⑧進軍ー2
その頃、テンペストの最奥。
美しく洗練されていたはずのエメラルドグリーンの結晶宮殿は、今や異様な不気味さに満ちていた。
王座の背後に広がるのは、天空。
しかし、そこから吹き込んでくるのはかつての清涼な風ではない。
闇の魔力が混ざり合った、どろりとした淀んだ大気だった。
王座に深く腰掛けている男――テンペストの主、風王ゼピュロス。
かつては理知の塊であり、大陸一の防空網を編み出した天才たる王。
しかし今の彼の目は完全に濁り、かつての聡明な覇気は深淵の闇に塗りつぶされていた。
ピキ……、ピキキキィンッ……!
突如として、ゼピュロスの眼前に浮かんでいた魔導演算の数式結晶が、不快な音を立てて次々とひび割れ、爆散した。
国境の防空網が、アレンの【白銀の矢】によって概念から強制シャットダウンされた証拠だった。
それと同時に、宮殿の周囲を巡っていた風の防壁が完全に消失し、静寂が王座の間を包み込む。
「……ッ!? ニルヴァの結界が、消えた……?」
王座の傍らに控えていた不気味なノクスの竜神族が狼狽の声を上げる。
「馬鹿な、人間のカイルが遺した暗号ログなど、ニルヴァの数式で完全に処理していたはず! 一体何が起きた!?」
しかし、ゼピュロスは微動だにしなかった。
ひび割れた結晶の破片が床に転がるのを、濁った赤黒い瞳で見つめている。
その口元が、狂気とも自嘲ともつかない歪な形で、ゆっくりと吊り上がった。
「……なるほど。計算が合わないはずだ。」
ゼピュロスの声は、まるで喉の奥から絞り出すように掠れていた。
かつてハヤテやシルフが慕った、あの理知的で穏やかな声の面影はどこにもない。
「我が風の数式を狂わせたのは、ただの術式ではない。……世界のシステムそのものを上書きする、創造主のバグコード。白竜アルヴァ様の、輝きか……。」
ゼピュロスがゆっくりと立ち上がると、彼の全身から、黒い泥のような闇のオーラが吹き荒れた。
彼の天才的な頭脳は、自分たちの防空網を落としたのが、カイルの知略とアレンの『炉心』、そして『白竜の心臓』が融合した「特異点」であることを瞬時に理解していた。
「シルフも堕ち、ニルヴァもハヤテも敗北したか。」
現地の映像通信水晶から現状を確認しながら冷酷に吐き捨てるゼピュロス。
しかし、その濁った瞳の奥には、かつての自分が作った「完璧な世界」が壊されていくことへの、本能的な恐怖が混ざり合っていた。
「よかろう、ドラグニルのトカゲども。そして、呪われし人間のアレン。我が『真空』の領域へ、這い出てくるがいい。世界のシステムがどちらを正解とするか……我が絶対の風の刃で、その肉体ごと削り落として証明してやろう。...ん?」
(この...アレンの隣にいる竜人族の娘...。何処かで会ったことがあったか?...あぁ、あの顔、確か聖地でーー)
ゼピュロスが500年前の記憶を追憶する。
(見間違いか?あまりにも似ているが....だだの偶然か。まぁいい、今は関係ない。)
ゼピュロスは右手を軽く掲げると、宮殿の周囲の空間そのものが、ギチギチと音を立てて歪み始めた。
彼が操るのは、奪う酸素すら存在しない、すべてを無に帰す絶対の『真空』。
ハヤテのそれとは格が違う、本物の天嵐の支配者が、狂気の瞳をギラつかせながら、迫り来るイグニスの竜王艇を待ち受けていた――。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ーーー聖地アルビオン「中央祭壇」
「レイン...レイン.....私の.....あぁ、あぁぁ、愛しい私のレイン。もう少しだからね、待っててね。ーー私から貴方を奪ったあの忌々しい白竜はもういないから....。」
聖地の不可侵領域の中、女の声が静かに響き渡る。
「今度こそ、あなたと一緒に.....。愛してる.....愛してるわ...。レイン・⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎・オルタニシス様.....。」
女は己の胸を抱きしめてをただただ愛の言葉を口にする。
その告白を向ける相手に狂気を宿して.....。




