③十日間の防衛儀式ー1
次回からはアレンのヒロイン感が半端ない回になっております。笑
「……どけ。俺が見る」
地響きのような低い声が、混乱する紅蓮の間を黙らせた。
抉れた胸から未だに赤い血を流し、大炎灼竜剣を杖代わりにして、巨体を揺らしながら歩み寄ってきたのは、正気を取り戻した紅蓮の竜王イグニスだった。
「テメェ、まだやる気か……っ!」
ガロウが即座にアレンの前に立ち塞がり、壊れた左腕の義手を構えて黒狼の牙を剥く。
だが、イグニスはその眼に、先ほどまでの好戦的な輝きを一切宿していなかった。
そこにあるのは、ただただ、アレンの身を案じる、痛烈なまでの悲哀と悔恨の情だった。
イグニスはガロウの威嚇を無視し、床に横たわるアレンの前にゆっくりと膝を突いた。
その大きな掌が、アレンの白銀の髪に触れようとして、自身の掌がゾルディンの返り血と闇の煤で汚れていることに気づき、衣服で何度も強く拭い、それから恐る恐るアレンの額へと触れた。
「レイン……すまぬ。俺が、最高傑作などと自惚れていた腑抜け(ゾルディン)の小細工を見破れなかったばかりに、お前を、ここまで……」
イグニスの声は、絞り出すように掠れていた。
500年もの間、白竜アルヴァに忠誠を誓い、このドラグニルを最強の国家として支えてきた自負があった。それがどうだ。自身の心の隙(強さへの傲慢さ)を深淵の闇の精神汚染に突かれ、裏でゾルディンに操られ、かつて実の子供のように愛し、見守っていた幼き少年『レイン』を、このような悍ましい姿に変えられた挙句、自分の炎で焼き尽くそうとしていたのだ。
「....レイン?イグニス王、アレンを救う方法があるのか?」
エルザがイグニスの言動に疑問を持ちつつ、アレンの冷たくなっていく手を握り締めながら、イグニスを真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、復讐相手を失った喪失感を超えた、新たな「仲間を守る」ための強靭な精神力が宿っていた。
イグニスはアレンの胸元に耳を当て、その内側で響く、二つの異なる鼓動を聴いていた。
一つは、人間のアレンとしての微弱な鼓動。
そしてもう一つは、人間の肉体を内側から焼き尽くさんとする、白竜の『心臓』の、神話級の猛烈な脈動。
「……今の状態で人間の器に白竜様の『心臓』を無事に融和させ、馴染ませるには、このドラグニルの最果てにある結界領域――『竜の墓場』の祭壇で、器の強制な拡張儀式を行うしかない。」
イグニスは顔を上げ、カイルやレイラを見渡した。
「だが、あの場所での儀式には、丸々十日間の時間がかかる。そして、儀式が始まれば、アレンの体内から最高位の白竜の魔力が、ドラグニルの全土、いや大陸中に向けて遮るものなく漏れ出すことになる。」
カイルがハッとして眼鏡の奥の瞳を鋭くした。
「……なるほどね。白竜の魔力は、この世界のすべての生き物にとって『究極の霊薬』であり、同時に『絶対的な進化のトリガー』だ。そんなものが無防備に垂れ流されれば……」
「そうだ。」
イグニスは重々しく頷いた。
「その神聖なエネルギーの匂いに引き寄せられ、地脈の底に眠る原生の狂魔物や、主の覚醒を恐れる深淵の闇の尖兵たちが、数万、数十万という群勢を成して、狂ったように『竜の墓場』へと押し寄せてくるだろう。」
「十日間の、地獄の防衛戦ってわけか。」
ガロウがフン、と鼻を鳴らし、バンダナで壊れた左腕の義手を自身の胴体にさらに強く固定した。
「面白ぇじゃねぇか。あいつには世界をめちゃくちゃにされてたまるかって大口叩いた責任がある。目覚めるまで、その子守唄の邪魔をする有象無象は、この俺がすべて噛み殺してやるよ。」
「私も戦います。」
