月下のなり損ない
はじめにお読みください
この話には、暴力描写、人の死に関する直接的な描写、および流血を連想させる描写が含まれています。こうした内容が苦手な方は、閲覧をお控えいただくか、ご自身の体調と相談しながらお読みください。
『ナニヲヤッテイル!』
箱音サナエの脳裏に叱責が飛ぶ。杖を持つグンディと丑前サトシが、夜の闇に消えた。虚を突かれたサナエは、想像以上の力の前になすすべなく、去っていく二人を見ることしかできなかった。
猫たちに見張りをさせたことは、間違いであった。大猫さまに忠実だが、呑気で気まぐれな習性にも同じくらい忠実な彼らが、グンディたちを真面目に見張り続けるわけがない。ましてや今は、赤ちゃんグンディのストレス軽減のために目張りをしているのだ。見落としがあること、容易に想像つくはずであった。
『スグニオエ!』
『もちろんです、大猫さま』
サナエは、ひと呼吸置くと公園から飛び出た。大猫さまの力が復活した今、その憑代たるサナエもその力を思う存分揮うことができる。その駆け足は、常人とは比べものにならないほど早く、道はしる車でさえ追いつけない程だ。非常に速く走ったため、この日のためにおろした白いブーツが黒く汚れだすがサナエが気にすることはない。
『ラチガアカヌ。ソラヲイケ』
その言葉に従い、サナエはすぐそばの建物に駆け寄る。通行人が目を丸くするのも気にせず、壁をよじ登ると、瞬く間に屋上までたどり着いた。サナエは、風抜けるビルの上を、比喩でもなんでもなく飛びぬけて行く。
冬の夜の街を飛び越えるうちに、お気に入りのマフラーがなくなっていた。新品のコートも傷だらけになり、もう使い物になるまい。だけど、構わない。
もう、今のサナエにとってはどうでもよかったのだ。
***
——根梨の村は神護の村よ。おべべは絹織り、お椀は朱塗り。
サナエが生まれ育った村には、このようなわらべ歌がある。この歌の通り、根梨村は一介の農村とは思えない繁栄をしていた。
古来より、村のどんな田畑でも豊作が約束され、商売をすれば面白いように繁盛する。周囲の村で疫病が流行しても根梨村だけは一人の病人も出なかった。
だが、根梨村は周囲の村々との付き合いはほとんどなかった。嫉妬や羨望ではない。この村に関わった人が戻ってくることがなかったのだ。
村へ奉公に行くと、数年で行方知らずとなる。親元へは、無言で莫大な手切れ金が渡されるだけだった。しびれを切らしたとある村が、殿様に直訴したこともある。だが、調べに向かった役人が根梨村から帰ってくることはなく、直訴した村は流行り病で滅びた。次第に、周囲の村が根梨村へ関わらなくなった。
文明開化から一世紀以上経ち、サナエの生まれた年に根梨村は合併し名前も変わったが、その秘密主義が変わることはない。市長でさえ、とびぬけて裕福な根梨へ物言うことができなかった。
彼女の通う小学校にも、その微妙な関係が影響を及ぼしていた。少子化で統合された小学校では、他の地域の子が根梨の子どもと深くかかわることはない。先生たちですらよそよそしい態度を隠さず、子ども相手に敬語で話す教師さえいた。
しかし、サナエにとってこの時期は、不幸ではなかった。親友こそいなかったが、それをさみしいと感じたことは一度もなかった。
「学校、今終わりました」
授業が終わり少女が校門を出ると、すぐ横に使用人がいた。いつも通りの位置にいつも通りの姿勢でいる彼に、彼女は顔をほころばせ言った。
「お疲れでございましょう、サナエお嬢様。さあ、お荷物をお渡しくださいませ」
幼いサナエはランドセルを渡すと、家までの帰路につく。父親の指導で家までは徒歩を命じられているが、荷物はすべて彼女付きの使用人が持ってくれた。
「サナエお嬢ちゃん、お疲れ様」
