「休んでいい場所」
駅までの道を歩きながら、僕は何度も同じところをぐるぐる回っていた。
佐伯さんの顔。
言いかけた言葉。
それを遮るみたいに出した、自分の「ごめん」。
あれでよかったのか。
よくなかったのか。
いや、たぶん、よくなかったんだろう。
でも、じゃあどうすれば“よかった”のかは分からない。
曖昧に笑っていたら、もっとひどかった。
優しく受け止めてしまえば、もっと期待を持たせた。
だから断るしかなかった。
けれど切れば、当然傷つく。
それが今さら実感として胸に落ちてきて、じわじわと足取りを重くしていた。
改札の手前まで来たところで、スマホが震える。
画面を見る。
知らない番号ではなく、学園から登録されている連絡先だった。
**男性保護局 学園支援窓口**
短い通知文。
《本日、時間があれば立ち寄ってください。担当:九条》
九条。
その名前に、昼間までなら何の引っかかりもなかったかもしれない。
でも今日は違った。
立ち寄ってください。
それは命令ではない。
なのに、今の僕には妙に断りにくく見える。
少しだけその画面を見つめてから、僕は駅へ向かう足を止めた。
(…帰っても、どうせ考えるだけか)
そう思った瞬間、ほんの少しだけ、そっちへ逃げたくなった。
逃げる。
その言葉が、自分の中で妙にしっくりくる。
家に帰れば一人になれる。
でも、一人になったら今日のことを何度も反芻して、たぶん余計に苦しくなる。
それなら、少し誰かと話した方がいいのかもしれない。
そう自分に言い訳をしながら、僕は駅とは反対方向へ踵を返した。
◇
学園支援棟は、放課後になると一気に静かになる。
授業が行われる校舎から少し離れた場所に建っていて、廊下の幅も、ドアの色も、どこか病院みたいに落ち着いている。
派手さはない。
でも、そのぶんだけ妙に息苦しい圧迫感も薄い。
案内表示に従って二階まで上がる。
短くノックをすると、すぐに中から声がした。
「どうぞ」
やわらかい声だった。
ドアを開ける。
部屋の中は、白くて整っているくせに、鷹宮ひとえのいた部屋とはまるで空気が違った。
机も椅子も棚もある。
それなのに、ここは“管理”より“休憩”の場所に見える。
窓際には細長い観葉植物。
机の端には電気ケトルと、いくつかのマグカップ。
壁際のソファはやわらかそうで、部屋全体にほんのりと甘い紅茶みたいな香りが漂っていた。
「東條くんだよね」
声の方を見る。
そこにいたのは、二十代後半くらいの女性だった。
長すぎない髪をやわらかくまとめ、淡い色のカーディガンを羽織っている。
見るからに圧がない。
むしろ、この部屋の空気そのものみたいに、あたたかくて輪郭がやわらかい人だった。
「九条澪です」
彼女は椅子から立ち上がり、軽く頭を下げた。
「急に呼んでごめんね。入って」
「…はい」
返事をしながら中へ入る。
ドアが閉まる。
でもさっきのひとえの部屋とは違って、その音に閉じ込められる感じはなかった。
「鞄、そこでもいいし、持ったままでも大丈夫」
そう言われて、僕は少し迷った末に、ソファの横に鞄を置いた。
大丈夫、と言われると、少しだけ肩の力が抜ける。
「座ろうか」
澪さんは机を挟んだ向かいの椅子ではなく、少し斜めに置かれたソファを示した。
向かい合って“面談”する形じゃない。
それだけで、妙に気持ちが軽くなる。
僕が腰を下ろすと、澪さんはケトルの方へ歩きながら言った。
「温かいのと冷たいの、どっちがいい?」
「え?」
「飲み物。あったかい方が落ち着くかなって思ったんだけど、今日は少し暑いし」
あまりにも普通の聞き方で、一瞬、ここが学校の支援室だということを忘れそうになる。
「…温かい方で」
「了解」
澪さんは小さく笑って、マグカップを二つ並べた。
その手際もゆっくりで、妙に急かされる感じがない。
お湯を注ぐ音。
スプーンがカップに当たる小さな音。
そのどれもが、今日一日頭の中を掻き回していた尖った空気を、少しずつ鈍くしていくみたいだった。
「はい」
差し出されたマグカップを受け取る。
ほのかに甘い香りがした。
ミルクティーだろうか。
「熱いから気をつけて」
