幕間⑥ 「血戦の余熱、昏き王宮の夜」
ドラグニル帝国の首都、城塞都市マグマリア。
数日前まで狂王イグニスの絶対的な覇道と、ゾルディンの焦土兵器開発によって赤茶けた熱気と硝煙に包まれていたドラグニル王宮は、いま、驚くほどの静寂に包まれていた。
レジスタンス連合軍との正式な同盟が結ばれ、第一師団長ヴァルキアスをはじめとする残存兵力が戦後処理に奔走する中、王宮の最上層に位置する一室――かつて国賓を迎えるために使われていた最高級の客室が、アレンたちの療養所として割り当てられていた。
部屋の窓からは、地脈の熱量でほのかに赤く染まったマグマリアの夜景が一望できる。
だが、室内に満ちているのは、最果ての「竜の墓場」から持ち帰られた、聖水の清浄な残香と、静かな薬草の匂いだった。
「――よし、これで包帯の巻き直しは終わりだよ。大隊長殿。」
カイルが、ベッドの端に腰掛けていたレイラの右肩の包帯を器用に結び終え、ふぅと短く息を吐いた。
彼の眼鏡の奥の瞳には、連戦と徹夜の解析作業による深い隈が刻まれていたが、その手つきは主席魔導参謀らしく極めて精密だった。
「すまない、カイル。治療班を率いるお前に、私個人の傷まで見てもらうことになってしまって。」
レイラが、闇の侵食によって一部が焦げ付いた深紅の翼を、痛々しくすぼめながら苦笑した。
「何を言ってるんだい?あの『常夜の巨神』の精神汚染をまともに浴びて、五体満足で生き残っているだけで、君のスペックは計算外の化け物なんだから。……まぁ、一番の化け物は、あっちで平然と眠っている大将だけどね。」
カイルが顎で示した先――部屋の奥に置かれた大きな天蓋付きのベッドには、アレンが横たわっていた。
白竜の『心臓』と完璧な融和を果たし、十日間の地獄の防衛戦の最果てに目覚めたアレン。
彼はあの常夜の巨神を一撃で消滅させた後、王宮へと帰還するなり、糸が切れたように深い眠りに落ちていた。
だが、それは「竜の墓場」で見せた、内側から器が融解していくような拒絶反応の昏睡ではない。
彼の右腕の『白竜の炉心』は、いまや地鳴りのような激しい暴走を完全に潜め、人間のアレンとしての微弱な拍動と、白竜の『心臓』の神話級の質量が、完璧な調和を保って静かに一定のレイテンシーで脈動している。
彼の白銀の髪は、ベッドのシーツの上に美しく広がり、時折、部屋に吹き込む夜風に静かに揺れていた。
「……アレン。」
ベッドの傍らに置かれた椅子に座り、アレンの白銀の肌に触れていたのは、エルザだった。
彼女もまた、九日目の夜にドラグニルの血統を覚醒させ、『剛炎断・連天』を放った代償で、全身の魔力回路が一時的に焼き付いていた。
新調された皮鎧を脱ぎ、白い寝衣を纏った彼女の身体は、普段の苛烈な女戦士の佇まいとは異なり、どこか年相応の儚さを醸し出している。
「エリザ、テメェも少しは横になりやがれ。あいつの顔を見つめてたって、焼き付いた魔力は回復しねぇぞ。」
部屋の壁に背を預け、腕を組んでいたガロウが、低く無骨な声で言った。
彼の鋼鉄の左義手は完全に外され、包帯で固く縛られた左腕の付け根が露出している。
全盛期35歳の怪力を以てしても、巨神の絶対質量を受け止めたダメージは深く、顔の左半分の火傷の痕が痛々しく歪んでいた。
「私は大丈夫よ、ガロウ。……ただ、アレンのこの白銀の髪を見ていると、バルドムやイグニス様が言っていた、500年前の真実が、どうしても頭から離れなくて。」
エルザはアレンの冷たい指先をそっと握りしめた。
