③奪還作戦ー5 無色の神速、頂上決戦
轟、と吹き荒れる、すべてを灰にする超高熱の業火。
ドラグニル帝国の心臓部であり、最高意思決定の場でもある王宮の最深部「紅蓮の間」は、すでに完全な火の地獄と化していた。
壁面を覆う赤茶けた石材は熱量によってドロドロのマグマへと変わり、天井からは絶え間なく溶岩の滴が滴り落ちている。
人間はおろか、並の竜族でさえも一呼吸で肺を焼き焦がされるであろう絶対的な拒絶の空間。
その地獄の中心、巨大な黒鉄の玉座からゆっくりと立ち上がった紅蓮の竜王イグニスは、猛々しい真紅の髪を怒髪天を突くが如く逆立て、狂気に満ちた褐色眼をアレンへと向けていた。
彼の背後に渦巻くのは、純粋な火の魔力ではない。深淵の闇によって精神を汚染され、漆黒の斑点が混じった不気味な黒炎のオーラだ。
「人間の身でその力を宿すお前は、極上の獲物だ……! その白銀の肉体、俺の炎で骨の髄まで焼き尽くして確かめてやる!!」
イグニスの咆哮が、紅蓮の間に文字通りの大爆発を引き起こした。
彼が右腕を掲げるだけで、地脈から汲み上げられた数十本の炎の柱が竜の顎のようにアレンへと襲いかかる。
「イグニス……! これ以上、闇に呑まれるな……ッ!!」
アレンは迫り来る炎の津波を見据えながら、奥歯を噛み締めた。
ドクン、とアレンの右腕の『白竜の聖鱗』が、かつてない激痛とともにドクドクと不気味に脈動した。
火の竜王が全身から放つ、世界の理を書き換えるほどの神話級の熱量。
それに呼応するように、アレンの体内に眠る『白竜の炉心』が暴走しかけているのだ。
(まだだ……今ここで、この力に呑まれるわけにはいかない……!)
アレンはその暴走を力ずくでねじ伏せるように、左手で右の前腕を強く握り潰した。
指先が肉にめり込み、白銀の皮が裂けて、そこから赤黒い鮮血がじわりと滲み出す。
だが、その痛みがアレンの精神を冷徹な静寂へと引き戻す。
「俺は俺自身の意思で今ここに立っている。……この力に振り回されてたまるかよ!」
アレンは、抜刀の直前、短く冷徹な吐息をひとつ漏らした。
それは、かつて彼を聖地の境界で拾い、一人前の戦士へと鍛え上げた伝説の老剣士、バルドの教え。極限状態において精神を絶対零度へと固定するための、完璧な呼吸法のスイッチが入る。
次の瞬間、アレンの血のような赤眼の奥に、変化が生じた。
かつて五つの竜王国を統べ、全ての竜王をその圧倒的な威光で平伏させた絶対不変の調停者――白竜帝「アルヴァ」の、すべてを見透かすような澄んだ『琥珀色の眼光』が、残影としてアレンの瞳に重なる。
アレンの周囲を満たしていた純白のオーラが、一瞬にして光を帯びて輝き始める。
それは、六大属性(地・水・火・風・光・影)のどの属性にも染まっていない、白竜の炉心による絶対的な創造主の魔力により光と空間への直接的な干渉能力。
「『神速』――」
アレンの身体が、視界から完全に消えた。
残像すら残さない。
彼が踏み込んだ瞬間、その移動速度は音速はおろか、光速の領域へと迫っていた。
かつて白竜帝アルヴァが「世界一の飛行速度」を誇り、本気で飛べば空間そのものを飛び越える(転移する)と言われた、その空間跳躍能力の片鱗。
アレンは今、紅蓮の間の空気を切り裂くのではなく、空間そのものを置き去りにして移動していた。
「そこかァ!!」
だが、イグニスはただの竜族ではない。
白竜自ら生み出し、数千年以上を生き抜き、数多の戦場をその圧倒的な武力で蹂躙してきた、絶対不変の竜王だ。
汚染され、理性を狂わせられてなお、彼の神話級の肉体戦闘直感は死んでいなかった。
空間がわずかに歪んだその特異点を正確に捉え、自身の身の丈を遥かに超える巨大な「大炎灼竜剣」を、真横に向けて一閃した。
ドガァッ!!