「ありがとうございます」
口をつける前から、指先に伝わる温度だけで、少しだけ息がつきやすくなる。
澪さんは自分のカップを持ったまま、向かいではなく斜めの位置に腰を下ろした。
正面から見つめない。
でも、ちゃんとこちらを気にかけている距離。
不思議な人だと思う。
「…鷹宮さんとは、もう話した?」
カップを両手で包むみたいに持ちながら、澪さんが聞く。
「はい」
「厳しかった?」
「まあ…それなりに」
そう答えると、澪さんは少しだけ苦笑した。
「ひとえちゃん、ちゃんとしてるからね」
“ちゃんとしてる”。
その言い方が、なんだか少しおかしくて、僕はわずかに口元をゆるめた。
「すごく、正しいことを言われました」
「うん」
「でも…」
そこで止まる。
自分でも、何をどう言いたいのか分からない。
正しい。
でも苦しい。
納得できる。
でも納得したくない。
そういうぐちゃぐちゃしたものが喉の奥で絡まっている。
澪さんは急かさなかった。
相づちも打たない。
ただ、待っている。
その待ち方が妙にやさしくて、だからこそ、ぽつりと本音が落ちた。
「僕、そんなにひどいことしてたのかなって」
澪さんの表情は変わらない。
驚きもしないし、すぐに否定もしない。
「今日、誰かに何か言われた?」
その聞き方が、責めるでも掘り返すでもなく、ただ順番を整えてくれるみたいだった。
「…はい」
「女の子?」
「はい」
「傷ついてた?」
その一言で、佐伯さんの顔が思い出される。
目を丸くして、声が少しだけかすれて、それでも怒らずに「勘違いします」と言ったあの顔。
「…たぶん」
澪さんは小さく頷いた。
「そっか」
それだけ。
それだけなのに、なぜだか胸の奥の変な力が少しほどけた。
責められないと、逆にこっちが勝手に罪悪感を増やすこともある。
でも澪さんの“そっか”はそうじゃなかった。
ただ、今ここにある事実だけを受け取る音だった。
「東條くん」
「…はい」
「まず、疲れたよね」
その言葉で、僕は一瞬だけ言葉を失った。
疲れた。
たぶん、その通りだ。
罪悪感とか反省とか、そういう立派な言葉の前に、今日の僕はまず単純に疲れていた。
朝から何度も人の感情に触れて、何度も自分の軽さを突きつけられて、どうするのが正しいのか分からないまま選ばされて、断って、傷つけて。
「…はい」
返事が少し遅れた。
澪さんはやっぱり何も責めない。
「疲れてるときって、ちゃんと考えようとしても無理なんだよ」
「でも…」
「うん」
「僕、ちゃんと考えなきゃだめだと思います」
「そうかもね」
その返し方が意外だった。
もっと「無理しなくていいよ」みたいに言われるのかと思っていた。
澪さんはカップの縁に指を添えたまま、少しだけ視線を落とす。
「でも、“今すぐ全部整理しなきゃ”って思うと、余計にしんどくなる」
「……」
「だから今日は、“ちゃんと考える日”じゃなくて、“少し休んでから考える日”でもいいんじゃないかなって」
その言い方は、甘い。
はっきりと甘い。
前の僕なら、たぶんこういう言葉が大好きだったと思う。
誰かに選ばれ、気遣われ、責任を少しだけ先送りにしてもらえる感じ。
その居心地のよさに、簡単に沈めてしまう言葉。
今だって嫌いじゃない。
むしろ危ないくらい心地いい。
僕はマグカップを持つ手に少しだけ力を入れた。
「澪さんは…僕のこと、悪いと思わないんですか」
聞いてから、変な質問だと思った。
でも、口から出てしまったものは仕方ない。
澪さんは少しだけ考える。
「悪い、って言葉で片づけるほど簡単じゃないと思う」
「簡単じゃない?」
「うん。東條くん、たぶんわざと人を傷つけようとしてるわけじゃないでしょう」
「それは…」
「でも、結果として傷つけたなら、それは消えない」
やさしい声で、ちゃんと痛いことを言う。
そのバランスがずるい。
「だから、悪くないとは言わないよ」
「……」
「でも、全部が全部、東條くんだけのせいでもない」
僕は少しだけ顔を上げた。
「この世界って、男の子の態度に意味を持たせすぎるから」
その言葉は、ひとえとは少し違う方向から、でも同じ現実に触れていた。