「黒髪で、緑眼の、虫一匹殺せないほど優しかった少年『レイン』。それが、今もなお不可侵のまま立ち塞がっているあの聖地の結界の向こう側で……一体、誰が彼をこんな姿に変えてしまったの。なぜアレンだけが、記憶を失って境界へと弾き出されなければならなかったの……。」
エルザの悲痛な呟きに、室内を重い静寂が支配する。
カイルも、レイラも、そしてガロウも、その謎の答えを知る術を持たなかった。
イグニスたち五竜王でさえも知らされていない、歴史の完全なるブラックボックス。
「……何が起きたにせよ、あいつが今、俺たちの目の前で生きてるってことが全てだ。」
ガロウがフンと鼻を鳴らし、隻眼の瞳をアレンへと向けた。
「黒髪だろうが白銀だろうが、俺の故郷を滅ぼしたバルザックを引き裂く道をくれたのは、あいつだ。テメェを絶望の淵から救い上げた俺たちの旅の果てに、あいつが立ち塞がってくれた。
……だったら、その結界の向こう側の真実ごと、黒幕の首を獲って確かめればいいだけさ。」
「ええ……そうね」
エルザは小さく頷き、アレンの手を自らの頬へと寄せた。
手首の鱗が、アレンの静かな鼓動に呼応して、優しく、暖かく黄金色に明滅していた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
同じ頃、客室から少し離れた、半壊した王宮の謁見の間のバルコニー。
赤茶けたマグマリアの街並みを見下ろす位置に、包帯を全身に巻いた巨体を預けている男がいた。
紅蓮の竜王イグニスである。
彼の抉れた胸の傷口からは、未だに微かな熱気が漏れ出ていたが、正気を取り戻したその赤眼には、数千年の歴史を戦い抜いた王の威厳が、確かに戻っていた。
「――配置は完了いたしました。イグニス様」
一切の気配もなく、イグニスの背後の影から滑り出るようにして現れたのは、第四師団長バルドムだった。
漆黒の短髪を夜風になびかせ、防魔隠密衣『夜帷』の輪郭を曖昧にしながら、彼は主の前に深く頭を下げていた。
「レジスタンスの本隊、および我が第四師団の隠密班は、すでに北部『テンペスト』との国境付近への潜入を開始しております。カイル殿の残した隠密術式の暗号ログを使用し、風の結界の『隙間』を正確に捕捉いたしました。」
「そうか……。手際が良いな、バルドム。」
イグニスは苦しげに咳き込み、口元に溢れた鮮血を大きな手で乱暴に拭った。
「バルドムよ。お前は……紅蓮の間で、アレンの『無色』の輝きを見たな。お前はどう思った。」
その問いに、バルドムは影の中で静かに二振りの暗殺刃『影縫』の柄に手をかけた。
「……恐るべき、絶対の所有権でした。かつて私が聖地の外側から、白竜様の傍らで見かけていたあのレイン様の、あどけない面影は一欠片もありません。
ですが……世界の理そのものをこちら側から壊すあの空間干渉の波動は、紛れもなく、白竜様が愛したあの子の魂、そのものでした」
「ああ。」とイグニスは天を仰いだ。
「あれは兵器だ。あの絶対に破れぬ聖地の結界の向こう側にある『何か』が、あの優しかった少年を、世界を救うためだけの冷徹な刃へと作り変えたのだ。……俺たちが、五百年前にあの子を守れなかったばかりにな。」
イグニスの言葉には、ゾルディンに操られていたことへの悔恨だけでなく、500年前の歴史の怪奇に対する、深い恐怖と無力感が混ざっていた。
「だが、あいつは目覚めた。アルヴァ様の『心臓』を人間の器で完璧に制御してみせたのだ。ゼピュロスのモヤシ野郎は、あいつを世界を混乱に陥れる『バグ』と見なし、すでに天空都アエロガルドの全戦力を動かそうとしているだろうが……」
イグニスの口元が、かつての覇王の不敵な笑みへと歪んだ。
