「あなたは何も分かってない」
どれくらいそうしていたのか、自分でもよく分からなかった。
窓の外の光は少しずつ傾いて、部屋の中の白い壁に、やわらかい影を落としている。
時計の針はたしかに進んでいるはずなのに、この部屋の中だけ時間の流れが薄くなったみたいだった。
澪さんは途中で一度だけ席を立って、僕のカップにお湯を足してくれた。
それ以外は、本当に何もしない時間だった。
無理に話題を振られることもない。
今日あったことを整理させようとするでもない。
ただ、同じ空間にいて、静かにしている。
それだけなのに、疲れた頭には十分すぎるくらいありがたかった。
「少し、顔色戻ったね」
不意にそう言われて、僕はマグカップから顔を上げた。
「そうですか」
「うん。最初入ってきたとき、もっと切羽詰まってた」
切羽詰まっていた。
言われてみれば、たしかにそうだったのかもしれない。
朝からずっと、誰かに見られて、何かを測られて、何かを決めなければいけない気がしていた。
しかもそのたびに、きれいにやろうとすればするほど、別のところが傷つく。
そういう積み重ねが、顔にまで出ていたのだとしたら、少し恥ずかしい。
「…そんなに分かりやすいですか」
「分かる人には分かるよ」
澪さんはそう言って、やわらかく笑った。
「特に、無理して平気そうな顔をする子は」
それは、たぶん僕のことだ。
返事をしないままでいると、澪さんもそれ以上は言わなかった。
“分かる人には分かる”という言葉だけが、小さく残る。
僕はマグカップの縁を指でなぞりながら、少し迷ってから口を開いた。
「澪さん」
「うん?」
「こういう場所って、みんな来るんですか」
「こういう場所?」
「その…しんどくなったときに」
澪さんは少し考えるように視線を上へ向けた。
「来る子もいるし、来ない子もいるかな」
「来ない子は?」
「たいてい、限界が来るまで我慢する」
さらっと言われたその言葉が、思ったより重かった。
限界。
そんな大げさなものじゃない、と反射的に思いかけて、それを飲み込む。
今日一日の自分を思い返すと、そこまで言い切る自信がなかった。
「東條くんは、我慢する方?」
「…どうでしょう」
「たぶん、する方だと思う」
やわらかい声なのに、そこだけ妙にはっきりしていた。
「我慢してる自覚が出る前に、まず“平気な顔をしよう”ってなるでしょう」
「……」
「違う?」
違わなかった。
だから僕は、少しだけ視線を逸らす。
そうやって見透かされることに慣れていない。
いや、もしかしたら、見透かされること自体は嫌いじゃないのかもしれない。
ただ、その中身が“都合のいい優しさ”じゃなくて、本当に自分の弱いところに触れてくるものだと落ち着かない。
「…みんな、そんなにちゃんと見てるんですね」
「見てる人はね」
澪さんはそこで一度区切ってから、続けた。
「でも、見てるからって全部分かるわけじゃないよ」
「それは…そうですね」
「本人が言わないことまでは、やっぱり外からじゃ届かない」
その言い方には、不思議と責める感じがなかった。
ただ、“だから少しは言ってもいい”と言われているように聞こえる。
でも、何をどこまで言えばいいのかは、やっぱりまだ分からない。
僕が黙っていると、澪さんがふと机の上の端末に視線をやった。
ほんの一瞬だけだったけれど、そのあとで言った言葉に少しだけ仕事の顔が混ざった。
「今日はこのあと、もう一人と顔合わせがあるかもしれない」
「え?」
「心配しなくていいよ。面談ってほどじゃないから」
それでも、胸の奥に小さな緊張が戻ってくる。
「誰ですか」
「比良坂しずくちゃん」
その名前に、わずかに聞き覚えが引っかかった。
「…どこかで聞いたような」
「聞いてると思うよ。学園内の相談補助と、保護局の連携側にも顔を出してる子だから」
相談補助、という言葉のわりに“子”と言われるのが少し不思議だった。
先生ではないのかもしれない。
僕がそんなことを考えていると、ちょうどタイミングを見計らったみたいに、ドアが二回、軽くノックされた。
「どうぞ」
澪さんの声。
ドアが開く。
入ってきたのは、制服姿の女子だった。
同じ学園の生徒。
学年も、たぶん僕とそう変わらない。
長い黒髪を低い位置でまとめていて、目元は涼しく、全体に無駄のない印象を受ける。
第一印象としては、静かな人だと思った。