根梨に戻ったサナエへ、新品のトラクターにもたれ煙草をふかす五十代ほどの女性が、優し気に声をかけてきた。
「古座禰のおばさん、お仕事お疲れ様です。今日も、素敵なお天気ですね」
「まったくだよ!今年も豊作間違いなしさ。これも、大猫さまのおかげだね」
「そうですね!大猫さまのおかげですね!」
古座禰が微笑む。それにつられてサナエも笑みを返した。外では腫れ物扱いであるが、村ではみな、サナエに優しくしてくれた。
根梨の住民は、合併後に転入したわずかな人を除けば、全員が顔見知りであり、大半は親戚か姻戚である。さらに、サナエの家は神社に次ぐ権勢を誇っていた。生まれて以来ずっとよくしてくれる人へ挨拶と笑顔を振りまくサナエは、気が付けば家を囲む漆喰の塀まで帰ってきた。
サッカーコートがそのまま入るほど広い庭を通り、ちりひとつない玄関で靴を脱ぐ。すぐに別の使用人がやってきて、靴を隣の納戸へしまってくれた。幼いサナエにとっては生まれた時からこれが当たり前のことであった。軽く礼を言って家に上がったサナエを待ち構えていたかのように、廊下奥のリビングから澄ました顔の女性が出てきた。
「待っていましたよ、サナエさん」
はるばる、京の都から取り寄せたという友禅を着たこの女性が開口一番に言った。
「お待たせしました、お母さま」
サナエは丁寧に一礼して答えた。
『お母さま』というが、彼女はサナエの実母ではない。実の母は弟を生んだ時に亡くなった。その数年後に父が妻の妹と再婚したため、目の前の女性はサナエにとっては叔母であり継母でもあった。
「お顔が少し汚れていますよ、早く洗ってきなさい」
「はい、お母さま」
数年前まで叔母だった相手を母と呼ぶことは慣れない。それゆえ、今でもどことなく他人行儀になってしまうのだ。
「ところで、ジュンくんも来るのですか?」
サナエが、四歳下の弟について尋ねるが、彼女は顔をしかめるのみだ。
「ジュンヤさんは、またどこかへ行ってしまいました。神社への奉仕にも参加しないなんて……」
今年、八歳になるジュンヤは継母にとっては頭の痛い存在であった。彼女に心開かず、気が向けば学校を抜け出して森や山へ行ってしまう。継母なりの心配も気にすることなく、今日もどこかへ行ってしまったようだ。
「分かりました。では、私が二人分ご奉仕します」
「ありがとう、サナエさん。そうしたら早く、準備なさい」
それから数分して、準備ができたサナエは継母へ連れられ御根来神社へ向かう。御根来神社は、根梨地区に唯一建つ神社である。二百年ほど前に京から宮大工を呼び寄せて作ったという大きく古めかしい本殿は、齶畑県の文化財にも指定されていた。
「太守様、本日もご奉仕に参りました」
御根来神社の社務所へサナエたちが顔を出すと、そこにはいかめしい顔の太守がいた。彼は、白い着物に紫の袴をはいている。
「箱音さん、いつもお世話さまです」
「今日も、大猫さまの社を掃除に来ました。これは、頼まれていたものでございます」
継母が、日用品やお供え物を載せた台車を見せながら言った。サナエの家は、御根来神社の世話役を代々勤めている。神社の雑務を一手に引き受け、根梨地区の住民をまとめていた。
「それらはいつものところへ、運んでおきなさい」
「承知しました。大変お手数ですが、また案内をお願いします。サナエさん、私はこれを置いてきますので、先にお社を掃除してきてください」
そう言うと、継母は太守に連れられ離れの蔵へと向かった。二人が見えなくなるまで見つめていたサナエは、倉庫から勝手に掃除道具をだすと、大猫さまを祀るとされるお社へと向かった。
サナエが本殿裏のお社へ向かうと、そこにはジュンヤがいた。彼は、お社を興味深そうに眺めていた。
「やっぱりここにいたのね、ジュンくん」
「おねえちゃん、ぼくも手伝うよ」
