追憶編②「果ての集落、静寂の剣士」
ドラグニル王国の南部領境、険しい岩山が連なるその最奥に、その「集落」はあった。
表向きは、他国からの侵入を防ぐための臨時の関所、あるいは辺境を警備するための自衛組織
――「辺境騎士団」が駐留する拠点とされていたが、その実態は、イグニスの覇道に疑問を抱き、軍を離脱した者たちが集まる、静かな抵抗の場であった。
ガロウに連れられ、険しい山道を何日も歩き続けたエルザは、すっかり疲れ果てていたが、その瞳の奥の光だけは衰えていなかった。
やがて、岩山を切り開いて作られた無骨な砦が見えてくる。そこでは、数十人の竜人族や亜人の戦士たちが、一糸乱れぬ動きで訓練に励んでいた。
彼らの放つ空気は、ガロウのレジスタンスのそれとは異なり、高度に統率された「軍隊」の威厳を保っていた。
「よう、ガロウ。珍しい客人が来たもんだな。」
砦の奥から、ひとりの男が静かに歩み出てきた。
その男の姿を見た瞬間、エルザは本能的な恐怖と、圧倒的な威圧感に息を呑んだ。
男の背丈はガロウほど大きくはなかったが、その身体からは、一切の無駄を削ぎ落とした「鋼の刃」のような、凄まじい気迫が滲み出ていた。
頭部には、年輪を感じさせる重厚な、しかし美しく磨かれた一対の角。
その佇まいは、まさに歴戦の将そのものだった。
「久しぶりだな、ラグナル。」
ガロウが、その男――ラグナルに向かって、珍しく敬意を込めた口調で言った。
「相変わらず、シケた山の中に引きこもってやがるな?」
「お前に言われたくはない、ガロウ。そっちこそ、壊れた義手を引きずって、泥水をすする生活は楽しいか?」
ラグナルは低く、しかし心地よい声音で笑った。
その視線が、ガロウの後ろに隠れるようにして立っているエルザへと移る。
「……で、そのお嬢ちゃんが、わざわざここまで俺を訪ねてきた理由か?」
「ああ」
ガロウはエルザの背中を、そっと前に押し出した。
「こいつの名前はエルザ。南部辺境の集落の生き残りだ。数ヶ月前、バルザックの第二師団にすべてを焼かれた。」
バルザック、という名前が出た瞬間、ラグナルの眉が僅かにピクリと動いた。
しかし、その表情はすぐに元の、深い湖のような静寂へと戻る。
「あいつの首を獲りたいと、この娘は言っている。俺が数ヶ月間、生き延びる術は叩き込んだ。素質は最高だ、竜人族としての魔力も、身体能力も、俺の全盛期をも超えるかもしれねぇ。……だが、俺の手じゃ、これ以上は育てられねぇ。」
「なぜだ?」
「炎が強すぎるんだよ。」
ガロウは、自身の火傷の痕を指先でなぞった。
「この娘の胸にある復讐の炎は、敵を殺す前に、自分自身の肉体と精神を焼き尽くしちまう。俺の教える泥臭い喧嘩殺法じゃ、その暴走を止められねぇ。ラグナル……お前の『剣』なら、この娘の炎を、正しく敵を穿つための刃に変えられるはずだ。」
ラグナルは何も言わず、エルザの前にゆっくりとしゃがみ込んだ。
彼の深い金色の瞳が、エルザの赤く染まった双眸を真っ直ぐに見つめる。
エルザは、その視線に圧されそうになりながらも、決して目を逸らさず、鋭い八重歯を噛み締めて睨み返した。
「エルザ、と言ったな。お前は、何のために剣を取りたい?」
「バルザックを殺すため。」
エルザは、迷いなく答えた。
「あいつに、私の家族を、故郷を、すべてを奪われた。あいつをこの手で真っ二つに引き裂くまで、私のこの炎は絶対に消えない。」
その言葉を聞いたラグナルは、ふっと悲しげな自嘲の笑みを浮かべた。
「やはりな。ガロウの言う通り、あまりにも純粋で、苛烈な炎だ。……だが、エルザ。お前が持つその憎しみは、戦場においては最大の武器であり、同時に最大の弱点だ。私怨で振るう剣は、ただ無様に砕け散る。」
「そんなことない! 私は、どんなに強い攻撃だって耐えてみせる!」
「いいだろう。」
ラグナルは立ち上がり、傍らにあった一本の鉄剣をエルザの前に放り投げた。