エルザが迷いなく立ち上がった。
「アレンが起きるまで、一歩も、一匹も祭壇には近づかせない。私の『竜炎』は、そのためにある。」
「僕も付き合うよ。」
カイルがいつもの軽薄な笑みを少しだけ戻した。
「天才魔導参謀の戦術トラップが、魔物の群れ相手にどれだけ効率よく数を減らせるか、いい計算式の実験になりそうだからね。」
「ヴァルキアス様の第一師団の残存兵力も、私がまとめます。あの方も、生きて捕縛された後、王宮の治療室で正気を取り戻しつつあります。ドラグニルの騎士の誇り、今こそ見せる時です!」
レイラがヴァルキアスの魔導槍を強く床に突き立て、決意を露わにした。
仲間たちの熱い言葉に、イグニスの赤眼にわずかな救いのような光が灯る。
しかし、彼の表情は依然として険しかった。
「お前たちの覚悟は頼もしい。だが、現在のドラグニル軍は、第二師団長バルザックの死亡、第三師団長ゾルディンの消滅、そして第一師団長ヴァルキアスの負傷により、指揮系統が完全に崩壊している。レジスタンスの本隊と合流するにしても、王宮から『竜の墓場』までの隠された行軍ルートを、この満身創痍の状態で進むのは危険すぎる。」
イグニスは大きく息を吸い込み、王宮の壁に埋め込まれた、特殊な防音・防魔術が施された緊急通信用の魔石へと向かって、覇王の威厳を取り戻した声で呼びかけた。
「……聴こえるか、バルドム。お前に、重要な任務を与える。至急、紅蓮の間へと参れ。」
イグニスの呼びかけから、ほんの数分しか経っていなかったはずだった。
作戦室の影、一切の空気の振動も、足音すらも伴わずに、一人の男が滑り込むようにして現れた。
カイルやレイラ、さらには歴戦の野獣であるガロウでさえも、その男が数メートル手前に【出現】するまで、その気配を完全に察知することができなかった。
「御呼びにより参上いたしました。イグニス様」
低く、抑揚のない、まるで極寒の夜の風のような声。
そこに立っていたのは、ドラグニル軍【第四師団(国境防衛・関所駐留大隊)】を率いる師団長、バルドムであった。
バルドムは、竜神族の影の血統とも呼ばれる『影竜族』。竜神族の中でも歴史が長く、長命な一族である。
容姿は、20代後半から30代前半の、浮世離れした冷徹な美貌を持つ青年。
しかし、その全身から漂う圧倒的な隠密の気配が、彼の外見年齢を無意味なものにしていた。
髪は夜の闇をそのまま切り取ったかのような、一切の光を反射しない漆黒の短髪。
纏っているのは、影竜族のみに着用が許される、魔力を完全に吸収して自身の輪郭を曖昧にする特異な防魔隠密衣『夜帷』。
その腰には、一見すると何の変哲もない二振りの漆黒の短剣――地脈の影を物質化させたと言われる暗殺刃『影縫』が、静かに納められていた。
バルドムの性格は、「冷酷無比なる絶対の影」。
イグニス王が闇に呑まれ、狂王と化していた数年間。
第一師団長ヴァルキアスは忠誠ゆえに盲従し、第二師団長バルザックは自身の野心を突かれて闇に取り憑かれた結果虐殺を愉しみ、第三師団長ゾルディンは狂気ゆえに非道な実験を主導していた。
しかし、この第四師団長バルドムだけは、王の凶行に積極的に同調することもなければ、かと言ってヴァルキアスのように表立って命令を遂行することもしなかった。
彼はただ黙々と、第四師団の本来の役割である「ドラグニルの歴史の管理」と「国境防衛線・関所の監視」を冷徹に行い、王宮の影に潜み続けていたのだ。
バルドムの鋭い、すべてを見透かすような黒い瞳が、床に横たわるアレンへと向けられた。
その瞬間、彼の感情を表に出さないはずの冷徹な仮面が、かすかに、しかし確実にピクリと動いた。
(白銀の、髪……? 血の、赤眼……?)
