「善意という名の地雷」
教室の扉を開けた瞬間、空気がほんの少しだけ揺れた。
静まり返る、というほどじゃない。
誰かが大げさに息を呑むわけでもない。
でも、さっきまでそれぞれ勝手に動いていた視線が、一度だけ僕に集まって、それからまた散っていく。
その“集まり方”が、朝までとは少し違っていた。
前なら、もっと柔らかかった。
気になる、見たい、話したい――そんな温度の視線だった。
今はそこに、もう一つ混ざっている。
測るような目。
確かめるような目。
そして、少しだけ遠慮した目。
(…最悪だな)
鷹宮ひとえとの会話が、まだ頭の中に残っているせいかもしれない。
さっきまでなら気持ちよく受け止めていた視線が、今はどれも重たく感じた。
自分の席へ向かう。
その途中で、何人かの女子と目が合った。
目が合うと、向こうは少しだけ嬉しそうな顔をする。
けれど、前みたいにすぐ話しかけてはこない。
――あなたは、自分で思っているよりずっと“普通”ではありません。
やめてほしい。
あの言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
普通じゃないから見られる。
普通じゃないから意味がつく。
普通じゃないから、ただ助けるだけで選んだことになる。
そんなの、やっぱりおかしい。
「凪くん」
席に着いたところで、斜め前から声がした。
水無月ひよりが、机に肘をつくみたいに少しだけ身を乗り出している。
「…なに」
「さっき、鷹宮さんに呼ばれてたよね」
「見てたんだ」
「見えるでしょ、普通に」
ひよりはそう言ってから、少しだけ声を落とした。
「怒られた?」
その聞き方に、僕は少しだけ苦笑する。
「怒られたっていうか…説教、かな」
「そっか」
ひよりは頷いた。
でも、それで終わらない顔をしている。
「何て言われたの?」
「…僕が危ないって」
「うわ」
「その“うわ”は何」
「いや、まあ…言われそうだなって思って」
言い方は軽いのに、ひよりの目は少し真剣だった。
僕は椅子の背に少しだけもたれながら、天井の方を見る。
言う必要はない気もした。
でも、今のまま一人で飲み込むには、少し重い。
「助けたのがよくなかったらしい」
「朝の?」
「うん」
「…助けただけじゃん」
「だよね」
少しだけ声が明るくなりそうになる。
やっぱりそう思うよな、と。
けれど、ひよりはすぐに続けた。
「でも、まあ…分からなくもないかも」
その一言で、浮きかけた気分が止まった。
「どっちなんだよ」
「どっちもだよ」
ひよりは肩をすくめる。
「助けること自体は悪くないよ。むしろ普通ならいいことだし」
「普通なら?」
「この世界だと、その“普通”がちょっと重いっていうか」
そこで言葉を探すように視線を泳がせてから、ぽつりと言う。
「凪くんって、何気ないことを何気なくやりすぎるんだよね」
「…意味分かんない」
「分かるよ」
ひよりは小さく笑った。
でも、その笑い方には少しだけ困った色が混じっていた。
「たとえば、凪くんが今、誰か一人にだけ優しかったら、まだ分かりやすいんだよ」
「優しいのに、一人にだけって」
「そう。変でしょ?」
「変だろ」
「でも、この世界ってそういう変なところあるから」
ひよりはそう言って、自分の指先を見つめた。
「誰にでも優しいと、“誰かに特別”って期待しやすいんだよ」
その言葉に、また少し胸が重くなる。
鷹宮さんにも似たようなことを言われた。
しずくにも、たぶんそういうことを言われる気がする。
でも、納得と反発が半分ずつだ。
「…僕、別に誰にも付き合うとか言ってないけど」
「うん」
「だったら、相手が勝手に」
「そこなんだよ」
ひよりが僕の言葉をやわらかく遮る。
責める口調じゃない。
でも逃がしてもくれない。
「凪くんさ、“勝手に”って思ってるでしょ」
心臓が一回、強く鳴る。
図星だった。
僕は視線を逸らしそうになって、でもひよりの前でそれをやるのは負けた感じがして、ぎりぎりで踏みとどまる。
「…だって、そういう部分もあるじゃん」
「あるよ」
意外なほどすぐに肯定された。
「ある。全然ある。勘違いする方が悪いときも、たぶんある」
「ほら」
「でも、凪くんはそれを止めないでしょ」
今度こそ、何も返せなかった。
ひよりは、僕をまっすぐ見ている。
怒っているわけじゃない。
