「選ばれたと思う女の子たち」
午後の授業は、驚くほど頭に入ってこなかった。
黒板に書かれる数式も、教科書の活字も、目では追っている。
ノートだって一応取っている。
けれど、そのどれもが薄い膜を一枚挟んだ向こう側にあるみたいで、指先に実感が乗らない。
《誰にでも優しくしようとするのは、たぶん凪くんが一番楽なだけ》
ひよりの言葉が、何度も同じ場所に戻ってくる。
まるで爪で小さく引っかかれたみたいに、そこだけずっと意識に触れていた。
楽だったのは否定できない。
前の世界では、誰にも選ばれなかった。
好意を向けられることも、求められることも、たぶん人並みより少なかった。
だから、今のこの世界で、少し笑うだけで誰かが嬉しそうにしてくれることが、どうしようもなく甘かった。
優しいって言われるのも。
特別な目で見られるのも。
名前を呼ばれるだけで相手の頬が赤くなるのも。
全部、前の僕が欲しがっていたものだった。
その快感に寄りかかっていたくせに、
責任だけは引き受けない。
そう言い換えられてしまうと、さすがに苦い。
「東條、次」
先生の声で、はっとする。
いつの間にか問題が進んでいて、僕は慌てて立ち上がった。
「…えっと」
教科書を追う。
視界の端で、何人かがこちらを見ているのが分かる。
前なら、この程度の視線はもう慣れたものだった。
むしろ少し気分がよかったくらいだ。
でも今は、その一つ一つに意味がついている気がして落ち着かない。
なんとか答え終えて席に座る。
正解だったらしく、先生はそのまま授業を続けた。
小さく息を吐いた僕の耳に、どこかからかすかな声が届く。
「…やっぱ格好いいよね」
「でも、ちょっと近寄りづらくなったかも」
聞こえないふりをする。
それしかできない。
近寄りづらい。
その言葉に、妙な引っかかりが残った。
今までの僕は、近寄りやすかったんだろうか。
いや、たぶん“近寄りやすいように見せていた”の方が近い。
少しだけ特別っぽくして、
少しだけ距離を近づけて、
でも本当に踏み込ませる前に曖昧に笑って逃げる。
それを何度も繰り返してきた。
今になってようやく、そのやり方がどれだけ都合のいいものだったかが分かる。
◇
放課後、教室の空気はまた別の意味でざわついていた。
部活へ向かう生徒、帰る準備をする生徒、誰かを待つようにゆっくり鞄を整える生徒。
そのどれもが普通の放課後のはずなのに、僕の周りだけはいつも少し温度が違う。
今日はどこかへ寄るつもりもなく、素直に帰るつもりだった。
朝からいろいろありすぎて、さすがに疲れている。
鞄に教科書を詰め込みながら、早くこの空気から抜けたいなと考えていたときだった。
「東條くん」
呼ばれて顔を上げる。
朝助けた佐伯さんだった。
教室の入口近くに立っている。
一組のはずだから、本来ここに来る用事はそんなにないはずだ。
その不自然さが、逆に彼女の緊張を目立たせていた。
昼休みにも一度お礼を受け取ったばかりだ。
正直、これ以上は少しまずい気がする。
そう思った瞬間、周囲の空気がまた変わるのが分かった。
別に誰も露骨には見ない。
でも見ている。
たぶんひよりも。
他の女子たちも。
「…何?」
つい、昼より少しだけ短い言い方になる。
佐伯さんはその変化に気づいたようで、ほんの一瞬だけまばたきをした。
「あの、少しだけ…話せませんか」
放課後の教室で、それを言う。
重い。
たぶん、すごく重い。
今の僕にはそれが分かる。
分かるようになってしまった。
だからこそ、返事が難しい。
「ここじゃだめ?」
なるべく自然に言ったつもりだったけれど、佐伯さんの顔は少し曇った。
「…少しだけでいいので」
その言い方が、また逃げ道を狭くする。
ここで強く断れば、たぶん彼女は傷つく。
でも応じれば、それはそれで別の意味が生まれる。
どっちを選んでも何かが残る。
(面倒だな)
頭の片隅で、そんな言葉が浮かぶ。
その瞬間、自分で少しだけ嫌になる。
面倒なのは分かる。
でも、たぶんその“面倒”を作ってきたのは僕だ。
「…少しだけなら」
