②奪還作戦ー1
「よし、落ち着いたな。カイル、さっき言っていた『洗脳』ってのはどういうことだ。竜王が、誰かの言いなりにでもなっているのか?」
アレンの問いに、カイルはいつもの軽薄な笑みを消し、ずり落ちた眼鏡の奥にある理知的な瞳をさらに細めた。
「言いなり、というのとは少し違うよ、アレン君。あのトカゲの王様は、自らの意思で動いていると信じ込んでいる。だが、その実、精神を内側から『汚染』されているんだ。」
「汚染……?」
エルザが怪訝そうに眉をひそめ、その頭部の竜の角を微かに震わせる。
カイルは机の上の古びた地図を指先で叩いた。
「僕が第三師団の主席魔導参謀として、王宮の最深部で観測した魔力波形がある。それはイグニス王本来の、触れるもの全てを灰にする純粋な火の魔力じゃなかった。もっとドロドロとした、光を一切反射しない漆黒の泥のような――そう、500年前に白竜アルヴァが封印したであろう深淵の闇の魔力だ。」
カイルの言葉を引き継ぐように、第一師団の遊撃隊長であるレイラが、苦渋に満ちた表情で口を開いた。
「私も、近衛として王の近くにいて異変を感じていたわ。一年前までのイグニス様は、確かに弱肉強食を謳う傲慢な覇王だったけれど、同時に戦士としての誇りを持っていた。無抵抗な者を無闇に殺すような真似は決してしなかった。それが……数ヶ月前から突然、ただの破壊と虐殺を愉しむ怪物に変わってしまったの。まるで、心の中の『傲慢さ』や『狂気』だけを何倍にも増幅されたかのように。」
「心の隙を煽る闇……。まさか、黒夜の竜王『ネロ』の仕業か?」
ガロウがその無骨な顔の左半分にある大きな火傷の痕を歪め、鋼鉄の左義手をギリリ、ときしませた。
「あの黒竜、白竜様が消えてから完全に狂いやがったって噂だったが、ついに動き出しやがったか?他の竜王どもの心に闇を植え付け、世界をごちゃ混ぜにぶっ壊す気か?」
「黒竜による洗脳かは分からないが、アレン君の中に眠っていた炉心の力の覚醒とこの特殊で、どの属性にも当てはまらない魔力の波形の残穢の2点から憶測を立てて考えるとドラグニルは深淵の闇であろう狂気に今まさに犯されていると考えた方がいいだろうね。」
カイルの声が、冷徹な平和主義者としてのトーンを帯びる。
「僕の直属の上司である第三師団長、ゾルディンのクソトカゲはね、完全にその闇の狂気に同調している。あいつはイグニス王の命令と称して、南部『竜の墓場』から掘り出した『白竜の心臓』の莫大な熱量を、地脈の熱エネルギーと強引に結合させる最終調整に入っている。目的は大陸全土を一夜にして消し去る焦土兵器――『ラグナロク』の完成さ。」
カイルは眼鏡の位置を人差し指で直しながら、吐き捨てるように言った。
「人間の身で白竜の力を宿すアレン、君はイグニスにとって『極上の獲物』だ。だが『ラグナロク』を起動するための最後のピースだからこそ、兵器が完全に完成する前に王宮へ潜入し、イグニス王の目を覚まさせる必要があるんだ。」
部屋の空気が、これまでにない重圧で満たされる。
第三師団長ゾルディンの狂気、そして深淵の闇に汚染されたであろう紅蓮の竜王イグニス。
立ちはだかる壁はあまりにも巨大だ。
だが、アレンは無意識のうちに、右手の指先でフードの隙間から覗く白銀の前髪をすっと横に払った。
その仕草はどこか優美で、大陸の運命すら見通すかのような絶対的な静寂を纏っている。
それを見たガロウは、一瞬だけ目を見開き、不敵にニヤリと笑った。