ジュンヤは、継母と一緒にいるのが嫌いなだけであり、奉仕活動が嫌いなのではない。それを知っていたサナエは、余分に持ってきた雑巾を彼に渡した。
「あの人は、太守様と?」
何度も通っているはずの蔵までの案内を頼む継母と、甲斐甲斐しいを通り越して過剰なほど彼女の面倒を見る太守。二人の関係は、子どもでも何となく察するものがあった。サナエはそういうものだと諦念にも似た気持ちを抱いているが、ジュンヤはそれ以上の嫌悪を持っている。愚かしくも、子どもたちにばれていないと思っている継母は頑張ってコミュニケーションを図っているが、氷解することは天地がひっくり返ってもないと、サナエは子どもながらに思っていた。
「そう。いつもの通り」
「ふうん。まあ、いいか」
ジュンヤはそう言うと、お社の側面を拭き始めた。お社は大人の背と同じくらいの高さしかないが、それでもまだ八歳のジュンヤには届かないところがある。そういうところは脚立を使い、きれいに拭く弟をサナエはほほえましく見守ると、本殿へつながる石畳を箒で掃きはじめた。これが、いつもの、奉仕の光景である。
「おねえちゃん、今日もカヤネズミ、見つけられなかった……」
壁の汚れを取りながら、ジュンヤがぼやいた。
ジュンヤが外に行くのは、継母が嫌いだったからだけではない。彼は、学校の図書室で読んだ、カヤネズミというネズミを探していた。
「ジュンくん、この神社の『お決まり』、前も言ったよね」
「そんなの、迷信だよ。それにカヤネズミはネズミじゃないし」
御根来神社には、奇妙な決まりがあった。
——境内で、ネズミについて話したり、ネズミを連れてきてはいけない。
大人たちはかたくなに『おきまり』を守っているが、地域の子どもたちは不思議な迷信くらいにしか思っていない。サナエもジュンヤに言っているものの、半信半疑である。
「ジュンくんは、そんなにカヤネズミが見たいの?」
サナエが聞いた。すでに、拭き終わったジュンヤが脚立を運ぶ手を止めて答えた。
「うん!知ってる?カヤネズミって、ススキの葉を使ってボールのような巣をつくるんだよ。こんな感じに!」
そう言って、ジュンヤは手の中で丸めた雑巾を見せてくる。その可愛らしいしぐさに、サナエもホッコリと笑った。
「そんな可愛い巣をつくるのね!」
「そう。ちっちゃくて、オレンジ色の毛で、一度見てみたんだ!」
ジュンヤはどうしても、カヤネズミが見たいらしい。オレンジ色の体毛のネズミがどのような生き物であるのか、気になって仕方ないらしい。
「そんなに見たいのなら、お父様に頼んで動物園に連れて行ってもらえばよいのに」
「ぼく、野生のカヤネズミがみたいんだ。ボールのような巣がどうやってできているのかみたいの」
「それなら、また絵を描いてあげようか?」
弟にせがまれ、カヤネズミの絵を何度も描いてあげたのだが、ジュンヤは満足できないようだ。
「それもいいけど……やっぱり、本物が見たいんだ!」
ススキの原っぱにいるという、カヤネズミの巣を見つけたいという弟の願いは微笑ましい。そんな願いを叶えたいという思いで、サナエは言った。
「そうだ!太守様にカヤネズミがいそうな原っぱはどこかにないか、聞いてみるよ!」
「えっ!?本当に!いいの?」
「もちろんだよ!今日の『おまねび』の時に聞いてあげるわ!」
ジュンヤは嬉しそうに笑った。どことなく、記憶の中の母に似た笑顔をみると、サナエも胸が温まった。
「そうしたら、残りのお掃除も終わらせましょう!そうしたら、お菓子を食べましょう!」
その言葉を合図に、サナエとジュンヤは残りの掃除にも励んだ。少し寒い風が吹くが、それも気にならなかった。
——この時の思い付きを、サナエはずっと後悔することに、まだ気づいていなかった。