軽蔑しているわけでもない。
ただ、ちゃんと見て言っている目だった。
「やめろって言ってるわけじゃないんだよ」
ひよりが続ける。
「ただ、凪くんって、少し笑えば相手が喜ぶの知ってるじゃん」
「……」
「知ってるのに、やるでしょ」
喉が少しひりつく。
そうだ。
知っている。
前の世界では、そんなことで相手が顔を赤くすることなんてなかった。
でも今の世界では違う。
目を見て話すだけで。
名前を呼ぶだけで。
少し柔らかい言葉を返すだけで。
相手の表情が変わる。
僕はそれを、たぶん知っていて使っていた。
「…そんなに、ひどい?」
自分でも情けないと思うくらい、小さい声が出た。
ひよりは少しだけ考えてから、正直に言う。
「今のところは、ぎりぎり」
「ぎりぎりって」
「でも、そのうち誰か泣くかも」
その言い方が妙に現実的で、変に胸に残った。
誰か泣く。
そんなこと、たぶん前の世界でもあったんだろう。
ただ、僕はそこまで行くほど誰かに求められたことがなかっただけで。
「…ひよりさんは」
「うん?」
「僕のこと、軽いと思ってる?」
聞いてから、なんでこんなことを聞いたのか自分でも分からなくなった。
でも、ひよりは笑わなかった。
少しだけ黙って、それから答える。
「思ってるよ」
はっきりした返事だった。
胸の奥が、ちくりと痛む。
「でも」
ひよりは続けた。
「軽いままでいたい人だとは思ってない」
その一言に、今度は違う意味で言葉が止まる。
「…それ、どういう」
「凪くんってさ」
ひよりは視線を少し窓の方へやった。
昼の光が横顔に当たって、思ったより真面目な顔をしているのがよく見える。
「求められるの、たぶん好きでしょ」
「っ…」
「いや、責めてるんじゃなくて」
慌てて付け足す。
「そりゃ好きになると思うよ。こんな世界だし」
そこでひよりは少しだけ笑った。
苦笑に近い笑い方だった。
「でも、好きだからって、ずっとそのままでいられるタイプじゃなさそう」
その言葉が、なぜだか鷹宮さんの警告よりも深く刺さった。
僕は、求められるのが好きだ。
認められるのが好きだ。
選ばれるのが好きだ。
それを、否定できない。
でも、じゃあこのままずっと誰にでも中途半端に期待を持たせて、気持ちよくなっていたいのかと言われたら――たぶん違う。
たぶん、違う。
でも、じゃあ何がしたいのかは分からない。
僕が黙り込んでいると、ひよりはそれ以上踏み込まなかった。
「…まあ、今すぐどうこうしろって話じゃないけど」
「うん」
「ただ、ちょっと気をつけた方がいいよ。ほんとに」
そう言って、ひよりは自分の席に向き直る。
ちょうどそのタイミングで担任が教室に入ってきた。
ホームルーム前のざわつきが少しずつ収まっていく。
でも、僕の中のざわつきは逆に強くなっていた。
軽い。
危ない。
不用意。
誤解を招く。
期待を止めない。
たった一日のうちに、いくつの言葉が刺さっただろう。
ノートを開きながら、ぼんやり考える。
前の世界では、誰にも選ばれなかった。
今の世界では、選ばれすぎている。
しかもその選ばれ方は、僕が本当に欲しかったものと少し違う。
――相手にとっては、人生で初めての“選ばれた感覚”である場合があります。
また、鷹宮さんの声が頭の中に蘇る。
もしそうなら。
僕が今まで適当に笑って、適当に繋いで、適当に保ってきた関係は、相手にとっては“適当”じゃなかったのかもしれない。
その考えが、じわじわと気持ち悪く広がっていく。
けれど授業が始まれば、そんなことをゆっくり考えている暇はない。
黒板に文字が並び、教科書のページをめくる音が重なって、教室は一応いつもの午前中に戻っていった。
戻っているように、見えた。
◇
一限と二限のあいだの短い休み時間。
席に座ったままぼんやりしていると、机の横に影が差した。
「東條くん」
見上げる。
今朝助けた女子だった。
近くで見ると、やっぱり見覚えはある。
たぶん同じ学年だ。けれどクラスまでは分からない。
「あ、えっと…」
まだ名前が出てこない僕を見て、その子は少しだけ慌てたように笑った。
「ごめん、急に来て。私、一組の佐伯です」
「ああ、佐伯さん」
本当は今聞いたばかりだったけど、とりあえず名前を口に出してみる。
それだけで、佐伯さんの顔が少し明るくなった。
「朝は、その…ありがとうございました」
「いや、そんな大したことじゃ」
