幕間⑧「少女の胸動と確かな約束」
「レイン……オルタニシス」
エルザは、アレンが去っていった扉を見つめながら、もう一度、その神聖なラストネームを呟いた。
彼女の頭部にある一対の竜の角が、微かに熱を帯びるようにして震えている。
(オルタニシス……。白竜様から授かった、世界にただ一つの、あいつのラストネーム……)
その瞬間、エルザの胸の奥で、今まで経験したことのない、甘酸っぱくも激しい「焔」が、ボッと音を立てて燃え上がった。
烈火の竜王国ドラグニル出身の女戦士として、バルザックへの復讐のためだけに牙を研ぎ、自らの命を賭して戦ってきた彼女。
アレンとは最初は「足手まといになったら置いていく」と言われるドライな関係だったが、お互いに死線を潜り抜け、今回の十日間の防衛戦で、彼の命を自らの命に代えても守り抜くと誓った、最初の、そして唯一無二の仲間。
孤独だった自分を絶望の淵から救い上げ、背中を預け合えるバディとして自分を認めてくれた、あの白銀の戦士。
エルザは、自らの手首にある赤く明滅する鱗を、愛おしそうに見つめた。
(もし……もし、この世界からすべての闇が消え去って、戦いが本当に終わったら……)
少女の不器用な、しかし苛烈な恋心が、その胸中で暴走を始める。
(私も……あいつと、同じ『オルタニシス』のラストネームが……欲しい、な……)
それは、女戦士としての誇りではなく、一人の「アレンのことが実は大好きな少女」としての、あまりにも純粋で、あまりにも大胆な独占欲だった。
アレンと同じ姓を名乗る。
それが人間たちの世界で何を意味するのかを理解した瞬間、エルザの顔は、自身の剣技である『剛炎断』が放つ黄金の炎よりも、遥かに真っ赤に染まり上がっていった。
「あ、う……私、一体何を考えて……! こんな……っ!」
エルザは自身の真っ赤になった両頬を両手で強く押さえ、頭の竜の角を激しく揺らして、その場でもだえ苦しむようにして身を縒らせた。
感情が高ぶったせいで、竜人族特有の鋭い八重歯が、小さく唇から覗いている。
「おやおや。これはこれは、随分と面白い『計算式』が展開されているねぇ、エルザ?」
「――っ!?」
背後から響いた、意地の悪い、しかし極めて楽しげな声に、エルザの身体が完全に硬直した。
エルザが恐る恐る振り返ると、そこには、先ほどイグニスたちと共に部屋を出ていったはずの、カイル・ゾルディンが、扉の縁に肩を預けて立っていた。
彼は人差し指で眼鏡の位置をクイと直すと、その切れ上がった瞳に、レジスタンスの女傑をからかうための、最大級の「悪巧みの輝き」を宿してニヤニヤと笑っていた。
「カ、カイル……!? テメェ、いつからそこに……っ!」
エルザの『竜の目』が縦スリットに鋭く裂け、手首の鱗が怒りと羞恥で大爆発を起こしたように真っ赤に発光した。
「最初から、と言いたいところだけど、残念ながら『オルタニシスのラストネームが欲しいな』と、可愛いお嬢様が独り言を呟いたあたりからかな?」
カイルはわざとらしく肩をすくめ、円卓の椅子の一つに、優雅な動作で腰掛けた。
「き、聴いてたのね!? テメェ、主席魔導参謀のくせに、他人の独り言を盗み聞きするなんて、どんな計算式をしてやがるのよ!!」
エルザは真っ赤な顔のまま、背中の大剣の柄に手をかけ、怒りで鋭い八重歯を剥き出しにしてカイルを威嚇した。
「おっと、物騒だねぇ。僕の魔力残量は今、十日間のトラップ維持のせいで完全にゼロなんだ。そんな時に黄金の『剛炎断』なんて浴びたら、僕のスペックじゃ一瞬で灰のログになっちゃうよ?」
カイルは全く怖がる様子もなく、むしろ楽しそうにクスクスと笑い続けた。
「だけどエルザ、君の脳内の計算速度には、僕も驚かされたよ。まさか白竜様の後継者に対してそんな『将来の契約(結婚)』の数式を組み立てているなんてねぇ?」
「け、契約とか結婚とか、私はそんなこと一言も言ってないわよっ!!」
エルザは必死に声を荒げるが、その顔の赤さが何よりも雄弁に真実を物語っていた。
「言っているようなものさ。竜の世界において、白竜様から与えられた『オルタニシス』の姓を、他人が名乗る方法なんて、ただ一つしか存在しないんだから。」
カイルは眼鏡を外し、懐紙で丁寧に拭きながら、斜め上にいるエルザを、慈しむような、しかし最高に意地の悪い視線で見上げた。
「それはね、その姓を持つ主と、魂の番になることさ。……つまり、君がアレン様の妻になる、ということ。……ねぇ、エルザ。君、いつから彼のことが、そんなに『好き』になっちゃったんだい? 君の反応から君たち2人が出会った頃は、お互いにドライな計算式を立てていたみたいだけどねぇ。」
「う、うるさいわねっ! 最初の頃は、確かにあいつの冷徹さに腹が立ったわよ!