結局そう返していた。
まただ。
また“完全には切らない”方を選んでしまった。
佐伯さんの顔が、ほっとしたようにゆるむ。
それを見た瞬間、僕の胸の奥は軽くなるどころか、逆に少し重くなった。
廊下に出る。
放課後の廊下は、昼間よりも声が響く。
部活へ向かう足音、笑い声、窓から入る風の音。
その中を、佐伯さんと並んで歩く。
近すぎる距離ではない。
でも、二人きりで歩いているという事実だけで、十分意味がついてしまう気がした。
「…ごめんなさい」
先に口を開いたのは、佐伯さんの方だった。
「急に何回も来ちゃって」
「いや…」
「でも、ちゃんとお礼言いたくて」
昼にも聞いた言葉だ。
たぶん彼女の中では、まだ終わっていないのだろう。
角を曲がった先、人通りの少ない踊り場の近くで、佐伯さんは立ち止まった。
僕も仕方なく足を止める。
「今朝、本当に嬉しかったんです」
真っ直ぐな声だった。
「私、ああいうふうに助けてもらったの、初めてで」
「…うん」
「しかも、東條くんが、あんなふうに」
言葉が続かなくなって、彼女は少しだけ視線を伏せた。
頬が赤い。
指先も落ち着かない。
ここで、ようやくはっきり分かった。
これはもう、ただの感謝の延長じゃない。
この子は今、自分の中で生まれかけた何かを、僕に手渡そうとしている。
受け取れば、きっと彼女は前に進む。
拒めば、傷つく。
曖昧に返せば、もっとひどいことになる。
どれも、前の僕ならちゃんと考えなかった。
たぶん適当に笑って、「そんな大したことじゃないよ」
とか、「また困ってたら助けるよ」とか、そういう一番だめなことを言っていた。
でも今は、それがだめだと知っている。
知ってしまった。
「東條くん」
佐伯さんが、意を決したように顔を上げる。
「私――」
「ごめん」
今度は、自分でも驚くくらい早く言葉が出た。
佐伯さんの目が大きく開く。
僕は喉の奥に張りつく何かを無理やり押しのけるみたいに、続けた。
「今朝のことは、本当にただ助けただけなんだ」
自分でもひどい言い方だと思った。
でも、変に優しく言い換えたらまた逃げになる。
「佐伯さんに期待させるつもりはなかったし、今もそのつもりはない」
廊下の向こうで誰かの声がする。
それが遠く感じるくらい、この場だけ空気が薄かった。
佐伯さんはすぐには何も言わなかった。
頬の赤みが、ゆっくりと別の色に変わっていく。
恥ずかしさと、傷ついた顔の境目みたいな表情だった。
「…そっか」
小さな声。
「ごめんなさい。変なふうに…」
「いや、謝らなくていい」
それも、たぶん余計だった。
僕はもう、自分が何を足せば正しくて、何を足せば余計なのか分からなくなってきていた。
佐伯さんは一度だけうなずくと、僕を見ないまま言った。
「でも、あんなふうにされたら…勘違いします」
その言葉が、胸の真ん中にまっすぐ刺さる。
責めているわけじゃない。
怒っているわけでもない。
ただ事実を言っているだけなのに、その方がずっと痛かった。
「…うん」
今度こそ、それしか返せなかった。
佐伯さんはそれ以上何も言わず、軽く頭を下げて去っていった。
その背中を、僕は追えない。
追ったところで、今さら何も言えない。
言えばまた変な意味になる気がした。
一人になった踊り場で、しばらくそのまま立ち尽くす。
風が吹く。
窓の隙間が小さく鳴る。
勘違いします。
たったそれだけの言葉が、頭の中で何度も反響した。
僕は、自分が思っていたよりずっと無責任だったのかもしれない。
優しいつもりで、
誰も傷つけないつもりで、
ただ感じよくしていただけのつもりで。
でも、それは“つもり”でしかなかった。
この世界では、男の態度に意味がつく。
しかも僕は、その意味が強くなりやすい立場にいる。
そこに前の世界の感覚のまま、軽い言葉や軽い距離感を持ち込めば、当然、誰かは勘違いする。
むしろ、しない方が難しい。
そこまで考えて、ようやく膝から少し力が抜けた。
近くの窓枠に手をつく。
「…最悪だ」
誰もいない廊下に、小さく漏れる。
佐伯さんを傷つけたこともそうだ。
