第29話 侯爵再び、聖獣たちの失踪
「……お疲れ様でした、レオン様。隣国との社交会、無事に終わりましたね」
王立異世界動物園の正門を潜った瞬間、私は言葉を失った。
心地よい疲労感は、一瞬で「どす黒い違和感」に塗り替えられる。
静かすぎる。
いつもなら、私が戻ればクロが甘えた咆哮を上げ、聖獣たちが檻を揺らして出迎えるはずの園内が、まるで墓場のように静まり返っていた。
「……ナオミ、下がれ。血の匂いがする」
レオン様の声が、かつてないほど鋭く響く。
視線の先、飼育員たちの詰め所の前には、荒らされた檻の残骸と、地面に転がる血塗れの給餌用バケツ。
そして、その中央で、これ見よがしにふんぞり返る男――ゲオルグ侯爵がいた。
「……ひっひっひ。ようやくお帰りかな、元・令嬢の受付嬢さん」
その隣には、鼻に大きなギプスをあてた息子のフィリップが、蛇のような目で私を睨みつけている。
「ゲオルグ侯爵……。うちの子(聖獣)たちは、どこですか」
私の声は、自分でも驚くほど低く、平坦だった。
だが、侯爵は嘲笑いながら一通の書類をひらつかせた。
「差し押さえだよ。王宮の予算に『横領』の疑いがあってな。証拠物件として、獣どもは我が領地の地下へ運ばせてもらった。……ああ、一頭、黒い豹が少しばかり暴れたのでな。少々『教育』してやったが……」
侯爵が指差した先。地面には、クロの黒い毛が、血に塗れて一房落ちていた。
「……っ、クロを……傷つけたの?」
「傷つけた? 違うな、ナオミ。これは『在庫処分』の準備だ。お前の父親と同じだよ。無能な公爵が泥にまみれて消えたように、この獣たちもお前の目の前で、一人ずつオークションにかけてやる」
フィリップが、ギプスの下から下品な笑い声を漏らす。
「いい気味だ! 泥水を啜りながら、せいぜい泣いて後悔するがいい。……今すぐ跪いて僕の靴を舐めるなら、一頭くらいは残してやっても――」
「……黙れ、クズ」
私の口から漏れたのは、言葉ではなく、極低温の殺気だった。
レオン様が狼に変身しようとするよりも早く、私は一歩、前へ踏み出した。
私の周囲の空気が、パキパキと音を立てて凍りついていく。
怒りが頂点を超えた時、人は叫ばない。ただ、すべての感情が「処理すべきゴミ」へと収束していくのだ。
「……ゲオルグ侯爵。貴方は今、三つの決定的な『ミス』を犯しました」
私は、仕事用の手袋をミシミシと音を立てて締め直す。
「一つ。私の父親の名誉を、その汚い口で汚したこと。
二つ。国家資産である聖獣を、私的な恨みで傷つけたこと。
そして三つ目……」
私は顔を上げ、侯爵親子を真っ直ぐに見据えた。
その瞳には、黄金色のレオン様さえ一瞬気圧されるほどの、深淵のような黒い炎が宿っていた。
「……この私を、ただの『受付嬢』だと思い込んだこと。……いいですか。受付嬢は、来る者は拒みませんが……【帰るべき場所を荒らす害獣は、一匹残らず駆除する】のが仕事なんです」
「な、なんだ、その目は! 衛兵! この女を――」
「ナオミには俺が指一本触れさせん!」
「……レオン様。手出しは無用です」
私は背後の王を制し、剥き出しの拳を握りしめた。
指の間で、ミスリル製のペン先が凶器のように冷たく光る。
「……ゲオルグ侯爵。貴方の人生、これより『全件リジェクト』です。……徹底的に、根こそぎ、その腐った一族ごと【強制終了】させてあげます。……歯を食いしばる時間さえ、与えませんから」
ナオミの瞳に、本気の「殺意」が灯る。
それは、かつて公爵令嬢として育てられたプライドと、受付嬢として培った分析力が融合した、最も残酷な復讐の始まりだった。
(つづく)




