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貞操逆転世界で、僕は希少な男子らしい  作者: きなこもち
第1章

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「選ばれたと思う女の子たち」

 


 午後の授業は、驚くほど頭に入ってこなかった。


 黒板に書かれる数式も、教科書の活字も、目では追っている。

 ノートだって一応取っている。

 けれど、そのどれもが薄い膜を一枚挟んだ向こう側にあるみたいで、指先に実感が乗らない。


 《誰にでも優しくしようとするのは、たぶん凪くんが一番楽なだけ》


 ひよりの言葉が、何度も同じ場所に戻ってくる。

 まるで爪で小さく引っかかれたみたいに、そこだけずっと意識に触れていた。


 楽だったのは否定できない。


 前の世界では、誰にも選ばれなかった。

 好意を向けられることも、求められることも、たぶん人並みより少なかった。

 だから、今のこの世界で、少し笑うだけで誰かが嬉しそうにしてくれることが、どうしようもなく甘かった。


 優しいって言われるのも。

 特別な目で見られるのも。

 名前を呼ばれるだけで相手の頬が赤くなるのも。


 全部、前の僕が欲しがっていたものだった。


 その快感に寄りかかっていたくせに、

 責任だけは引き受けない。


 そう言い換えられてしまうと、さすがに苦い。


「東條、次」


 先生の声で、はっとする。

 いつの間にか問題が進んでいて、僕は慌てて立ち上がった。


「…えっと」


 教科書を追う。

 視界の端で、何人かがこちらを見ているのが分かる。


 前なら、この程度の視線はもう慣れたものだった。

 むしろ少し気分がよかったくらいだ。

 でも今は、その一つ一つに意味がついている気がして落ち着かない。


 なんとか答え終えて席に座る。

 正解だったらしく、先生はそのまま授業を続けた。

 小さく息を吐いた僕の耳に、どこかからかすかな声が届く。


「…やっぱ格好いいよね」

「でも、ちょっと近寄りづらくなったかも」


 聞こえないふりをする。

 それしかできない。


 近寄りづらい。

 その言葉に、妙な引っかかりが残った。


 今までの僕は、近寄りやすかったんだろうか。

 いや、たぶん“近寄りやすいように見せていた”の方が近い。


 少しだけ特別っぽくして、

 少しだけ距離を近づけて、

 でも本当に踏み込ませる前に曖昧に笑って逃げる。


 それを何度も繰り返してきた。


 今になってようやく、そのやり方がどれだけ都合のいいものだったかが分かる。


 ◇


 放課後、教室の空気はまた別の意味でざわついていた。


 部活へ向かう生徒、帰る準備をする生徒、誰かを待つようにゆっくり鞄を整える生徒。

 そのどれもが普通の放課後のはずなのに、僕の周りだけはいつも少し温度が違う。


 今日はどこかへ寄るつもりもなく、素直に帰るつもりだった。

 朝からいろいろありすぎて、さすがに疲れている。


 鞄に教科書を詰め込みながら、早くこの空気から抜けたいなと考えていたときだった。


「東條くん」


 呼ばれて顔を上げる。

 朝助けた佐伯さんだった。


 教室の入口近くに立っている。

 一組のはずだから、本来ここに来る用事はそんなにないはずだ。

 その不自然さが、逆に彼女の緊張を目立たせていた。


 昼休みにも一度お礼を受け取ったばかりだ。

 正直、これ以上は少しまずい気がする。


 そう思った瞬間、周囲の空気がまた変わるのが分かった。


 別に誰も露骨には見ない。

 でも見ている。

 たぶんひよりも。

 他の女子たちも。


「…何?」


 つい、昼より少しだけ短い言い方になる。

 佐伯さんはその変化に気づいたようで、ほんの一瞬だけまばたきをした。


「あの、少しだけ…話せませんか」


 放課後の教室で、それを言う。

 重い。

 たぶん、すごく重い。


 今の僕にはそれが分かる。

 分かるようになってしまった。


 だからこそ、返事が難しい。


「ここじゃだめ?」


 なるべく自然に言ったつもりだったけれど、佐伯さんの顔は少し曇った。


「…少しだけでいいので」


 その言い方が、また逃げ道を狭くする。


 ここで強く断れば、たぶん彼女は傷つく。

 でも応じれば、それはそれで別の意味が生まれる。


 どっちを選んでも何かが残る。


(面倒だな)