でもそれ以上に、ひよりや鷹宮さんに言われるまで、ここまではっきり考えたことがなかった自分が嫌だった。
求められるのが嬉しかった。
選ばれるのが気持ちよかった。
前の世界で得られなかったものを、今の僕はたしかに楽しんでいた。
その快感の上で、誰かの気持ちを曖昧に扱ってきた。
認めたくない。
でも、もう認めるしかない。
「…凪くん」
声がして、顔を上げる。
ひよりだった。
踊り場の入口に立っている。
追いかけてきたのだろうか。
でも、近づきすぎない距離で止まっているあたりが、ひよりらしい。
「見てたの?」
「途中から」
正直だ。
「…最悪なとこ見せた」
「うん、まあ、ちょっと」
容赦がない。
でも、その容赦のなさに救われるところもある。
僕は窓枠から手を離して、壁にもたれた。
今の顔をあまり見られたくなかった。
「ちゃんと断ったのは偉いと思う」
ひよりが言う。
「でも」
「でも、だろうね」
「うん。でも」
ひよりは少しだけ言いづらそうにしてから続けた。
「今日だけの話じゃないんだよね、たぶん」
僕は何も言わない。
否定できないからだ。
「前から、ああいうこと何回もあったんでしょ」
「……」
「答えなくていいけど」
そこまで言ってから、ひよりは小さく息を吐いた。
「たぶん凪くん、今やっと“ちゃんと傷つく方”に入ったんだと思う」
その言葉が、妙に耳に残った。
ちゃんと傷つく方。
つまり今までの僕は、傷つける側にいても、それをちゃんと自分に返していなかったということだろう。
僕は目を伏せる。
「ひよりさん」
「なに」
「僕、やっぱり軽いかな」
聞いた瞬間、自分で情けなくなった。
そんなの、もう答えは出ているようなものだ。
でも、ひよりは笑わなかった。
「軽いっていうか」
「うん」
「軽くしてたんだと思う」
その言い方が、妙に正確だった。
「本気にならないように」
「……」
「相手にも、自分にも」
その一言で、言い返す言葉が全部消えた。
本気にならないように。
それはまさに、前の世界からずっと僕がやってきたことだったのかもしれない。
選ばれないのが怖い。
本気になって報われないのが怖い。
だから最初から曖昧なところに立って、
自分も相手も、決定的には選ばないまま保っていた。
でもこの世界では、その曖昧さそのものが、人を深く傷つける。
「…帰ろ」
ひよりが、少しだけ声をやわらげて言った。
「今日はたぶん、これ以上考えてもぐちゃぐちゃになるだけ」
「うん…」
返事をしながらも、気持ちは全然整わない。
でも、ここに立ち続けていても何も変わらないのは分かる。
僕は鞄を持ち直して、ひよりと並ぶでもなく、少しだけずらした距離で歩き出した。
校舎を出るころには、空はもう少しだけ夕方の色に寄っていた。
春の風がひんやりしていて、昼間よりもずっと現実的に感じる。
門を出たところで、ひよりが立ち止まる。
「じゃあ、私こっちだから」
「うん」
「…凪くん」
「なに」
「次からは、もっと早く断ってね」
その言い方は、責めるというより、念を押す感じに近かった。
「たぶんそれ、相手のためでもあるけど」
一拍置いてから、ひよりは続ける。
「凪くん自身のためでもあるから」
そう言って、ひよりは小さく手を振って去っていく。
僕はその後ろ姿を、少しのあいだ見送っていた。
相手のためでもある。
自分のためでもある。
その両方がきっと本当なんだろう。
でも、自分のために切ることと、相手を傷つけることがこんなに近いなら、
これから先、僕は何をどう選べばいいんだろう。
答えのないまま、駅までの道を一人で歩く。
通りすがりの女子高生たちが、ちらりとこちらを見る。
少し前までなら、その視線をどこかで歓迎していた。
でも今は、ただ面倒だった。
面倒で、重くて、少しだけ怖い。
なのに。
胸の奥のどこかでは、まだほんの少しだけ、求められることを惜しんでいる自分もいる。
それが、一番嫌だった。
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