幕間⑦「真名の理、二人の貴族」
ドラグニル王宮の夜は、地脈の熱量によって常に微かに赤く、そして重い。
アレンが目覚めてから数時間後。
王宮の最高級客室の円卓には、カイルが持ち込んだ古文書の数々と、彼の魔力によって空間に浮遊する幾何学的な構成図が淡い青光を放っていた。
アレン、エルザ、ガロウ、そしてレイラがその円卓を囲む中、カイルは眼鏡の位置を人差し指でクイと直しながら、一冊の、焦げ付いた羊皮紙の書物をめくった。
「――みんな、アレン様が目覚めたことで、次の『テンペスト』への計算式を組んでいたんだけどね。
その前に、一つだけどうしても僕の数式に馴染まない『変数』があるんだ。」
カイルの鋭い瞳が、アレンの『血の赤眼』を真っ直ぐに捉えた。
「イグニス王がアレン様を見て呼んだ、あの名前……『レイン』。あれは単なるニックネーム(愛称)じゃない。……おそらく、アレン様の、いや、確実に『竜の真名』そのものだ。」
「真名……?」
エルザが怪訝そうに眉をひそめた。
手首の鱗が、カイルの真剣な声音に呼応して小さく明滅する。
「そう。僕たち竜の血を引く者にとって、名前というシステムは人間に比べて遥かに重い意味を持つんだ。……大隊長殿、僕たちの『ラストネーム(姓)』の起源について、エルザたちに説明してあげたらどうだい?」
カイルに話を振られ、レイラは翼を静かにすぼめながら、ヴァルキアスの魔導槍を壁に預けて口を開いた。
「……ええ。私たち『竜神族』、そして世界を統べる『五人の竜王』だけは、生まれながらの名の後ろに、特別な『ラストネーム』を持っている。これはね、五百年前に世界を調停していた我が主――白竜帝、真名は『アルヴァ・A・オルタニシス』様から、直接与えられた絶対的な『格』の証明なのよ。」
レイラはその凛とした瞳をエルザへと向ける。
「私は、レイラ・ヴァルキアス。……第一師団長ヴァルキアス様の娘であり、我がヴァルキアス家は、白竜様から防空の最高権を委ねられた『竜神族の武門貴族』。この姓は、代々我が一族が受け継いできた誇り。だからこそ、私は第一師団の遊撃隊長という若きエリートの地位に就くことができたの。」
「へぇ、大隊長殿は本物の高貴なお嬢様ってわけだ。……で、そこの眼鏡の男は?」
ガロウが腕を組み、不敵にニヤリと笑いながらカイルを見た。
彼の隻眼の瞳には、貴族相手でも怯まぬ歴戦の余裕がある。
「僕かい? 僕はね、カイル・ゾルディン。……あの消滅したマッドサイエンティスト、第三師団長ゾルディンの、一応は血を引く嫡男さ。我がゾルディン家もまた、地脈の熱量と魔導兵器の管理を任された『竜神族の頭脳派貴族』。代々受け継ぐこのラストネームがあるからこそ、僕は若くして主席魔導参謀になれた。
……まぁ、あのおじいさんの歪んだ嫉妬の計算式には、僕もほとほと呆れていたけれどね。」
カイル・ゾルディン。レイラ・ヴァルキアス。
二人がなぜ、あの若さでドラグニル軍の師団トップに次ぐ地位に就いていたのか。
その全てのミッシングリンクが、白竜帝アルヴァから直接与えられ、代々受け継がれてきた「貴族の姓」という特権の設定によって、完璧に証明されたのだ。
「竜神族の貴族と、5人の竜王には、白竜様から与えられたラストネームがある……。じゃあ、アレンは?」
エルザがアレンの白銀の髪を見つめながら問いかけた。
「そこが、最大のブラックボックス(謎)なんだよ、エルザ」
カイルが空間の幾何学模様をパッと消し去り、アレンの『真名』の構成式を浮かび上がらせた。
「イグニス王が言っていた通り、彼の本名は『レイン』。だけど、白竜様の真名は『アルヴァ・A・オルタニシス』……。気づかないかい? 白竜様には、僕たちには存在しない『ミドルネーム(アニマ)』が存在するんだ。」