空間を裂いて放たれたアレンの質素な鉄剣と、イグニスの放つ圧倒的な黒炎の大剣が、紅蓮の間の中心で正面から激突した。
アレンの放つ『無色』の魔力が、イグニスの絶対的な火の属性を拒絶し、空間の境目でバチバチと激しい火花を散らす。
本来なら、水が火を消し、火が地を焼くといった属性の相性関係が存在するが、アレンの『無色』にはそれがない。
ただただ、相手の存在そのものを「拒絶」し、世界の理から切り離そうとする絶対的な防壁。
しかし、イグニスの肉体が持つ純粋な物理的筋力と、深淵の闇によってブーストされた暴力的な熱量が、アレンの華奢な人間の器を圧倒した。
アレンの鉄剣がミシミシと悲鳴を上げ、亀裂が入っていく。
それだけではない。
イグニスの剣から溢れ出る熱気が、アレンの純白の魔導衣の袖を瞬時に焼け焦がした。
じりじりと肉が焼ける、嫌な臭いが立ち込める。
「がはっ……!?」
「ハハハハ! どうした小蠅! その程度か! 白竜の力も、人間の器ではその程度かぁ!!」
イグニスがさらに大剣に体重を乗せ、力任せに押し込む。
アレンの足元、赤茶けた石材の床がメキメキと砕け、彼は数条の火花を散らしながら後方へと凄まじい速度で吹き飛ばされた。
ドォン! と重い音が響き、アレンの身体が王宮の巨大な石柱に激突した。
石柱に広大なひび割れが走り、アレンは床へと崩れ落ちる。
口から大量の鮮血が吐き出され、赤茶けた床を濡らした。
肋骨が数本、へし折れる不快な音がアレンの脳内に直接響いた。
脳を揺さぶるような激痛と、内臓が押し潰されるような呼吸困難。
常人であれば、恐怖と痛みのあまり、その場から一歩も動けなくなるほどの致命傷。
だが、アレンの眼は、死んでいなかった。
彼は折れた肋骨を無理やり筋肉で固定するように、歪んだ息を吐きながらも、顎を僅かに引いた。
そして、その赤眼の奥にある、琥珀色の神聖な光を、一直線にイグニスの胸の核へと突き刺した。
(バルドのじいさんの教えを思い出せ……。力で勝てないなら、力で押し返すな。世界のルールを、こちら側から壊せ――)
アレンはよろめきながらも、しっかりと両足で立ち上がった。
彼の『炉心』が、再び激しく鼓動する。
アレン自らの意志で、白竜の力を極限まで引き出し、解放しているのだ。
すべてを拒絶し、破壊・創造する
白竜帝の真なる力――『無色(空間干渉)』。
「終わりだ、イグニス。……お前のその狂った頭を、冷やしてやる。」
アレンは半ば砕けかけた鉄剣を真っ直ぐに構え、大きく口を開いた。
次の瞬間、紅蓮の間に満ちていたすべての熱量が、アレンの口元へと向かって「逆流」を始めた。
熱が吸収されているのではない。
アレンの周囲の空間そのものが歪み、収束し、絶対的な拒絶の光として凝縮されていくのだ。
火がどれだけ燃え盛ろうと、それを内包する「空間そのもの」を消し去ってしまえば、熱は存在すら許されない。
五大属性の火の頂点たる竜王の炎を、アレンは世界の理ごと虚無へと還していく。
「――『ブレス(絶零の衝撃)』!!」
ドオオオオオオオッッ!!
アレンの右腕より純粋な空間破壊の咆哮が放たれた。
それは光の束のようでありながら、色彩を持たない透明な衝撃波だった。
イグニスが周囲に展開していたすべての黒炎の業火が、その咆哮が通過した瞬間、文字通り「消滅」した。
かき消されたのではない。
火を灯すための空間そのものが消失したため、炎という現象そのものが理不尽に否定されたのだ。
咆哮は真っ直ぐに、イグニスの絶対的な肉体へと突き刺さった。
「な、に……!? 俺の炎が、消え……がはあああああああっっ!?」
神話級の肉体、どんな魔法も通さないと言われた竜王の肉体が、絶叫を上げた。
イグニスの左肩から胸肉にかけての広大な領域が、空間ごと根こそぎ「削ぎ落とされ」、そこから大量の鮮血が噴き出した。肉が抉れ、白い骨が不気味に露わになる凄絶な破壊。
ドスン、と重い音が響いた。
あの傲慢で、絶対無敗を誇った竜王イグニスが、初めてその圧倒的な暴力の前に膝を突いたのだ。
「ハ、ハハ……面白い、面白いぞ、アレン……!!」
抉れた肉体からどす黒い血を流しながらも、イグニスは洗脳(汚染)の闇の奥で、本物の戦士としての歓喜の笑みを浮かべていた。
アレンは再び右腕を強く抑え込み、神速の構えを取る。
ーーここでイグニスの様子に変化が現れる。
「あ、が……あ、あああああッ!!」
突如として、膝を突いていたイグニスが、頭を掻き抱いて狂ったように絶叫した。
その身体から立ち上っていた黒炎のオーラが、まるで供給源を断たれたかのように、パチパチと不快な音を立てて激しく明滅し始めたのだ。
イグニスの肉体を包んでいた闇が、内側から激しく拒絶反応を起こし、霧散していく。
『「何だ……!? 何が起きておる……!? ワシの……ワシの最高傑作が……ゾルディンが、消えた……!? 術式が、崩壊していく……!?」』
イグニスの口から漏れ出たのは、彼自身の声ではない。
彼の精神を汚染し、その深淵の奥から操っていた『深淵の闇』の、焦燥に満ちた叫びだ。
アレンは神速の構えを維持したまま、その光景を冷徹に見つめた。
(洗脳が解けたのか!)
