驚愕の声に、エルザがハッと息を呑み、アレンの赤眼がゼピュロスを射抜いた。

ゼピュロスの全身から立ち上る黒いオーラ。

それは闇などではなく、毒に侵され、自国の民を守る術を絶たれた彼が、限界を超えて魔力を絞り出している「命の灯火の煤(すす)」だったのだ。


『――黙れ、ドラグニルのトカゲども。』

ゼピュロスの思念が、激しい怒りと共に脳内へ響く。しかし、その声は初めて、痛切な苦悶に震えていた。


『我が風が弱かろうと関係ない。……私は、テンペストの王だ。この防空網がなければ、我が民は一瞬で闇に、ノクスの化け物どもに喰らい尽くされる……!』


「そうか。お前、民を人質に取られていたのだな。」

イグニスが皮膚から血をにじませながら、一歩、また一歩と真空の暴風を押しのけて進み出る。

その眼差しには、哀れみではなく、同じく闇に狂わされた王としての、深い憤怒が宿っていた。


「数式を愛し、完璧を求めた天才の末路がこれか! 民を守るための防空網を、ノクスの毒虫どもに人質として握られ、生殺しにされながら操り人形を演じていたというわけだ!」

「その通りだよ、覇王イグニス。」

 ゼピュロスの背後の影から、ノクスの竜神族が不気味に嗤いながら姿を現した。

その手には、天空宮殿のさらに奥にある、テンペストの住人たちの「命の結晶」を縛る不気味な闇の呪詛が握られている。


「この男は哀れな王さ。我々が少しずつ毒を盛り、防空システムの制御権を乗っ取ってからは、ただの便利な『番犬』だよ。我が主のために、小僧の『白竜の心臓』を奪うためのね!」

「……チッ、胸糞悪い話だ。」

 アレンが白銀の髪をフードから覗かせ、愛剣の柄を固く握りしめた。

右腕の『聖鱗』が、ゼピュロスの悲痛な魔力と、ノクスの放つ最悪の歪みに反応し、かつてないほど激しく脈動する。


「おい、イグニス、エルザ。……カイル。作戦変更だ。あの狂王をぶっ叩く前に、あの背後の虫ケラどもを、一瞬で塵に還すぞ!」

「ええ……! 人の気高さを踏みにじる奴らなんて、私の炎で一欠片も残さず焼き尽くしてあげるわ!」

 エルザの大剣から、ドラグニルの気高き火の魔力が爆発的に噴き上がった。

 ゼピュロスの悲しい真実が暴かれ、4人の闘志は「狂王の救出」と「ノクスの完全殲滅」へと一本に収束した。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 それは、今から数十年前に遡る。

テンペストの結晶宮殿の最奥で、風王ゼピュロスは完璧な防空網の構築に向け、魔導演算の数式結晶を冷徹に見つめていた。

 彼の背後の影から、不気味な気配を纏った――ノクスの竜神族が、給仕のために一本の酒杯を捧げ持ってきたのは、ちょうどその時だった。


「ゼピュロス様、本日も国政のご高覧、お疲れ様にございます。我が主からの、親愛の美酒をどうぞ。」

「……フン。非合理的だな。私にそのような毒にも薬にもならぬ液体は不要だ。」

 ゼピュロスはエメラルドグリーンの瞳を向けすら見なかった。

しかし、ノクスの使者は不気味に目を細め、言葉を重ねた。


「これはただの酒ではございません。……現在、ドラグニルのイグニス王が進めている、白竜の『心臓』を用いた焦土兵器計画。それを止めるための、我が主の『高度な計算』による協調の証にございます。」