「お前さんには、やっぱり不思議な引力があるな、アレン。……よし、作戦を伝えるぞ。」
ガロウが地図の王宮の裏手を指差す。
「正面から行けば、第一師団長ヴァルキアスの超高熱の魔導槍で一瞬にして消し炭だ。狙うのは、第三師団が管理する、魔導兵器の『排熱ダクト』および地下の『魔導通路』。カイルのIDとレイラの内部権限があれば、警備の目を欺いて最深部まで潜り込めるルートが一つだけある。」
「ただし」とレイラが鋭い視線を全員に向けた。
「少しでも不審な動きをすれば、ヴァルキアス様の洞察力と、ゾルディンの魔導センサーがすぐに異常を検知するわ。王宮に入ったら、一歩のミスも許されない極限の隠密になる。いいわね?」
「望むところだわ。私の大剣が、あのバルザックの首を捉えるまでは死ねないもの。」
エルザが静かに、だが激しい闘志を秘めて大剣の柄を握り直す。
アレンは顎を僅かに引き、視線だけを一直線に王宮の図面へと突き刺した。
恐怖などとうに置き去りにしている、本物の戦士の眼だ。
「わかった。案内を頼む、カイル、レイラ。……世界をめちゃくちゃにされてたまるか。」
「話が早くて助かるよ。それじゃあ、トカゲの王様のお膝元へ、スリル満点のピクニックに出掛けようか?」
カイルはいつもの軽薄な笑みを浮かべて立ち上がり、セーフハウスのランプを吹き消した。
部屋が完全な闇に包まれる。
フードを深く被り直したアレンたちは、熱気渦巻く首都マグマリアの夜の帳へと、静かに滑り出していった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
赤茶けた石造りの城下町を、夜の帳と不気味な熱気が包み込んでいく。
その熱源の最たる中心地――首都マグマリアの頂点に君臨する王宮「紅蓮閣」の謁見の間では、世界を揺るがす狂気の胎動が、確実にその濃度を増していた。
巨大な玉座に深く腰掛け、猛々しい真紅の髪を逆立てている男――紅蓮の竜王イグニスは、退屈そうに頬杖をついていた。
その傍らには、彼の身の丈ほどもある大剣「大炎灼竜剣」が、床の石材をドロドロと融解させながら突き立てられている。
「おい、ゾルディン。『心臓』の定着はまだ終わらんのか。もったいぶりやがって。俺の炎だけで大陸ごと焼き尽くしてやってもいいんだぞ。」
イグニスの言葉は豪快にして傲慢。
力こそがすべてという彼の覇気を体現していた。
しかし、その褐色の眼の奥には、一年前にはなかったはずの、どろりとした濁った「闇」が絶えず渦巻いている。
まるで、底知れぬ深淵から伸びる見えない糸に、精神の髄まで手繰られているかのように。
玉座の下で、全身を異様な魔導具と機械の義肢で補強した男が、不気味な金属音を立てて頭を下げた。
第三師団長、「黒鉄の錬金術師」ゾルディンである。
「クカカ……イグニス様、焦土兵器『ラグナロク』の最終調整は極めて順調にございます。地脈熱と『白竜の心臓』の融合度はすでに九十パーセントを超えました。あの『心臓』が秘める膨大なエネルギーが完全に固定された暁には……御身の業火は、この世界のすべてを塵へと変えるでしょう。」
ゾルディンは狂気に満ちた笑みを浮かべ、手元の魔導端末を弄る。
彼にとって、この世界も、王であるイグニスすらも、己の最高傑作を完成させるための、そして「深淵の闇」を顕現させるための実験材料に過ぎなかった。
「フン、すべてを塵に、か。悪くない響きだ。」
イグニスは歪んだ笑みを浮かべる。