そう、この紅蓮の間の遙か手前、空中回廊において、カイルとレイラの手によって竜王イグニスに洗脳魔法をかけていた第三師団長ゾルディンは完全に無力化され、その魔力回路をシャットダウンされていた。
イグニスの洗脳の「核」であり、闇のバックアップシステムを管理していたゾルディンが捕縛されたことで、イグニスに供給されていた闇の魔力パスが完全に遮断されたのだ。
決着直後。
完全にその糸が切れた。
「ぐ、お、おおおおおっ!」
イグニスの眼から、どす黒い闇の霧が噴き出す。
アレンの放った『絶零の衝撃』によって削ぎ落とされた彼の左肩の傷口は、本来なら闇の超再生能力によって一瞬で修復されるはずだった。
しかし、ゾルディンという供給源を失った今、その超再生は完全に停止し、傷口からは純粋な赤い「竜王の血」がドクドクと流れ落ちていた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
やがて、イグニスの身体から黒い霧が完全に抜け切ると、彼の荒い呼吸だけが紅蓮の間に響いた。
その瞳から、あの狂気じみた、すべてを破壊し尽くさんとするドス黒い輝きが消えていく。
代わりに宿ったのは、数千年の時を生き抜いてきた王としての、威厳に満ちた、しかし深い疲弊を湛えた眼光だった。
ゾルディンの洗脳が、この瞬間、完全に解けたのだ。
イグニスは自身の大きな掌を見つめ、それから床に流れる己の血を見た。
彼の脳内に、洗脳されていた期間に自分が犯した数々の凶行――非情な命令や、首都マグマリアを恐怖で支配した記憶が、濁流のように流れ込んでくる。
「俺は……俺は、何をしていた……」
イグニスは低く、掠れた声で呟いた。
数千年もの間、白竜アルヴァに仕え、ドラグニルを支えてきた誇り高き竜王としての理性が、その胸を激しい悔恨で満たしていく。
「正気に、戻ったのか。イグニス。」
アレンが鉄剣をゆっくりと下げ、冷たい声で問いかけた。
アレンに宿る白竜の炉心は、いつでも次の一撃を放てるよう、静かに脈動を続けている。
イグニスはその声を聴き、ゆっくりと顔を上げた。
「お前は……、……レイン、なのか……?」
「は?.....レイン?」
アレンは眉をひそめた。
「俺の名前はアレンだ。レインなんて男は知らないぞ。いきなり誰と勘違いしてるんだ?」
「そんな筈は、バ、バカな……」
イグニスの声が、困惑と衝撃で大きく震えた。
イグニスは、アレンの姿をその燃えるような眼でじっと見つめた。
洗脳の霧が晴れた彼の頭脳に、かつての、500年前の鮮烈な記憶が蘇ってくる。
「外見も、その性格も……俺の知っているレインとは、あまりにも違いすぎる……。お前は、本当に、あのレインなのか……!?」
イグニスの困惑は深まるばかりだった。
竜王たちは皆、白竜アルヴァが闇を封じるために自身の身体を五つの遺産に分けて大陸に封印したことまでは遺産の残滓の記憶から知っていた。
しかし、アレンの記憶が完全にリセットされ、なぜその外見や性格までもがこれほどまでに悍ましく変貌してしまったのか、その真の理由については、5人の竜王の誰も知らない。
目の前の白銀の戦士の姿はイグニスが知る人物とはあまりにもかけ離れた別人に映ったのだ。
「お前が俺の何に戸惑っているのかは知らないが...。」
アレンは一歩、また一歩と、血に濡れた床を踏み締めながらイグニスへと近づいていく。
「俺には過去の記憶がない。レインだの何だの、そんな昔のことは今はどうでもいい。ただ、俺のうちにある炉心の力が、お前を止めろと言っている。それだけだ。」
「レイン……お前、記憶を……」
イグニスは胸を締め付けられるような痛みを覚えた。
バルドによって育てられたアレンは、今、かつての面影を完全に失い、ただ世界を守るための「冷徹な兵器」のようになってしまっている。
「すまぬ……レイン。俺たちが、お前を……」
イグニスはゆっくりと立ち上がり、抉れた胸の痛みに耐えながら、アレンの前でその巨体を深く折り曲げた。
竜王が、一人の「人間」に対して、最大限の敬意と謝罪を示す、絶対的な臣下の礼。
「レイン……いや、アレンよ。俺の命は、今この瞬間から、お前と、お前が守ろうとするこの世界のために捧げる。ドラグニルはこれより、レジスタンスと同盟を結び、深淵の闇を討つための盾となろう。」
アレンは、右腕の聖鱗の痛みが完全に引いていくのを感じた。
過去の記憶はなく、自分の本当の姿が何だったのかも分からない。
だが、目の前の竜王の言葉には、嘘偽りのない「本物の絆」の重みがあった。