「イグニスが……白竜様の遺産を兵器に?」

 その言葉に、ゼピュロスの美しい眉が僅かに動いた。

完璧を愛する彼にとって、世界を消し去るほどの焦土兵器など、最悪の『バグ』でしかない。

イグニスの狂気を止めるための計算――そう信じ込まされたゼピュロスは、冷徹な目を隠さぬまま、その酒杯を手に取り、喉へと流し込んだ。

――それが、彼を数十年にわたり生殺しにする、ノクス特有の「遅効性禁忌毒」の始まりだった。

 一口飲んだ瞬間、彼の血管をドロリとした不快な熱が駆け抜ける。


「(何だ……? 魔導演算の処理速度が……コンマ数秒、遅れている……?)」

 ゼピュロスが異変に気づいた時には、すでに手遅れだった。

 細胞を少しずつ壊死させる毒は、彼の強大な風の魔力を『民を守る防空網の維持』に全て割かなければ、肉体が崩壊するレベルまで彼を蝕んでいく。

ノクスの長は、民の命を人質に取り、守る術を絶たれた天才を、都合の良い『番犬』へと仕立て上げていった。

 濁っていく赤黒い瞳の中で、ゼピュロスはそれでも「王としての民を守らねば。」と自分に言い聞かせ、操り人形の狂王へと堕ちていったのだった。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 

「――まさか。我がドラグニルを、そしてこのテンペストを狂わせた深淵の闇が、すべてノクスにいるあのネロと繋がっていたというのか……!」

 ノクスの手先が嗤いながら口にした真実を前に、覇王イグニスの全身から、半壊した王宮を震わせた時以上の凄まじい業火が噴き上がった。

 500年来の戦乱を共に戦い抜いた盟友ゼピュロスを毒で生殺しにし、自らのドラグニルをも内乱の地獄へと突き落としたすべての元凶。


「ノクスの蟲けらどもが……! 我が誇り、我が同胞たちの血と涙、そのすべてを弄んだ代償――我が紅蓮の劫火で、魂の一欠片まで灰にして購わせてやる!!」

 イグニスの咆哮が、音を伝えるはずのない『真空』の空間を力任せに震わせ、ノクスの竜神族たちを恐怖で戦慄かせた。


「イグニス様が敵の注意を完全に引きつけている! カイル、今よ!」

 エルザが大剣を構えてイグニスの熱波の盾となり、背後のカイルを守る。

「了解。……まったく、人の国を何だと思っているんだか。おもちゃにするには悪趣味すぎるよ!」

 カイルは目をギラつかせ、ハッキング用の魔導端末を展開した。


「アレンくん、右腕を。君の『白竜の心臓』の魔力を一時的に僕の術式へとバイパス接続させてもらうよ!」

「チッ、またこれか。……さっさと終わらせろよ、カイル!」

 白銀の髪をなびかせた少年アレンが、血のような赤眼を鋭く尖らせながら右腕を突き出した。

『白竜の炉心』が激しく脈動し、創造主の絶対的な白銀の魔力が、カイルの編み出した魔術回路を通じてゼピュロスの空間へと奔流となって流れ出す。


「数式を上書きする。風王ゼピュロス――君の体を侵す遅効性の猛毒(バグ)の構造は、すでに僕の頭の中で解式(ハッキング)済みだ。创造主の魔力コードで、その毒素を根底から消滅(デリート)する!」

 カイルの指先が端末を叩くと同時に、アレンの『心臓』から抽出された純白の光が、ゼピュロスの全身へと突き刺さった。


『――ぐ、あああああああッ!!』

 ゼピュロスの口から、痛切な、しかし濁りのない悲鳴が上がる。

 彼の体内を数十年にわたって蝕み、民を守る自由を奪い続けていたノクスの禁忌毒が、アレンの白銀の魔力によって強制的に中和され、霧散していく。

濁っていた彼の赤黒い瞳から闇の煤が剥がれ落ち、かつての理知的で聡明な、テンペストの真の王の光が甦りつつあった。


「な、何だと……!? 我がノクスの禁忌毒が、人間の術式と心臓の力ごときに……!」

 人質を盾に嗤っていたノクスの手先たちが、その計算外の事態に初めて顔を青ざめさせた。

 毒の鎖は断ち切られた。

あとは、覇王の怒りとアレンたちの牙が、その邪悪を噛み砕くだけだった。


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