でも……あいつは、私がどれだけ重傷を負っても、絶対に私を置いていかなかった! 私の復讐の道を、あいつの『神速』で、命がけで切り開いてくれたのよ! ……あんなの、好きにならない方が、私の体内の竜炎の計算が合わないわよ!!」
エルザは羞恥の限界を超えた結果、逆に自らのアレンへの熱い想いを、大声で堂々とカイルにぶちまけていた。
カイルはその言葉を聴き、一瞬だけ、眼鏡を拭く手を止め、それからフッと、今度は意地悪ではない、一人の戦友としての優しい笑みを浮かべた。
「……そうだね。アレン様は、口では冷たい数式を並べるけれど、その右腕の炉心に宿る本質は、誰よりも温かい。君が十日間、自らの命の炎を送り続けて彼を守り抜いたように、彼もまた、君という存在に、救われているログが確かに残っているよ。」
カイルは眼鏡を再びかけ、立ち上がってエルザの隣へと歩み寄った。
「だけどさ、エルザ。彼のスペックは、恋愛のシミュレーションに関しては完全に『初期設定バグ』のままだよ? 君がどれだけ手首の鱗を真っ赤にして見つめても、あいつは『エルザ、血行が悪いのか?』なんて冷たい声でマジ顔の解析を始めるに決まってる。」
「あ、う……。確かに、あいつなら言いそうね……」
エルザはカイルの的確すぎる指摘に、がっくりと肩を落とし、頭の竜の角を悲しげにすぼめた。
「でしょう? だからさ、僕が君のために、かのお方の恋愛の計算式をハッキングして、少しだけ出力をブーストしてあげようか?
例えば……次のテンペストの天空都に突入した時、わざと二人が狭い隠密空間に閉じ込められるようなトラップを、僕の戦術数式に組み込んでおくとかねぇ?」
「テメェ、余計な小細工は絶対にやめろォッ!!」
エルザの怒声が、再び王宮の客室に響き渡った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
カイルとの騒がしい(しかしエルザの胸の焦りを少しだけ和らげる)掛け合いの後、エルザは一人、客室の外にある大きなテラスへと足を踏み出した。
北から吹き抜ける冷たい風が、彼女の火照った両頬を優しく冷ましていく。
テラスの最先端、手すりに両手を預け、静かに北の空――星すらも見えない、厚い積乱雲の向こう側を見つめている白銀の背中があった。
アレンだった。
「アレン……」
エルザは足音を立てないように静かに近づき、彼の隣へと並び立った。
「……エルザか。魔力回路の焼き付きは、もういいのか?」
アレンは視線を北の空から動かさぬまま、冷徹な、しかし確かに彼女の身を案じる声で問いかけた。
「ええ。カイルの治療術式と、私の体内の竜炎のおかげで、もういつでも大剣を振るえるわ。
……アレン、貴方は、さっきイグニス様が言っていた、自分の本当のラストネームのこと……どう思っているの?」
エルザの問いに、アレンはゆっくりと自身の右腕を掲げ、その『白竜の聖鱗』を見つめた。
「……オルタニシス。白竜から授かった、世界にただ一つの姓。……正直に言えば、今の俺には、その名前の重みすら実感がない。俺の記憶は、あの五百年前の怪現象の裏側で、完全に消去されているからな。」
アレンの血の赤眼が、ゆっくりとエルザの『竜の目』へと向けられた。
その瞳の奥には、先ほどカイルが言っていたような冷たい数式ではなく、どこまでも深く、澄んだ琥珀色の残影が、静かに息づいていた。
「だが、俺が過去のレイン・オルタニシスであろうとなかろうと、関係ない。俺は今、お前たちと共にここに立ち、世界を無へ帰そうとする闇を叩くために剣を振るっている。
……エルザ。お前が、俺の隣で最期までその『竜炎』を燃やし尽くすと誓ってくれた。……その誓いがある限り、俺の右腕の炉心は、決して折れることはない。」
アレンは、そっと自らの右腕の、純白の光を放つ手を、エルザの手元へと近づけた。
「戦いが終わったら、お前のその手首の鱗が、なぜこれほど熱く光っているのか……その真の理由も、俺のこの無色の力で、すべて解き明かしてやるさ。」
「――っ」
エルザの頭の竜の角が、今度は羞恥ではなく、本物の幸福感によって激しく震えた。
カイルの言う通り、アレンの恋愛スペックは完全にバグのままだ。
手首の鱗の発光の理由を、魔力の異常として解析しようとしているその冷徹な不器用さが、今のエルザにとっては、何よりも愛おしく、何よりも頼もしかった。
(やっぱり、あいつはアレンだわ……。過去の名前なんて、どうでもいい。)
エルザは、アレンの手のひらに、自らの手をそっと重ねた。
手首の鱗が、アレンの白竜の心臓の拍動と完全にシンクロし、最も美しい、黄金色の恋の焔となって、マグマリアの昏い夜空を優しく照らし出していた。
(待っててね、アレン。……すべての戦いが終わったら、絶対に……君と同じ『オルタニシス』の名前を、私が力ずくで奪い取ってみせるんだから!)
少女の胸中に宿る、不器用で、しかし絶対に折れない苛烈な恋焔。
レジスタンス連合軍は、それぞれの血統、名誉、そして胸に秘めた愛のすべての因縁を懸けて、次なる冷徹なる合理主義の王ゼピュロスが待つ『嵐の竜王国テンペスト』への道を、より一層強い、誰にも引き裂けぬ絆で結ばれながら、力強く踏み出すのだった。