「優しくされたら期待するし、笑ってくれたら特別だと思うし、少し距離が近いだけで勘違いもしやすい」
「…そうですね」
「うん。おかしいよね」
さらっと言われる。
「でも、今はそういう世界」
ひとえと同じ答えなのに、澪さんの口から出ると少しだけ温度が違った。
正しいから従え、ではない。
苦しいけど今はここにいるよね、という前提がある。
「東條くんは、最初から全部分かってたわけじゃないでしょ」
「…はい」
「だったら今は、“分からなかった自分”までまとめて責めなくていいよ」
その言葉で、胸の奥が妙に熱くなる。
責めるな、と言われると逆に泣きそうになるのは、たぶんずるい。
僕は泣かないけど、代わりに目を伏せる。
「僕、たぶん…」
そこで言葉が止まる。
「うん」
「求められるの、嬉しかったです」
やっと出た本音だった。
澪さんは何も驚かなかった。
「そうだよね」
それだけだった。
否定もしない。
引きもしない。
「前は、そんなことなかったから」
「うん」
「だから、ちょっと優しくしただけで喜ばれるのも、連絡が来るのも、待たれるのも…」
そこまで言って、急に惨めな気持ちになる。
まるで僕が、ただ安っぽい快感に釣られていただけみたいで。
でも実際、たぶんそうなのだ。
「嬉しかったんです」
もう一度、少し小さい声で言う。
澪さんはカップを置いて、小さく頷いた。
「嬉しかったこと自体は、悪くないよ」
「でも」
「でも、その嬉しさに寄りかかったまま誰かを曖昧にしたなら、そこは考えなきゃだよね」
また、やさしい声で痛いことを言う。
それが妙に効く。
「…ずるいです」
思わずそう言うと、澪さんは少しだけ目を丸くした。
「私が?」
「はい」
「どうして?」
「やさしいこと言うのに、逃がしてくれないから」
自分で言ってから、子どもっぽいなと思った。
でも、澪さんは小さく笑っただけだった。
「逃がすために呼んだわけじゃないもん」
「じゃあ何のためですか」
「東條くんが、一回ちゃんと息をつけるように」
その答え方は、やっぱりずるい。
息をつく。
それだけなら、責任から逃げるわけじゃない。
でも、今の僕にはそれがものすごく魅力的に見える。
ここにいれば、少なくとも今この瞬間だけは、誰かの期待も視線も、少し遠くできる。
「ねえ」
澪さんが静かに言う。
「今日は、このまま少し休んでいく?」
僕は反射的に顔を上げる。
「…いいんですか」
「いいよ」
「でも、帰り」
「少しくらい遅くなっても、今日は誰も怒らないでしょ」
まあ、それはそうかもしれない。
今日一日、ずっと何かを選ばされてきた。
正しく返すか。
断るか。
曖昧にしないか。
そのたびに少しずつ削られてきた。
だから、この“少し休んでいく?”という言葉は、危ないくらい甘かった。
分かっている。
こういう場所に慣れたら、きっと楽になりすぎる。
楽になりすぎると、自分で立つ力をどこかに預けてしまいそうで怖い。
でも今は、その怖さより先に、救われる感じの方が強かった。
「…少しだけ」
気づけば、そう返していた。
澪さんは、うん、と頷く。
「じゃあ、今日は何もしない時間にしようか」
「何もしない時間」
「そう。答えも出さないし、反省会もしないし、誰かのことも決めない時間」
その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけほどける。
危ない。
でも、助かる。
その両方を同時に感じながら、僕はソファの背に少しだけ体を預けた。
窓の外では、夕方の光がゆっくりと傾いていく。
静かな部屋。
温かい飲み物。
責めない声。
ここはたぶん、僕みたいな人間が簡単に沈んでしまえる場所だ。
そう分かるのに、今はその沈みやすさが、どうしようもなくありがたかった。
澪さんはそれ以上何も言わなかった。
僕も、もう何も言わなかった。
ただ、今日一日ずっと張りつめていたものが、少しずつ緩んでいくのを感じていた。
そしてその感覚に、どこかで薄く怯えている自分にも、ちゃんと気づいていた。
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