③十日間の防衛儀式ー2
ドラグニル王宮の地下深く、一切の光を拒絶する「地底回廊」を、連合軍は静かに進んでいた。
天井からは時折、地脈の熱量で温められた不気味な地下水が滴り落ち、赤茶けた石床に弾けては微かな水音を立てている。
周囲を満たすのは、濃厚な硫黄の臭いと、皮膚をじりじりと灼くような熱気。
だが、それ以上の緊迫感が、一行の間に張り詰めていた。
案内役を務める第四師団長バルドムの防魔隠密衣『夜帷』が、周囲の常闇と同化してその輪郭を曖昧にしている。
彼の足音は、この静寂に満ちた地下空間であっても完全な無音だった。
「――ここで一旦、足を止める。地脈の熱流が前方で交錯している。迂回ルートの安全が確認できるまで、半刻ほどここで待機だ。」
バルドムの冷徹な声が闇に溶ける。
ガロウが抱え上げていたアレンの身体を、地熱でわずかに暖かい岩肌へとそっと横たえた。
アレンの白銀の髪は昏い空間でかすかに純白の燐光を放ち、胸の奥からは、相変わらず二つの不揃いな鼓動が重く、苦しげに響いている。
エルザはアレンの傍らに寄り添うように座り込み、その冷たくなっていく手を両手で包み込んだ。
彼女の頬の傷は、カイルの応急処置で塞がっていたが、手首の鱗はアレンの炉心に呼応して、未だに赤く波打つように明滅している。
「……バルドム、そしてイグニス様。」
エルザが、闇の奥に佇む竜神族と竜王へ向けて、その凛とした、しかしどこか痛切な声を投げかけた。
「紅蓮の間で、イグニス様はアレンを見て『レイン』と呼びました。そして、彼があまりにも変わり果ててしまったと、そう言って激しく動揺していた。
……アレンの過去に、500年前の聖地で、一体何があったんですか?」
その問いに、抉れた胸を包帯で固く縛ったイグニスが、重い溜息をついた。
彼の猛々しい真紅の髪が、地熱の微風に揺れる。
「……話さねばならんのだろうな。俺たちが知っているあの少年の過去を。」
イグニスはアレンを見つめ、自身の大きな掌を、血が滲むほどに固く握りしめた。
その瞳には、かつての覇王としての威厳ではなく、深い悔恨と、解けない謎への困惑が宿っていた。
「500年前、この大陸は白竜帝『アルヴァ・オルタニシス』様のもと、完璧な調和を保っていた。そして……その聖地の中心には、一人の幼き人間の子がいた。それが『レイン』。今、お前たちがアレンと呼んでいる、その少年だ。」
「レイン……それが、アレンの本名……。」
エルザがその名前を噛み締めるように呟く。
カイルが眼鏡の位置を人差し指で直しながら、いつになく真剣な声音で割り込んだ。
「そこまでは、師匠の情報と僕が掴んでいた古文書のログとも一致するね。でもイグニス王、僕のデータでは、レインという少年は『黒髪』で『緑眼』、魔術の適性も極めて穏やかな、戦いとは無縁の子供だったはずです。今のこの白銀の髪と赤眼は……。どう計算しても、過去のレインからは導き出せない。一体、何が彼をここまで変えたんだ? まさか黒竜「ネロ」の仕業なのですか?」
「ネロだと?あの根暗男のことは……分からん。誰の仕業なのかすら、俺たちには一切知らされていないのだ。俺たちは……あの500年前の日から今日まで、聖地の中に入ることすら叶わんのだからな。」
イグニスは苦しげに首を振った。
その言葉は、レジスタンスたちにとって予想外の、そしてあまりにも不可解な事実だった。
「中に入ることができねぇだと? 五竜王の力をもってしてもか?」
ガロウが鋼鉄の義手をギチ、と軋ませながら、鋭い瞳でイグニスを睨みつける。
「ああ。500年前のあの日、聖地に突如として何者によるものかも分からぬ『不可解な結界』が張られた。それは五竜王の総力を以てしても絶対に突破できぬ、完全なる不可侵の空間断絶……。
その瞬間に、俺たちが魂の奥底で感じていた主である白竜様の気配が、大陸から完全に消え失せた。そして――その絶対の結界は、500年が経った『今現在も』、一切の侵入を拒んだまま聖地を覆い続けている。」
「な、んですって……!?」
エルザが息を呑む。
「じゃあ、アレンは……どうやって聖地から?」
「そうだ。聖地は今も完全に閉ざされており、誰も入ることはできない。アルヴァ様がどうなったのかも分からん。だが……数年前、その絶対に破れないはずの結界に『外側の境界(綻び)』が生じた。そこからの憶測になるが、何者かがその綻びから聖地に侵入し、レインを外界に連れ出したと考えるのが妥当だろう。それが、俺たちが掴んでいるすべての事実だ。」
「じゃあ、テメェらにとっちゃ、今回の王宮の戦いは5500年ぶりの再会だったわけか。」
ガロウが眉をひそめる。