かつて彼が持っていた「強者と真っ向から戦う」という戦士の誇りは、闇の汚染によって「ただの破壊と虐殺を愉しむ狂気」へと完全に塗り替えられつつあった。
イグニスはふと、己の胸の奥が妙に昂ぶるのを感じ、大剣の柄を掴んだ。
「……それで心臓の魔力の制御の核となる小僧はどうなっている?バルザックの奴を赤子のようにもてあそんだという、あの白銀の髪のガキだ。アレンとかいう人間だったな。」
その名を口にした瞬間、イグニスの全細胞が、かつてないほどの闘争本能に歓喜した。
「その力が本物か、俺の炎で焼き尽くして確かめてやる! ネロの陰気男や、ゼピュロスの合理主義のモヤシ野郎が青ざめるほどの圧倒的な暴力でな……!」
「――その件でしたら、すでに手を打ってあります、イグニス様。」
謁見の間の重厚な扉が開き、現れたのは第二師団長バルザックだった。
重厚な甲冑を血の滲むような思いで引きずり、その顔は激しい焦燥と怒りで醜く歪んでいる。
リガルド北門でアレンの神速の打撃に敗北し、精鋭を失った屈辱は、彼のプライドを完全にズタズタにしていた。
「リガルドでの不覚は、我が一生の不覚……! ですが、奴らの潜伏先はすでに絞り込んでおります! 手柄を他の師団長に譲る気など毛頭ございません。我が私兵の暗殺・急襲部隊をすでに城下町へ差し向けました。今度こそ、あの忌々しいアレンの首を撥ね、エルザという小娘ごと灰にして御前に捧げてみせます!」
バルザックは狂信的な目をギラつかせ、己の炎の魔力を爆発させる。しかし、その必死な訴えを、部屋の影から冷徹に見下ろす視線があった。
「相変わらず見苦しいな、バルザック。敗軍の将が、王の御前で吠えるな。」
静かに、だが部屋の熱気を一瞬で一変させるほどの威厳を持って歩み出たのは、第一師団長「極光の龍神」ヴァルキアスだった。
白髪交じりの壮年の男でありながら、その佇まいは一切の隙がない「軍神」そのもの。
彼は光を収束させた超高熱の魔導槍を背に、厳格な武人としての鋭い眼光をバルザックへ向けた。
「ヴァルキアス……! 貴様に俺の悔しさがわかってたまるか!」
「黙れ。軍律を乱し、私兵を勝手に動かすなど言語道断。リガルドでの大失態を、さらに重ねる気か。」
ヴァルキアスは私情を一切挟まず、ただ冷徹に事実だけを突きつける。
そして、その鋭い洞察の瞳を、ゾルディンの横に控えるはずの「ある席」へと向けた。
「……それよりも、ゾルディン。貴公の部下である主席魔導参謀のカイル。今、どこで何をしている?」
「クカ、カ? カイルなら、魔導通路のセンサー点検に向かわせましたがねぇ?」
ゾルディンが首を傾げる。
ヴァルキアスは不快そうに、僅かに目を細めた。
「……妙だな。城下町の警戒網に、微かなノイズが走っている。バルザックの動かした私兵のせいか、あるいは――」
ヴァルキアスの脳裏に、かつて任務中に見せたレイラの「ほんの一瞬の迷い」が過った。
亜人の女子供を処刑せよという命令に、彼女が浮かべた絶望の表情。
ヴァルキアスは直感していた。
王宮の内部に、自分たちの目を盗んで動く「不穏な影」があることを。
「イグニス様。防空近衛大隊の権限により、王宮内の全エリアの魔力スキャンを強化いたします。鼠が一匹、紛れ込んでいるやもしれません。」
ヴァルキアスの鋭すぎる言葉に、ゾルディンはくつくつと不気味に笑い、バルザックはアレンへの殺意に歯噛みする。
そして玉座のイグニスは、王宮の最奥から響くかすかな「脈動」を感じ取り、狂気に満ちた笑みをさらに深めるのだった。