 頭の片隅で、そんな言葉が浮かぶ。

 その瞬間、自分で少しだけ嫌になる。


 面倒なのは分かる。

 でも、たぶんその“面倒”を作ってきたのは僕だ。


「…少しだけなら」


 結局そう返していた。


 まただ。

 また“完全には切らない”方を選んでしまった。


 佐伯さんの顔が、ほっとしたようにゆるむ。

 それを見た瞬間、僕の胸の奥は軽くなるどころか、逆に少し重くなった。


 廊下に出る。

 放課後の廊下は、昼間よりも声が響く。

 部活へ向かう足音、笑い声、窓から入る風の音。

 その中を、佐伯さんと並んで歩く。


 近すぎる距離ではない。

 でも、二人きりで歩いているという事実だけで、十分意味がついてしまう気がした。


「…ごめんなさい」


 先に口を開いたのは、佐伯さんの方だった。


「急に何回も来ちゃって」


「いや…」


「でも、ちゃんとお礼言いたくて」


 昼にも聞いた言葉だ。

 たぶん彼女の中では、まだ終わっていないのだろう。


 角を曲がった先、人通りの少ない踊り場の近くで、佐伯さんは立ち止まった。

 僕も仕方なく足を止める。


「今朝、本当に嬉しかったんです」


 真っ直ぐな声だった。


「私、ああいうふうに助けてもらったの、初めてで」


「…うん」


「しかも、東條くんが、あんなふうに」


 言葉が続かなくなって、彼女は少しだけ視線を伏せた。

 頬が赤い。

 指先も落ち着かない。


 ここで、ようやくはっきり分かった。

 これはもう、ただの感謝の延長じゃない。


 この子は今、自分の中で生まれかけた何かを、僕に手渡そうとしている。


 受け取れば、きっと彼女は前に進む。

 拒めば、傷つく。

 曖昧に返せば、もっとひどいことになる。


 どれも、前の僕ならちゃんと考えなかった。

 たぶん適当に笑って、「そんな大したことじゃないよ」

 とか、「また困ってたら助けるよ」とか、そういう一番だめなことを言っていた。


 でも今は、それがだめだと知っている。


 知ってしまった。


「東條くん」


 佐伯さんが、意を決したように顔を上げる。


「私――」


「ごめん」


 今度は、自分でも驚くくらい早く言葉が出た。


 佐伯さんの目が大きく開く。


 僕は喉の奥に張りつく何かを無理やり押しのけるみたいに、続けた。


「今朝のことは、本当にただ助けただけなんだ」


 自分でもひどい言い方だと思った。

 でも、変に優しく言い換えたらまた逃げになる。


「佐伯さんに期待させるつもりはなかったし、今もそのつもりはない」


 廊下の向こうで誰かの声がする。

 それが遠く感じるくらい、この場だけ空気が薄かった。


 佐伯さんはすぐには何も言わなかった。


 頬の赤みが、ゆっくりと別の色に変わっていく。

 恥ずかしさと、傷ついた顔の境目みたいな表情だった。


「…そっか」


 小さな声。


「ごめんなさい。変なふうに…」


「いや、謝らなくていい」


 それも、たぶん余計だった。

 僕はもう、自分が何を足せば正しくて、何を足せば余計なのか分からなくなってきていた。


 佐伯さんは一度だけうなずくと、僕を見ないまま言った。


「でも、あんなふうにされたら…勘違いします」


 その言葉が、胸の真ん中にまっすぐ刺さる。


 責めているわけじゃない。

 怒っているわけでもない。

 ただ事実を言っているだけなのに、その方がずっと痛かった。


「…うん」


 今度こそ、それしか返せなかった。


 佐伯さんはそれ以上何も言わず、軽く頭を下げて去っていった。


 その背中を、僕は追えない。

 追ったところで、今さら何も言えない。

 言えばまた変な意味になる気がした。


 一人になった踊り場で、しばらくそのまま立ち尽くす。


 風が吹く。

 窓の隙間が小さく鳴る。


 勘違いします。


 たったそれだけの言葉が、頭の中で何度も反響した。


 僕は、自分が思っていたよりずっと無責任だったのかもしれない。

 優しいつもりで、

 誰も傷つけないつもりで、

 ただ感じよくしていただけのつもりで。


 でも、それは“つもり”でしかなかった。


 この世界では、男の態度に意味がつく。

 しかも僕は、その意味が強くなりやすい立場にいる。

 そこに前の世界の感覚のまま、軽い言葉や軽い距離感を持ち込めば、当然、誰かは勘違いする。


 むしろ、しない方が難しい。


 そこまで考えて、ようやく膝から少し力が抜けた。

 近くの窓枠に手をつく。


「…最悪だ」


 誰もいない廊下に、小さく漏れる。


 佐伯さんを傷つけたこともそうだ。

 でもそれ以上に、ひよりや鷹宮さんに言われるまで、ここまではっきり考えたことがなかった自分が嫌だった。