でもその静けさは、澪さんの柔らかさとは違う。
もっと輪郭が細く、よく断れる刃物みたいな静けさだった。
「失礼します」
声も低めで、抑えられている。
ドアを閉める動作まできれいだった。
「しずくちゃん、お疲れさま」
「お疲れさまです、九条さん」
澪さんと――比良坂しずくは、慣れたやり取りを交わす。
そのあと、しずくはようやく僕の方を見た。
じっと、というほど長くない。
でも、短い視線の中に、かなりいろいろ見られた気がした。
「東條くん?」
「…はい」
「比良坂しずくです」
僕は少し遅れて「東條凪です」と返す。
しずくは小さく頷いた。
それで自己紹介は終わりらしい。
しばらくの沈黙。
澪さんが、場を和らげるように言う。
「しずくちゃん、東條くん今日ちょっと疲れてるから」
「見れば分かります」
即答だった。
僕は思わずそちらを見る。
しずくは、特に嫌味でも何でもない顔で立っている。
ただ事実を言っただけ、という感じだった。
そこが逆にやりにくい。
「…そんなにですか」
「はい」
また即答。
「朝から接触過多。期待誘発。切断失敗。補正対応でさらに消耗。顔色もよくない」
並べ方が、妙に機械的だった。
接触過多。
期待誘発。
切断失敗。
言葉が全部、僕がやってきたことを無駄にきれいに整理していて、ちょっと腹が立つ。
「…人のこと、勝手に分析しないでほしいんですけど」
思わずそう言うと、しずくはまばたき一つしなかった。
「勝手に動いた結果、周囲に影響を出しているのはそっちです」
さらっと返されて、言葉に詰まる。
澪さんが小さく苦笑した。
「しずくちゃん、いきなりそれはちょっときついよ」
「事実です」
「うん、事実だけど」
その会話を聞きながら、僕はほんの少しだけ理解する。
この人は、たぶん最初からやさしく包むタイプじゃない。
最初に突き放す。整理する。曖昧にしない。
そういう人だ。
そして、今の僕にとっては、その“曖昧にしない”が一番痛い。
しずくは僕の向かいではなく、少し離れた位置の椅子に腰を下ろした。
座り方まできっちりしている。
「九条さんから、今日の経緯はある程度聞いています」
「ある程度、って」
「細部までは興味ないです」
そこまで言われると、逆に清々しい。
「ただ」
しずくはわずかに首を傾けた。
「東條くん、自分が思ってる以上に、かなり危ない位置にいますよ」
今日だけで似たようなことを何度聞いただろう。
ひとえにも言われた。
ひよりにも似たようなことを言われた。
でも、しずくの口から出ると、また別の角度から刺さる。
「…みんな、同じこと言うんですね」
「同じものを見てるからでしょう」
「でも、僕は別に」
「わざとじゃない?」
被せるみたいに言われて、言葉が止まる。
しずくは感情のない顔で続ける。
「それも知ってます。悪意じゃない。計算しきってもいない。たぶん、半分くらい無自覚」
「半分って」
「残り半分は分かってるでしょう」
その言い方が、やけに正確だった。
僕は反射的に否定したくなる。
でも、今日一日の出来事を思い返すと、きっぱり否定するのは難しい。
少し笑えば喜ばれることも。
曖昧に残せば相手が期待することも。
断らない方がその場は楽に済むことも。
全部、知らなかったとは言えない。
しずくは膝の上に指を組んだまま、淡々と言う。
「東條くんは、自分が“求められると嬉しい”ってところまでは認めた方がいいです」
横で澪さんが、ほんの少しだけ僕の方を見た。
さっき、僕がようやく口にしたことだ。
それを他人の口から、こんなにまっすぐ言われると、また別の恥ずかしさがある。
「…認めたら、何か変わるんですか」
「変わります」
即答だった。
「少なくとも、“優しかっただけ”って言い訳は減る」
胸の奥が、ずきっと痛む。
それは、今日ずっといちばん触れたくなかったところだ。
僕は優しいつもりでいたかった。
優しいからこうなったんだと思っていたかった。
でも、その下に別のものが混ざっていたなら、話はかなり違ってくる。
「…言い方、きついですね」
「やわらかくすると、たぶん伝わらないので」
しずくはそう言ってから、ほんの少しだけ視線をずらした。
「それに、九条さんがやわらかい役をやってくれてるから十分です」
澪さんが苦笑する。
「役って言い方」
「事実でしょう」
その短いやり取りに、少しだけ空気がほぐれた。