バルドムの脳裏に、500年前の、あの聖地での記憶が鮮烈にフラッシュバックした。
彼もまた、少年『レイン』の姿をよく知っていたのだ。
目の前に横たわっているのは、何から何までその記憶とは正反対の外見。
バルドムは、アレンの右腕にある『白竜の聖鱗』、そして彼の体内(炉心)から微かに漏れ出ている、世界の理を書き換えるほどの『無色の魔力』を網膜に焼き付けた。
(間違いない……。この禍々しいまでの戦気と、すべてを拒絶する空間干渉の波動は、白竜様の『炉心』そのもの。だが、なぜだ。なぜ、これほどまでに変わり果ててしまわれた……。白竜様が崩御された後に一体、何があったというのだ……)
バルドムの胸中に、激しい困惑と、500年前に少年を守れなかったことへの静かな怒りが渦巻く。
しかし、彼はそれを一切声には出さず、ただ静かにイグニスの前で深く頭を下げた。
「バルドムよ。」
イグニスは、かつて自身の狂気を止められずに影に潜むしかなかったこの忠臣に対し、心からの申し訳なさと信頼を込めて言った。
「俺の洗脳は、このアレンという人間、そしてここにいるレジスタンスたちの手によって完全に解けた。……お前に、ドラグニルの王として、そして最も重要な任務を与える。」
バルドムは頭を下げたまま、静かに耳を傾ける。
「このアレンは、アルヴァ様の『心臓』と同化したが、人間の器がその質量に耐えかねて昏睡している。彼を救うには、最果ての『竜の墓場』へ運び、十日間の器の拡張儀式を早急に行わなければならん。
……バルドム。お前の第四師団の全能力を以て、アレンたちを私と共に『竜の墓場』の祭壇へと安全に案内し、彼らの防衛を補佐せよ。」
イグニスの言葉が終わると同時に、バルドムはゆっくりと顔を上げた。
その黒い瞳は、すでに戦士としての、そして影の管理者としての絶対的な冷徹さを取り戻していた。
「……御命、確かに拝領いたしました。イグニス様。」
バルドムは立ち上がり、エルザ、ガロウ、レイラ、カイルの4人を、その鋭い眼光で見据えた。
「レジスタンスの諸君、そしてレイラ、カイル。私の案内するルートは、一切の光を排したドラグニルの地底回廊、文字通りの影の道だ。一歩でも足を踏み外せば、地脈の底へと永遠に落ちる。アレン殿を運ぶ最中、私の指示には絶対に従ってもらう。」
「ふん、影の薄いお兄さんに指図されるのは癪だが、あいつの命がかかってるんだ。文句は言わねぇよ。」
ガロウがニヤリと笑い、アレンの身体をその逞しい右腕で静かに、しかし頑丈に抱え上げた。
「バルドム師団長、よろしくお願いします。」
エルザが大剣を背中に背負い直し、バルドムに向けて深く一礼した。
彼女の手首の鱗は、これから始まる「十日間の地獄」を見据えるように、静かに、しかし熱く発光を続けていた。
「よし、出発だ。これより『竜の墓場』へ向かう。」
バルドムが短剣『影縫』の柄に手をかけた瞬間、彼の身体の輪郭が、王宮の影へと完全に溶け込んでいった。
アレンを救うため、そして世界の破滅を止めるため。最強の連合軍は、ドラグニルの最果て、無数の竜の魂が眠る地獄の防衛戦へと、迷いなくその一歩を踏み出す。
お読みいただきありがとうございました。




