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貞操逆転世界で、僕は希少な男子らしい  作者: きなこもち
第1章

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「休んでいい場所」

 


 駅までの道を歩きながら、僕は何度も同じところをぐるぐる回っていた。


 佐伯さんの顔。

 言いかけた言葉。

 それを遮るみたいに出した、自分の「ごめん」。


 あれでよかったのか。

 よくなかったのか。

 いや、たぶん、よくなかったんだろう。


 でも、じゃあどうすれば“よかった”のかは分からない。


 曖昧に笑っていたら、もっとひどかった。

 優しく受け止めてしまえば、もっと期待を持たせた。

 だから断るしかなかった。

 けれど切れば、当然傷つく。


 それが今さら実感として胸に落ちてきて、じわじわと足取りを重くしていた。


 改札の手前まで来たところで、スマホが震える。


 画面を見る。

 知らない番号ではなく、学園から登録されている連絡先だった。


 **男性保護局 学園支援窓口**

 短い通知文。

 《本日、時間があれば立ち寄ってください。担当:九条》


 九条。

 その名前に、昼間までなら何の引っかかりもなかったかもしれない。

 でも今日は違った。


 立ち寄ってください。

 それは命令ではない。

 なのに、今の僕には妙に断りにくく見える。


 少しだけその画面を見つめてから、僕は駅へ向かう足を止めた。


(…帰っても、どうせ考えるだけか)