***
箱音家には、神社の世話役以外にも役割がある。ただし、これは家に生まれた女性しかできないことだった。
「それでは、サナエよ。今日も始めようか」
白帷子のみを着たサナエに、いつも通りのいかめしい顔の太守が言った。掃除が終われば、ジュンヤと継母は帰っていく。だが、サナエはこれから夜遅くまで『おまねび』という特別な修行をしなくてはならず、一人神社の本殿に残った。
「はい、太守様。今日も、大猫さまへ身をゆだねる術を教えてください」
床几に座るサナエはいつも通りの口上を述べ、一礼をする。
『おまねび』とは、御根来神社の神事である。箱音家の女性が憑代の役割を十分に果たせるよう、力の使い方や『使命』を学ぶのだ。彼女にとっては、これはごく当たり前の習い事のようなものであるが、今日は違った。
「では、今日は大猫さまのみこころを知るための方法を——」
「あの、ひとつよろしいでしょうか?」
さっそく、修練を始めようとする太守へ、サナエが手を上げて言う。太守は、不機嫌そうに顔をしかめた。
「どうした?今聞かなくてはならないことか?」
「はい。このあたりに、ススキやカヤの原っぱはありませんか?」
「……それを聞いて、どうする?」
太守がますます不機嫌になるが、サナエも弟のためを思うと引くことはできない。サナエは言った。
「はい。弟のジュンヤが、カヤネズミという生き物を観たがっています。太守様ならこの生き物のいる場所が——」
「サナエ。今、何と言った?」
それまでは、あくまで顔なじみの子どもへの態度を崩してはいなかった、太守の様子が変わった。目を大きく見開くと、彼は掴みかからん勢いでサナエに詰め寄った。その形相と剣幕にサナエは床几から立ち上がる。その拍子に、床几がばたんと音を立てて倒れたが、それを気にする人はいない。
「え、えっと……弟のジュンヤが、カヤネズミという生き物を——」
「愚か者!『お決まり』を忘れたか!この神社で二度とその言葉を言ってはならない!」
生まれてこのかた聞いたことがないほどの声で、太守が叫んだ。その顔は、怒りというより恐怖で歪んでいた。
「ご、ごめんなさい!ですが、なぜそれほどまでに、言ってはいけないのでしょうか!?」
「なぜ、ではない!大猫さまは、それを非常に嫌ってらっしゃる。もし、箱音の家の者がネズミに肩入れしているとなれば、災いが——」
太守がまだ何か言おうとした時、パキン、と奥からガラスの割れるような音がした。二人が音のほうを向くと、本殿の最奥に飾られている円鏡の上を真一文字にひびが入っていた。
『シモベヨ、イマノハナシハマコトカ?』
驚きを隠せない中、急にサナエの口が動いた。サナエの意思ではない。少女特有の黄色い声ですら覆い隠せない、そのまがまがしささえ感じる声色に太守はみるみる青くなっていった。
「そ、その玉声、まさか大猫さまにあらせられましょうか……!」
『イマイチドキク。イマノハナシハマコトカ?』
「大猫さま。あ、あの子へは……き、きつく言って聞かせまする。どうか、どうか……」
サナエに向かって、太守は地面に頭をこすり付ける。その姿には、普段の威厳ある様子のかけらもない。
「道理を知らぬ子どもの戯言なぞ、きこしめさぬよう、畏み畏みもうします」
『ユルセヌ』
付け焼刃の敬語で話す太守の背中へ、短い拒絶の言葉が降り注ぐ。その直後、中の明かりがすべて消え、建物が揺れた。空気が爆発したかのような衝撃に、太守は床にめり込むのではと思うほど、伏礼する。
『マコトニユルセヌ』
「み、みこころ、うけたまわりました。必ずしかるべき処断をいたします。どうか、どうか、ご大忿を鎮めたまいませ!」
『ワカッタ。アスマデニオコナエ』
「ぎょ、御意にございます」