「再会、などという生易しいものではない。俺たちにとってレインは、500年前に白竜様ごと聖地へ『神隠し』に遭い、永遠に失われたはずの存在だったのだ。それが、なぜ誰も出入りできないはずの結界の向こう側から、このような姿に変貌して戻ってきたか……。あの子が消えた結界の向こう側の500年で、一体何が起きたのか。それを知る者は、この世界に一人もいない。」
イグニスの言葉を受けて、暗闇の奥からバルドムが静かに口を開いた。
「私は、500年前の当時レイン殿を遠くから見たことしかなかったが……。」
第四師団長バルドム。
彼はイグニスたちのようにレインと直接言葉を交わしたことはなく、ただイグニスに「付き人」として、白竜の傍らにいる少年の姿を、影から何度か見かけたことがある程度の関係性だった。
「私が記憶しているレイン殿は、いつも白竜様の大きな翼の後ろに隠れて、我々のような無骨な竜族を見ては、あどけない笑みを浮かべるような優しい少年だった。虫一匹殺すのを躊躇うような、そんな穏やかな魂の持ち主だったのだ。
……それが、今もなお不可侵であるはずの結界の向こう側から、突然現れた姿がこれだ。
外見の変化だけでなく、聞いた限りのその性格の変貌ぶりが、私には何よりも不気味で恐ろしい。
現在も閉ざされ続けているあの聖地の内部で、一体どれほどの地獄が少年の身に起き、なぜ彼だけが境界の外へと出れたというのだ。それを想像するだけで、影に潜む私でさえも背筋が凍る……。」
バルドムの低く抑えられた声には、竜族として何が起きているのかすら知り得ない世界への、静かな、しかし確かな不気味さと憤怒が宿っていた。
「だが、これだけは確かに言える。レインの両親とアルヴァ様の間には、絶対の『約束』があった。」
イグニスはアレンの右腕を見つめながら、500年前の、もう一つの真実を語り始めた。
「レインの両親は、アルヴァ様を信奉する高位の神官だった。彼らは、世界にいずれ巨大な闇が台頭し、世界のバランスが崩壊することを予期していた。
だからこそ、アルヴァ様に愛された我が子レインを闇から守るため、放置すれば世界が滅びそうになった時、世界を繋ぎ止める『無色の器』として、その身を白竜様に託したのだ。」
「無色の器……か。」
エルザがその言葉を繰り返す。
「ああ。レインの両親は最期に、白竜様にこう願っていた。
――『どうか、この子に普通の人間としての幸せを。もし、この子が世界のために戦う運命にあるならば、どうかその魂だけは、闇に染まらぬように』と。 後にアルヴァ様が残した遺産の残穢からわかったことだか、アルヴァ様はご自身の肉体を五つに引き裂き、『深淵の闇』を大陸全土に封印した。それが、今の『五つの遺産』の正体だ。……アルヴァ様がなぜ俺たち竜王に何も教えずに行動を起こしたかは不明だかな。深淵の闇の正体も詳細は今も分からん。」
イグニスの言葉に、カイルが納得したように深く頷いた。
「……なるほどね。だけど、その結果としてアレン君の肉体がなぜこれほどまでに変貌したのか、そして現在も聖地が閉ざされ続けている理由は、計算式が完全にブラックボックスに包まれているわけだ。彼が戦い続けているのは、その炉心に、亡き両親の、あるいは白竜様との約束が本能として刻まれているからかもしれないね。」
「だが、今のあいつにその過去を教えても、混乱するだけだ。」
イグニスはエルザたちを真っ直ぐに見据えた。
「今のあいつは、過去のレインではなく、自分の足で立つ『アレン』という一人の戦士なのだからな。」
「アレンがどんな過去を持っていようと、なぜそんな姿に変わってしまったのか、聖地で何が起きているのか分からなくとも、関係ない。」
エルザは顔を上げ、手首の鱗を力強く光らせた。
「彼は私の仇を討つ道を切り開いてくれた、最初の仲間だ。今度は、私が彼の『器』が完成するまで、この命に代えても守り抜く。すべての真相は、世界を狂わせている黒幕をブチのめして、あの絶対に破れない聖地の結界ごと、力ずくでこじ開けて確かめるだけよ。」
その苛烈で気高き宣言に、闇の奥でバルドムが微かに口元を緩めた。
「――地脈の熱流が引いた。影の道が開く。これより、最果ての『竜の墓場』へ突入する。……諸君、覚悟はいいな。ここからは一歩たりとも油断は許されんぞ。」
「おうよ、誰が来ようが、あいつの眠りを妨げる奴は全員、この黒狼の牙で噛み千切ってやるさ。」
ガロウが再びアレンを担ぎ上げ、不敵に笑う。
今なお不可侵の結界に閉ざされた聖地、そしてアレンの変貌という巨大な怪奇の謎を抱えながらも、連合軍はより一層強い絆で結ばれ、十日間の地獄の防衛戦が待つ、無数の竜の魂が眠る最果ての地へと、再び歩みを進めるのだった。