 そう思った瞬間、ほんの少しだけ、そっちへ逃げたくなった。


 逃げる。

 その言葉が、自分の中で妙にしっくりくる。


 家に帰れば一人になれる。

 でも、一人になったら今日のことを何度も反芻して、たぶん余計に苦しくなる。

 それなら、少し誰かと話した方がいいのかもしれない。


 そう自分に言い訳をしながら、僕は駅とは反対方向へ踵を返した。


 ◇


 学園支援棟は、放課後になると一気に静かになる。


 授業が行われる校舎から少し離れた場所に建っていて、廊下の幅も、ドアの色も、どこか病院みたいに落ち着いている。

 派手さはない。

 でも、そのぶんだけ妙に息苦しい圧迫感も薄い。


 案内表示に従って二階まで上がる。

 短くノックをすると、すぐに中から声がした。


「どうぞ」


 やわらかい声だった。


 ドアを開ける。


 部屋の中は、白くて整っているくせに、鷹宮ひとえのいた部屋とはまるで空気が違った。

 机も椅子も棚もある。

 それなのに、ここは“管理”より“休憩”の場所に見える。


 窓際には細長い観葉植物。

 机の端には電気ケトルと、いくつかのマグカップ。

 壁際のソファはやわらかそうで、部屋全体にほんのりと甘い紅茶みたいな香りが漂っていた。


「東條くんだよね」


 声の方を見る。


 そこにいたのは、二十代後半くらいの女性だった。

 長すぎない髪をやわらかくまとめ、淡い色のカーディガンを羽織っている。

 見るからに圧がない。

 むしろ、この部屋の空気そのものみたいに、あたたかくて輪郭がやわらかい人だった。


「九条澪です」


 彼女は椅子から立ち上がり、軽く頭を下げた。


「急に呼んでごめんね。入って」


「…はい」


 返事をしながら中へ入る。

 ドアが閉まる。

 でもさっきのひとえの部屋とは違って、その音に閉じ込められる感じはなかった。


「鞄、そこでもいいし、持ったままでも大丈夫」


 そう言われて、僕は少し迷った末に、ソファの横に鞄を置いた。

 大丈夫、と言われると、少しだけ肩の力が抜ける。


「座ろうか」


 澪さんは机を挟んだ向かいの椅子ではなく、少し斜めに置かれたソファを示した。

 向かい合って“面談”する形じゃない。

 それだけで、妙に気持ちが軽くなる。


 僕が腰を下ろすと、澪さんはケトルの方へ歩きながら言った。


「温かいのと冷たいの、どっちがいい?」


「え?」


「飲み物。あったかい方が落ち着くかなって思ったんだけど、今日は少し暑いし」


 あまりにも普通の聞き方で、一瞬、ここが学校の支援室だということを忘れそうになる。


「…温かい方で」


「了解」


 澪さんは小さく笑って、マグカップを二つ並べた。

 その手際もゆっくりで、妙に急かされる感じがない。


 お湯を注ぐ音。

 スプーンがカップに当たる小さな音。

 そのどれもが、今日一日頭の中を掻き回していた尖った空気を、少しずつ鈍くしていくみたいだった。


「はい」


 差し出されたマグカップを受け取る。

 ほのかに甘い香りがした。

 ミルクティーだろうか。


「熱いから気をつけて」


「ありがとうございます」


 口をつける前から、指先に伝わる温度だけで、少しだけ息がつきやすくなる。


 澪さんは自分のカップを持ったまま、向かいではなく斜めの位置に腰を下ろした。

 正面から見つめない。

 でも、ちゃんとこちらを気にかけている距離。


 不思議な人だと思う。


「…鷹宮さんとは、もう話した?」


 カップを両手で包むみたいに持ちながら、澪さんが聞く。


「はい」


「厳しかった?」


「まあ…それなりに」


 そう答えると、澪さんは少しだけ苦笑した。


「ひとえちゃん、ちゃんとしてるからね」


 “ちゃんとしてる”。

 その言い方が、なんだか少しおかしくて、僕はわずかに口元をゆるめた。


「すごく、正しいことを言われました」


「うん」


「でも…」


 そこで止まる。


 自分でも、何をどう言いたいのか分からない。

 正しい。

 でも苦しい。

 納得できる。

 でも納得したくない。

 そういうぐちゃぐちゃしたものが喉の奥で絡まっている。


 澪さんは急かさなかった。


 相づちも打たない。

 ただ、待っている。


 その待ち方が妙にやさしくて、だからこそ、ぽつりと本音が落ちた。


「僕、そんなにひどいことしてたのかなって」


 澪さんの表情は変わらない。

 驚きもしないし、すぐに否定もしない。


「今日、誰かに何か言われた?」


 その聞き方が、責めるでも掘り返すでもなく、ただ順番を整えてくれるみたいだった。


「…はい」


「女の子?」


「はい」


「傷ついてた?」


 その一言で、佐伯さんの顔が思い出される。

 目を丸くして、声が少しだけかすれて、それでも怒らずに「勘違いします」と言ったあの顔。


「…たぶん」


 澪さんは小さく頷いた。


「そっか」


 それだけ。

 それだけなのに、なぜだか胸の奥の変な力が少しほどけた。


 責められないと、逆にこっちが勝手に罪悪感を増やすこともある。

 でも澪さんの“そっか”はそうじゃなかった。

 ただ、今ここにある事実だけを受け取る音だった。


「東條くん」


「…はい」


「まず、疲れたよね」


 その言葉で、僕は一瞬だけ言葉を失った。


 疲れた。

 たぶん、その通りだ。


 罪悪感とか反省とか、そういう立派な言葉の前に、今日の僕はまず単純に疲れていた。

 朝から何度も人の感情に触れて、何度も自分の軽さを突きつけられて、どうするのが正しいのか分からないまま選ばされて、断って、傷つけて。


「…はい」


 返事が少し遅れた。


 澪さんはやっぱり何も責めない。


「疲れてるときって、ちゃんと考えようとしても無理なんだよ」


「でも…」


「うん」


「僕、ちゃんと考えなきゃだめだと思います」


「そうかもね」


 その返し方が意外だった。

 もっと「無理しなくていいよ」みたいに言われるのかと思っていた。


 澪さんはカップの縁に指を添えたまま、少しだけ視線を落とす。


「でも、“今すぐ全部整理しなきゃ”って思うと、余計にしんどくなる」