「その剣を拾え。私に一太刀でも浴びせることができたら、お前を弟子として認めよう。」
エルザは地面に突き刺さった鉄剣を、両手で力任せに引き抜いた。
幼い身体にはあまりにも重い剣だったが、彼女の胸の怨念が、その重さを忘れさせた。
「ガロウ、手出しはするなよ!」
「ああ、好きにしな。」
ガロウは壁に背を預け、腕を組んで事の顛末を見守る姿勢をとった。
「ハァァァァッッ!!」
エルザが地を蹴った。
ガロウとの訓練で培った、野生的な、しかし無駄のない踏み込み。
彼女の小さな身体から、竜人族の赤い魔力が爆発的に吹き出し、鉄剣の刃が赤く加熱される。
上段からの、渾身の一撃。
バルザックの首を撥ねることをイメージした、命懸けの突撃だった。
しかし――。
パシィン、と乾いた音が響いた。
「え……?」
エルザが気づいたときには、彼女の身体は虚空を舞い、地面をごろごろと転がっていた。
ラグナルは、一歩もその場から動いていなかった。ただ、腰に差した鞘のままの剣を、ほんの僅かに動かし、エルザの剣の軌道を完璧にいなしただけだった。
「構えが大きすぎる。怒りに目を奪われ、相手の動きがまったく見えていない。それでは、バルザックの重厚な甲冑を傷つけることすら叶わん。」
ラグナルの声は、どこまでも冷静だった。
「まだ……っ、まだよ!!」
エルザは再び立ち上がり、何度も、何度もラグナルへと突っ込んでいった。
右から、左から、あるいは死角からの奇襲。
彼女の手首の鱗は鮮血のように発光し、口元からは八重歯が覗き、まさに狂戦士のような凄まじい攻め立てを見せる。
だが、そのすべての攻撃が、ラグナルの最小限の動きによって、文字通り「子供の手遊び」のようにあしらわれていく。
数十回目、完全に体力を使い果たし、魔力の暴走によって自身の手足が軽く焼けただれたエルザは、ついにその場に膝を突いた。
鉄剣が、カランと虚しい音を立てて手からこぼれ落ちる。
「……ハァ、ハァ、……どうして……、どうして当たらないの……!」
悔しさと無力感から、エルザの瞳から大粒の涙が溢れ出た。
ラグナルは、そんなエルザの前に歩み寄り、彼女の小さな、アザだらけの手をそっと取り上げた。
「お前の炎は素晴らしい。だが、それをそのまま外へと撒き散らすな。炎を、刃の内側へと収束させるんだ。完璧な正中線を捉え、一瞬の衝撃で内側からすべてを爆破する……それが、我が『竜炎剣術』の極意だ。」
ラグナルは、エルザの涙をその無骨な指先で拭った。
「エルザ。お前がその復讐の炎に呑まれず、それを制御する『器』となる覚悟があるなら、私が我が剣のすべてを、お前に授けよう。バルザックを、そしてこの歪んだドラグニルを討つための、本物の牙をな。」
エルザは、ラグナルの言葉をじっと聞き入っていた。
その胸の炎は、決して小さくなってはいなかった。
しかし、ラグナルの静かな理性の言葉に触れたことで、その炎は暴走を止め、彼女の内側で、静かに、しかしより熱く、凝縮され始めていた。
「……お前が知る、最高の竜人族の男、か。間違いはなかったようだな、ガロウ。」
エルザを見守っていたガロウが、顔の右半分だけで不敵にニヤリと笑った。
「だろ? こいつの牙を研ぐのは、テメェの仕事だ、ラグナル。俺は、俺のやり方で、あのトカゲの王様を引きずり下ろすための準備を始める。エルザのことは任せたぜ!」
ガロウはそう言うと、集落から背を向ける。
「もう行くのか?ガロウ……。」
「俺がやれるのはここまでだ。後はお前がこれからどうするか自分で自分の道を決めろ。」
ガロウは足取りを止めることなく進める。
「ここまでありがとう!ガロウ!あんたは私の親代わりみたいなもんだ。必ず強くなって私がこの国を変えてみせるぞ。」
エルザは涙ぐみながらガロウの背を見送り、ガロウは返答することなく集落を後にした。