「あの白銀の刃が、テンペストの『断頭の暴風』ごときに折れるとは思えん。バルドム、お前の第四師団はこれより、アレンたちの『影』となりて、北の空への道を切り開け。ドラグニルはこれより、あいつらの最も頑丈な盾となる。」
「――御命、確かに!」
バルドムが深く一礼した瞬間、彼の身体はテラスの影へと完全に溶け込み、そこには夜風だけが虚しく吹き抜けていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
夜が更け、客室の魔導ランプの光が微かに落とされた頃。
「……ん。」
天蓋付きのベッドの上で、アレンの長い睫毛が微かに震えた。
ゆっくりと開かれたその瞳は、昼間の戦闘で見せた猛烈な『琥珀色の眼光』を奥底に沈め、いまはどこまでも冷徹で、しかし澄んだ血の『赤眼』としての輝きを取り戻していた。
「アレン……!? 目が覚めたのね!」
アレンの指先の微かな動きを察知し、椅子の睡眠から瞬時に跳ね起きたのはエルザだった。
彼女の声に、部屋の隅で仮眠を取っていたガロウ、包帯の手を止めたカイルとレイラが一斉にベッドへと視線を走らせる。
アレンはゆっくりと上体を起こし、自身の右腕を見つめた。
皮膚の表面を覆っていた血の痕は綺麗に拭い去られ、その内側で脈動する『白竜の心臓』は、もはや彼の肉体を破壊することなく、体内の一部として完璧な静寂を保って融和している。
「体調はどうだい、アレン様?僕の解析式によれば、君の魔力出力は十日前と比べて約3割、システムとして最適化されているはずだけど。」
カイルがベッドに歩み寄り、安堵の息を漏らしながら問いかけた。
「アレン様?……問題ない。」
アレンは自分を様呼びするカイルに低く、冷徹な声で答えた。
ベッドから静かに足を下ろし、床に着地する。
その足取りには、先ほどまでの昏睡の重みなど微塵も感じられない、完璧な戦士としての制動があった。
「傷は、すべて塞がっている。お前たちが……俺を守り抜いてくれたおかげだな。」
アレンの赤眼が、エルザの白い寝衣、そしてガロウの義手の外された左腕、カイルやレイラの包帯へと向けられた。
彼の言葉は短く、冷たいように聞こえるが、その奥には、十日間の地獄を戦い抜いてくれた仲間たちへの、確かな「信頼」の響きがあった。
「ハッ! 礼を言われる筋合いはねぇよ、アレン!」
ガロウが残された右腕でアレンの肩を軽く叩いた。
「テメェが起きるのがあと半刻遅かったら、俺たちは今頃、あの巨神の腹の中で消化されてたところだ。
借りは、あのクソったれな化け物を一撃で消し去った術理で、帳消しにしてやるさ。」
「アレン、次の目的地は……分かっているのね?」
エルザが背中の大剣の柄を固く握り締め、アレンの正面に立った。
アレンは白銀の髪を揺らし、窓の外、厚い雲海に覆われた遥か北の空――嵐の竜王国「テンペスト」の方角を見つめた。
彼の右腕の炉心は、完全に馴染んだ『心臓』の拍動と同調し、次なる遺産の波動を、より鮮烈に、より激しく感知し、引き合っている。
500年前、自分がなぜレインと呼ばれていたのか。
なぜこれほどまでに変わり果て、聖地の絶対結界から弾き出されなければならなかったのか。
そのすべての真相は、未だ世界の深淵に隠されたままだ。だが、アレンの瞳には、一切の迷いはなかった。
「ああ。次は北の空へ往く。
……俺たちの道を邪魔するやつがいるなら、世界のルールごと、力ずくで突破するだけだ。」
アレンは翻した純白の魔導衣の袖をなびかせ、最高にして最強の仲間たちと共に、次なる戦場への、新たなる一歩を力強く踏み出すのだった。