「……」


「だから今日は、“ちゃんと考える日”じゃなくて、“少し休んでから考える日”でもいいんじゃないかなって」


 その言い方は、甘い。

 はっきりと甘い。


 前の僕なら、たぶんこういう言葉が大好きだったと思う。

 誰かに選ばれ、気遣われ、責任を少しだけ先送りにしてもらえる感じ。

 その居心地のよさに、簡単に沈めてしまう言葉。


 今だって嫌いじゃない。

 むしろ危ないくらい心地いい。


 僕はマグカップを持つ手に少しだけ力を入れた。


「澪さんは…僕のこと、悪いと思わないんですか」


 聞いてから、変な質問だと思った。

 でも、口から出てしまったものは仕方ない。


 澪さんは少しだけ考える。


「悪い、って言葉で片づけるほど簡単じゃないと思う」


「簡単じゃない?」


「うん。東條くん、たぶんわざと人を傷つけようとしてるわけじゃないでしょう」


「それは…」


「でも、結果として傷つけたなら、それは消えない」


 やさしい声で、ちゃんと痛いことを言う。

 そのバランスがずるい。


「だから、悪くないとは言わないよ」


「……」


「でも、全部が全部、東條くんだけのせいでもない」


 僕は少しだけ顔を上げた。


「この世界って、男の子の態度に意味を持たせすぎるから」


 その言葉は、ひとえとは少し違う方向から、でも同じ現実に触れていた。


「優しくされたら期待するし、笑ってくれたら特別だと思うし、少し距離が近いだけで勘違いもしやすい」


「…そうですね」


「うん。おかしいよね」


 さらっと言われる。


「でも、今はそういう世界」


 ひとえと同じ答えなのに、澪さんの口から出ると少しだけ温度が違った。

 正しいから従え、ではない。

 苦しいけど今はここにいるよね、という前提がある。


「東條くんは、最初から全部分かってたわけじゃないでしょ」


「…はい」


「だったら今は、“分からなかった自分”までまとめて責めなくていいよ」


 その言葉で、胸の奥が妙に熱くなる。


 責めるな、と言われると逆に泣きそうになるのは、たぶんずるい。

 僕は泣かないけど、代わりに目を伏せる。


「僕、たぶん…」


 そこで言葉が止まる。


「うん」


「求められるの、嬉しかったです」


 やっと出た本音だった。


 澪さんは何も驚かなかった。


「そうだよね」


 それだけだった。


 否定もしない。

 引きもしない。


「前は、そんなことなかったから」


「うん」


「だから、ちょっと優しくしただけで喜ばれるのも、連絡が来るのも、待たれるのも…」


 そこまで言って、急に惨めな気持ちになる。

 まるで僕が、ただ安っぽい快感に釣られていただけみたいで。


 でも実際、たぶんそうなのだ。


「嬉しかったんです」


 もう一度、少し小さい声で言う。


 澪さんはカップを置いて、小さく頷いた。


「嬉しかったこと自体は、悪くないよ」


「でも」


「でも、その嬉しさに寄りかかったまま誰かを曖昧にしたなら、そこは考えなきゃだよね」


 また、やさしい声で痛いことを言う。


 それが妙に効く。


「…ずるいです」


 思わずそう言うと、澪さんは少しだけ目を丸くした。


「私が?」


「はい」


「どうして?」


「やさしいこと言うのに、逃がしてくれないから」


 自分で言ってから、子どもっぽいなと思った。

 でも、澪さんは小さく笑っただけだった。


「逃がすために呼んだわけじゃないもん」


「じゃあ何のためですか」


「東條くんが、一回ちゃんと息をつけるように」


 その答え方は、やっぱりずるい。


 息をつく。

 それだけなら、責任から逃げるわけじゃない。

 でも、今の僕にはそれがものすごく魅力的に見える。


 ここにいれば、少なくとも今この瞬間だけは、誰かの期待も視線も、少し遠くできる。


「ねえ」


 澪さんが静かに言う。


「今日は、このまま少し休んでいく?」


 僕は反射的に顔を上げる。


「…いいんですか」


「いいよ」


「でも、帰り」


「少しくらい遅くなっても、今日は誰も怒らないでしょ」


 まあ、それはそうかもしれない。


 今日一日、ずっと何かを選ばされてきた。

 正しく返すか。

 断るか。

 曖昧にしないか。

 そのたびに少しずつ削られてきた。


 だから、この“少し休んでいく?”という言葉は、危ないくらい甘かった。


 分かっている。

 こういう場所に慣れたら、きっと楽になりすぎる。

 楽になりすぎると、自分で立つ力をどこかに預けてしまいそうで怖い。


 でも今は、その怖さより先に、救われる感じの方が強かった。


「…少しだけ」


 気づけば、そう返していた。


 澪さんは、うん、と頷く。


「じゃあ、今日は何もしない時間にしようか」


「何もしない時間」


「そう。答えも出さないし、反省会もしないし、誰かのことも決めない時間」


 その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけほどける。


 危ない。

 でも、助かる。

 その両方を同時に感じながら、僕はソファの背に少しだけ体を預けた。


 窓の外では、夕方の光がゆっくりと傾いていく。

 静かな部屋。

 温かい飲み物。

 責めない声。


 ここはたぶん、僕みたいな人間が簡単に沈んでしまえる場所だ。


 そう分かるのに、今はその沈みやすさが、どうしようもなくありがたかった。


 澪さんはそれ以上何も言わなかった。

 僕も、もう何も言わなかった。


 ただ、今日一日ずっと張りつめていたものが、少しずつ緩んでいくのを感じていた。


 そしてその感覚に、どこかで薄く怯えている自分にも、ちゃんと気づいていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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引き続きよろしくお願いいたします。

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