そこまで言いかけて、ひよりの言葉がよぎる。
凪くん、少し笑えば相手が喜ぶの知ってるじゃん。
反射的に出かけた“いつもの返し”が、喉の奥で少し引っかかる。
でも、ここで急に冷たくするのも変だ。
結局、僕はいつも通りの曖昧な表情のまま続けた。
「怪我なくてよかったよ」
佐伯さんは、やっぱり嬉しそうに目を細めた。
「はい…。あの、これ」
小さな紙袋を差し出してくる。
中身は市販のクッキーか何かだろう。
丁寧にリボンまでついている。
「お礼、です」
「いや、そんなのいいよ」
断ったつもりだった。
けれど僕の言い方は、たぶん強くなかった。
「でも…私、ちゃんとお礼したくて」
そこまで言われると、また切りづらい。
前の世界でも、僕はこういうのに弱かった。
好意そのものより、“せっかく用意してくれた気持ち”を無下にするのが苦手なのだ。
「…じゃあ、受け取るだけ」
結局そう言ってしまう。
佐伯さんの表情が、ぱっとほどけた。
「ありがとうございます」
いや、こっちがお礼を言われる流れなのか。
そう思ったけれど、もう訂正するのも変だった。
その様子を、周囲が見ているのが分かる。
教室の後ろ。
窓際。
何気なくプリントを回していた女子たち。
みんな露骨に見ているわけじゃない。
でも見ている。
視線に気づいた瞬間、さっきまで曖昧だった気まずさが、急にはっきり輪郭を持った。
(…これ、まずいか)
ようやくそう思う。
でも、今さら紙袋を突き返すわけにもいかない。
「じゃ、じゃあ私、これで」
佐伯さんは深く頭を下げて、その場を離れていった。
その後ろ姿を見送りながら、僕は机の上の紙袋に視線を落とす。
可愛らしい包装。
丁寧な結び方。
時間をかけて選んだんだろうことが、こういう小さなところから分かってしまう。
それが急に重たく感じた。
「…早いね」
横から、ひよりの声。
見ると、いつの間にか近くまで来ていた。
「何が」
「お礼もらうの」
「いや、別に欲しかったわけじゃ」
「分かってるよ」
ひよりはすぐに言った。
でも、そのあと少しだけ間を置いてから続ける。
「でも、受け取ったんだ」
責めているような言い方ではない。
ただ事実を確認しているだけ。
なのに、その方がよっぽど痛い。
「…断りきれなくて」
「うん」
「それだけ」
「うん」
短い相槌のあと、ひよりは小さくため息をついた。
「凪くん、それたぶん一番だめなやつ」
「そんなはっきり言う?」
「言うよ。だってもう始まってるもん」
始まってる。
その言葉に、背中が少し冷える。
僕は紙袋を引き出しの中にしまい込んだ。
見えなくなれば少しは軽くなるかと思ったけれど、全然そんなことはなかった。
むしろ、見えないところに隠したぶんだけ後ろめたさが増した気さえする。
ひよりは机に手をついたまま、僕を見ていた。
「凪くん」
「…なに」
「今なら、まだ引き返せると思う」
「何から」
「そういうの全部」
ひよりの言う“そういうの”が何を指しているのか、分からないふりはできなかった。
誰にでも優しくして。
誰とも切らずにいて。
気分よく求められて。
でも本気では何も引き受けない。
たぶん、それ全部だ。
「…そんな簡単じゃないよ」
思わず本音が出る。
ひよりは少しだけ目を細めた。
「簡単じゃないのは、分かる」
「だったら」
「でも、簡単じゃないからって放っておいていいわけじゃないでしょ」
まっすぐだった。
そのまっすぐさが、今の僕には少し眩しすぎる。
結局、その休み時間はそれ以上何も言えないまま終わった。
チャイムが鳴り、ひよりは自分の席へ戻る。
僕は一人になってから、机の中の紙袋をもう一度思い出す。
大したものじゃない。
コンビニで買えるくらいの菓子だろう。
でも、そこに詰まっている意味は、たぶん全然“軽くない”。
僕は前の世界で、そういう重さを受け取ったことがなかった。
だから、今もたぶん、ちゃんと扱いきれていない。
窓の外では、春の風が校舎の脇の木を揺らしていた。
その音が、妙に遠く聞こえる。
僕はペンを持つふりをしながら、心のどこかでようやく少しずつ認め始めていた。
この世界で僕がやってきたことは、
“ただ感じよくしていただけ”では済まないのかもしれない、と。
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