 求められるのが嬉しかった。

 選ばれるのが気持ちよかった。

 前の世界で得られなかったものを、今の僕はたしかに楽しんでいた。


 その快感の上で、誰かの気持ちを曖昧に扱ってきた。


 認めたくない。

 でも、もう認めるしかない。


「…凪くん」


 声がして、顔を上げる。


 ひよりだった。

 踊り場の入口に立っている。

 追いかけてきたのだろうか。

 でも、近づきすぎない距離で止まっているあたりが、ひよりらしい。


「見てたの?」


「途中から」


 正直だ。


「…最悪なとこ見せた」


「うん、まあ、ちょっと」


 容赦がない。

 でも、その容赦のなさに救われるところもある。


 僕は窓枠から手を離して、壁にもたれた。

 今の顔をあまり見られたくなかった。


「ちゃんと断ったのは偉いと思う」


 ひよりが言う。


「でも」


「でも、だろうね」


「うん。でも」


 ひよりは少しだけ言いづらそうにしてから続けた。


「今日だけの話じゃないんだよね、たぶん」


 僕は何も言わない。


 否定できないからだ。


「前から、ああいうこと何回もあったんでしょ」


「……」


「答えなくていいけど」


 そこまで言ってから、ひよりは小さく息を吐いた。


「たぶん凪くん、今やっと“ちゃんと傷つく方”に入ったんだと思う」


 その言葉が、妙に耳に残った。


 ちゃんと傷つく方。


 つまり今までの僕は、傷つける側にいても、それをちゃんと自分に返していなかったということだろう。


 僕は目を伏せる。


「ひよりさん」


「なに」


「僕、やっぱり軽いかな」


 聞いた瞬間、自分で情けなくなった。

 そんなの、もう答えは出ているようなものだ。


 でも、ひよりは笑わなかった。


「軽いっていうか」


「うん」


「軽くしてたんだと思う」


 その言い方が、妙に正確だった。


「本気にならないように」


「……」


「相手にも、自分にも」


 その一言で、言い返す言葉が全部消えた。


 本気にならないように。

 それはまさに、前の世界からずっと僕がやってきたことだったのかもしれない。


 選ばれないのが怖い。

 本気になって報われないのが怖い。

 だから最初から曖昧なところに立って、

 自分も相手も、決定的には選ばないまま保っていた。


 でもこの世界では、その曖昧さそのものが、人を深く傷つける。


「…帰ろ」


 ひよりが、少しだけ声をやわらげて言った。


「今日はたぶん、これ以上考えてもぐちゃぐちゃになるだけ」


「うん…」


 返事をしながらも、気持ちは全然整わない。

 でも、ここに立ち続けていても何も変わらないのは分かる。


 僕は鞄を持ち直して、ひよりと並ぶでもなく、少しだけずらした距離で歩き出した。


 校舎を出るころには、空はもう少しだけ夕方の色に寄っていた。

 春の風がひんやりしていて、昼間よりもずっと現実的に感じる。


 門を出たところで、ひよりが立ち止まる。


「じゃあ、私こっちだから」


「うん」


「…凪くん」


「なに」


「次からは、もっと早く断ってね」


 その言い方は、責めるというより、念を押す感じに近かった。


「たぶんそれ、相手のためでもあるけど」


 一拍置いてから、ひよりは続ける。


「凪くん自身のためでもあるから」


 そう言って、ひよりは小さく手を振って去っていく。


 僕はその後ろ姿を、少しのあいだ見送っていた。


 相手のためでもある。

 自分のためでもある。


 その両方がきっと本当なんだろう。


 でも、自分のために切ることと、相手を傷つけることがこんなに近いなら、

 これから先、僕は何をどう選べばいいんだろう。


 答えのないまま、駅までの道を一人で歩く。


 通りすがりの女子高生たちが、ちらりとこちらを見る。

 少し前までなら、その視線をどこかで歓迎していた。

 でも今は、ただ面倒だった。


 面倒で、重くて、少しだけ怖い。


 なのに。


 胸の奥のどこかでは、まだほんの少しだけ、求められることを惜しんでいる自分もいる。


 それが、一番嫌だった。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

もし作品を気に入っていただけましたら、

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また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。

引き続きよろしくお願いいたします。

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