「ミドルネーム……」ガロウが低く唸る。
「そう。そして、500年前の記録の断片によれば、白竜様からその『炉心』と、世界の所有権を正当に受け継ぐはずだった少年レインにも……白竜様と同じように、固有の『ミドルネーム』が与えられていたとされている。……だけど、そのミドルネームが何という文字列なのかは、古文書のどこを探しても、完全に墨塗りにされていて計算が合わないんだよ。」
「なぜ隠す必要があるの?」エルザが眉をひそめる。
「竜の真理における、絶対の禁忌だからさ」
カイルの表情が、いつになく冷徹なものへと切り替わる。
「竜の世界において、『ミドルネームは、絶対に他人に教えてはならない』という鉄のルールがあるんだ。もし、自分のミドルネームを他人に知られれば、その瞬間に自分の『魂の主権』を相手に書き換えられ、絶対的な操り人形にされる、あるいは存在そのものを消去される術式が、世界の理として組み込まれている。だから、ミドルネームを持つのは白竜様と、その後継者であるアレン様の二人のみ。そしてその名は、誰一人として知らない、最大の『謎』なんだよ。」
「……他人に、教えてはならない名前か。」
エルザは、アレンの血の赤眼の奥にある、あの神聖な琥珀色の光を思い出していた。
記憶を奪われ、白銀の姿に変貌し、今なお不可侵のまま立ち塞がっているあの聖地の結界の向こう側から、なぜか彼だけが境界へと弾き出された。
その失われた記憶の核心、そして深淵の闇が彼の肉体を執拗に狙う本当の理由は、アレン自身さえも忘却している、この『禁忌のミドルネーム』にあるのかもしれない。
「アレン。お前、自分のもう一つの名前……真名について、何か思い出せるか?」
ガロウが静かに問いかけた。
アレンはゆっくりと自身の右腕の聖鱗を見つめ、それから血の赤眼を円卓の全員へと向けた。
「……いや。何も思い出せない。レインという名前も、俺にとっては他人の名前のように聞こえる。だが――」
アレンの赤眼の奥で、一瞬だけ、琥珀色の光が鋭く脈動した。
「――お前の本当の姓なら、この俺が教えてやろう。」
重厚な、しかしどこか晴れやかな低い声が、部屋の扉の向こうから響いた。
全員が一斉に視線を走らせると、そこには、抉れた胸の包帯の上から豪快に高価な外套を羽織った、紅蓮の竜王イグニスが立っていた。
猛々しい真紅の髪を逆立て、彫りの深い顔立ちをした肉体美の映える覇王。
彼は大炎灼竜剣を腰に帯び、巨体を揺らしながら円卓へと近づいてきた。
「イグニス様……。お体の傷は、まだ完全に塞がっては……」
レイラが慌てて駆け寄ろうとするが、イグニスは大きな掌を挙げてそれを制した。
「案ずるな、レイラ。ゾルディンの洗脳魔法が解け、あのアレンの『ブレス』と最果ての聖水のおかげで、俺の体内の『火』の魔力も正当な循環を取り戻しておる。
……それよりも、アレン。いや、我が主レインよ。お前は、自身の右腕の炉心を受け継ぎながら、己の本当の『名』を知らぬまま戦い続けていたな?」
イグニスはアレンの前に立ち、その燃えるような赤眼で、白銀の戦士を真っ直ぐに見据えた。
「500年前、お前の実の両親……白竜様を信奉していた高位の神官夫妻が、最期にお前をアルヴァ様に託した時、お前には白竜様から直接、すべての竜神族の頂点たる『祝福の姓』が授けられていたのだ。あやつの真名は――『レイン・オルタニシス』という。」
「レイン……オルタニシス……」
エルザがその名前を、まるで壊れ物を扱うように、自らの唇の中で静かに、何度も繰り返した。
「オルタニシス……!?」
カイルがハッとして眼鏡の奥の瞳を鋭くした。
「待ってくれ、イグニス王。それは、白竜帝『アルヴァ・A・オルタニシス』様の、その最後尾の姓をそのまま……!?」
「そうだ。」イグニスは重々しく頷いた。