でも、それも一瞬だけだった。
しずくはすぐに僕へ視線を戻す。
「東條くん」
「…はい」
「今のままだと、たぶん近いうちにもっと大きいことになります」
大きいこと。
その言葉に、体のどこかが小さく強張る。
「誰かが本気になるとか」
「もうなってるでしょう」
「……」
「複数人が競合になるとか」
それも、たぶんもう始まっている。
昼の教室の空気を思い出すだけで分かる。
「もしくは、あなた自身が断れなくなるとか」
その言葉だけ、少し違う重さで残った。
自分が断れなくなる。
それはたぶん、誰かに好かれることを楽しんでいる今の僕にとって、一番現実的で、一番厄介な未来だ。
しずくは、僕が黙ったのを見て続ける。
「だから、今のうちに自分がどういう人間か把握しておいた方がいい」
「どういう人間、って」
「誰かにとって都合のいい優しさを配って、その場の好意を受け取って、でも本気の責任は持ちたくない人」
あまりにも容赦がなくて、一瞬本気で立ち上がりたくなった。
「そこまで言います?」
「はい」
「初対面ですよね」
「そうですね」
「それでそんなふうに」
「初対面だからです」
今度は、ほんの少しだけしずくの声に温度が乗った。
怒りではない。
でも、冷たい無機質さだけではない、何か。
「私、東條くんに好かれたいわけでも、嫌われたくないわけでもないので」
その言い方に、なぜだか言葉が詰まる。
好かれたいわけでもない。
嫌われたくないわけでもない。
つまりこの人は、僕に“気に入られる”ための言葉を一切選んでいない。
それがかえって、変な説得力を持っていた。
僕は視線を落とす。
疲れていた。
でも、逃げたいだけでもなかった。
たぶん今の僕は、痛いことを言われる必要もあると、どこかで分かっている。
分かっているから、余計にしんどい。
しばらく沈黙が落ちたあと、澪さんがやわらかく言った。
「しずくちゃん」
「はい」
「今日はそこまででいいんじゃないかな」
しずくは少しだけ考えるように黙った。
それから、静かに頷く。
「そうですね。今日はもう十分削れてます」
「削れてるって言い方やめて」
「事実です」
また同じやり取り。
でも今度は、さっきより少しだけ肩の力が抜けて聞こえた。
僕は息を吐く。
今日一日で、自分がいろんな人に違う角度から見られていることを嫌というほど知った。
ひとえは制度の目で。
ひよりは近くにいる人の目で。
澪さんは休ませる側の目で。
しずくは、たぶん一番容赦のない観察者の目で。
どれも少しずつ違って、でも言っていることの中心は同じだった。
僕は、自分が思っていたほど無害じゃない。
その事実だけが、ゆっくりと重く沈んでいく。
「…帰ります」
気づけば、そう言っていた。
澪さんが少しだけ目を細める。
「大丈夫?」
「大丈夫、ではないですけど」
言ってから、小さく苦笑する。
今日は何度も“大丈夫”の意味が薄れていく一日だった。
「でも、帰った方がいい気がします」
「そっか」
澪さんは立ち上がる。
「じゃあ、今日はここまでにしようか」
しずくも席を立った。
最後まで余計な慰めはない。
でも、追い詰めるだけでもない距離で止まっている。
僕は鞄を持ち上げて、ドアの方へ向かう。
そこで、しずくが後ろから言った。
「東條くん」
振り返る。
「次に誰かに優しくするときは、少し考えた方がいいです」
「…はい」
「本当に渡したいものなのか」
「それとも、自分が受け取りたいものなのか」
その一言は、今日いちばん静かで、いちばん深く刺さった。
僕は返事ができないまま、軽く頭を下げて部屋を出た。
廊下の空気は、部屋の中より少し冷たい。
でも、その冷たさの方が今はちょうどよかった。
階段を下りながら、何度も頭の中で同じ言葉が回る。
本当に渡したいものなのか。
それとも、自分が受け取りたいものなのか。
優しさ。
好意。
特別扱い。
承認。
その全部が、今日一日の中でぐちゃぐちゃに混ざっていた。
少なくとも今、はっきりしていることが一つだけある。
僕はまだ、自分のことをちゃんと分かっていない。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!!
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