「白竜様が自らの姓を人間に直接分け与えたなど、ドラグニルの数千年の歴史、いや大陸の神話においても、ただ一度、このレイン・オルタニシスにしか存在せぬ。あやつは生まれながらにして、五竜王をも遙かに凌駕する、白竜様の『正当なる後継者』としての格を証明されていたのだ。」
部屋の中に、息を呑むような沈黙が広がった。
アレン(レイン)という存在の重みが、そのラストネーム一つによって、五百年の時を飛び越えて全員の胸に突き刺さる。
「……だけど、イグニス王、」
カイルが再び、羊皮紙の書物をめくりながら眉をひそめた。
「白竜様の真名は『アルヴァ・A・オルタニシス』……。ここには、僕たち貴族には存在しない、もう一つの文字列……『ミドルネーム(A)』が存在する。そして、白竜の後継者であるレインにも、固有のミドルネームが与えられていたはずだ。その名は一体……」
「――それについては、俺たち竜王も、世界中の誰も知らん。」
イグニスの言葉は、断固たるものだった。
「知らんだと? テメェら五竜王は、聖地であいつと暮らしていたんだろうが!」
ガロウが不快そうに腕を組み、黒狼の牙を剥く。
「本当に知らんのだ、ガロウ。
竜の世界において、『ミドルネームは、絶対に他人に教えてはならない』という鉄のルールがある。もし、自分のミドルネームを他人に知られれば、その瞬間に自分の『魂の主権』を相手に書き換えられ、絶対的な操り人形にされる、あるいは存在そのものを消去される術式が、世界の理として組み込まれているからな。だから、アルヴァ様も、レインの両親も、あの子のミドルネームだけは、俺たち五竜王にすら生涯、ただの一文字も明かさなかった。
あの子のミドルネームは、現在も不可侵のまま閉ざされ続けているあの聖地の向こう側、深淵の底にしか眠っていない、絶対のブラックボックス(謎)なのだ。」
「他人に、教えてはならない名前……」
エルザは、アレンの『血の赤眼』をじっと見つめた。
記憶を失い、白銀の姿に変貌し、なぜ自分だけが誰も入れないはずの聖地の境界から弾き出されてしまったのか。
その失われた記憶の核心、そして深淵の闇が彼の肉体を「新たな器」として執拗に狙う本当の理由は、アレン自身さえも忘却している、この『禁忌のミドルネーム』にあるのかもしれない。
「俺には、過去の記憶がない。」
アレンはゆっくりと自身の右腕の聖鱗を見つめ、冷徹な声で言った。
「レイン・オルタニシスという名前も、俺にとっては他人の神話のように聞こえる。だが……俺の右腕の炉心が、その失われた文字列を呼ぶたびに、激しく引き合っているのを感じる。……黒幕を倒し、あの絶対に破れない聖地の結界をこじ開ければ、俺の本当の名前も、すべての真実も、そこに転がっているはずだ。」
「ああ、話は決まりだ。お前が往くなら、ドラグニルはこれより、お前たちの最も頑丈な『最強の盾』として、北の空への道を切り開こう。」
「それと、カイルやレイラから様呼びされるのはむず痒い。やめてくれ。」
カイルとレイラが互いを見て目を見開き、意地悪そうな顔でアレンに返答する。
「いやいや、白竜帝の後継者ともあろう方を呼び捨てなんて畏れ多い!」
「貴方はこの大陸で一番尊き方だ。当然の対応だと思うが?」
「クソ...面白がってるな2人とも!」
「まぁ竜族にとっては当然な対応だな。諦めろアレン様?」
「ガロウまで!もうやめてくれ!」
その様子にイグニスが豪快に笑い、レイラやカイル、ガロウたちを伴って、作戦室の次の部屋へと戦後処理の指示のために移動していった。
アレンもまた、「はぁ、俺は少し右腕の炉心の出力を調整してくる。」と言い残し、一人で静かにテラスの方へと歩いていった。
円卓の部屋に残されたのは、カイルの残した青白い魔法陣の残光と――エルザ一人だった。