怒られた子どものような震え声で太守が言ったとたん、一気に空気が軽くなった。消えていた電灯やろうそくが明るさを取り戻し、後には困惑するサナエと体をブルブルと震えさせる太守だけが残された。
「あ、あの……太守様——」
「今日の『おまねび』はなしだ。今すぐ帰れ」
ようやく顔を上げた太守が言った。有無を言わせないようなその言葉でサナエは狼狽する。
「で、ですが——」
「早く!」
あまりの剣幕に、サナエは逃げ出すように大殿を出る。白装束のまま、使用人の迎えも待たずに彼女は必死に家へ帰ると、驚く家族や使用人を無視して自室へこもった。そのまま、部屋着に着替えることもせずベッドにもぐりこむとガタガタと震えた。
自分が、何をしたのかわからない。だが致命的なことをしてしまったことは、幼いサナエにもわかった。
***
翌日、サナエは、すこし遅い時間に起きた。着替えることなく、眠ってしまったためか、身に着けている白帷子はクシャクシャになっている。部屋着に着替えたサナエが、部屋を出ると奇妙な違和感を覚えた。
何かが変わったわけではないのに、昨日までとは決定的に違う重たい空気であった。少し不安に思いながらも、サナエが階段を降りダイニングルームへ向かうと、何やら人の気配がする。普段は家族と住み込みの使用人しかいないのにと、不審に思うサナエがダイニングルームに入ろうと戸に手を掛けた時、部屋から声がした。
「……さまの意志だから仕方ない……」
「知らなかったとはいえ、神社でネズミのことを言うなんて……」
不安が胸の中で膨むのを感じながら、扉を開ける。ちょっとした飲食店が開ける大きさのダイニングルームには、父親を中心とした根梨の人たちが集まっていた。扉が開いた気配に気づいた大人たちがこちらを振り向く。
「お、おはようございます。皆さま、早くからご苦労様です」
「……後は太守様の沙汰を待つ、ということで」
地区の運営に関する相談なのだろうと思ったサナエが、挨拶をするが誰も答えようとはしない。奇妙な目線に怯えるサナエを無視して彼らは出ていき、後にはサナエと父親のみが残された。
前妻が亡くなって以来、無口となった父親であるが、今は石にでもなったかのようだ。呼吸すらしていないように見える父へサナエが恐る恐る言った。
「あの、皆さまはどうしてこのような時間から来たのでしょうか?」
父親は何も答えない。何を言えばよいのか、彼も苦悶しているのか眉間に深々と皺ができている。
「そ、そうだ!ジュンくんは起きていますか?もしかしてもう外へ——」
「ジュンヤの話はするな」
朝から見ない弟の話題を振った途端、父親の静かな、それでいて有無を言わさない口調にサナエは口をつぐむ。父親はサナエの前に歩み寄り、彼女の目線に合わせしゃがむと言った。
「ご飯を食べ、身支度を整えなさい。まもなく太守様がここへ来る」
父親の言ったとおり、お昼過ぎに太守が家へ来た。いつもとは違う無地の白い衣に身を包む彼が応接間に入るなり、言った。
「箱音ジュンヤが見つかった」
朝から見かけない弟が見つかったと聞き、すこし明るくなるサナエだが、俯く顔のまま歯を食いしばる父親の顔を見ると、その感情も途端に雲散霧消した。
「石切り場の跡地で足を滑らせ、打ち所が悪かった。……そういうことになっている」
「……承知、しました」
「お父様、太守様、ジュンヤに何があったのですか!?」
今の話を聞いて、弟の身に何が起きたのかサナエがたまらず聞く。だが、太守は何も聞こえていないかのように、父親へ伝える。
「大猫さまのご大忿は大きい。子どものみならず、その親もまた責を負うべしと考えよ」
「……承知、しました」
「明日まで時間を与える。それまでに、禊をすませよ。これは、ささやかながらの助力である」
そう言って、太守は細長い箱を父親へ押し付けた。桐でできているその箱を、父親は何も言わずに受け取る。
「憑代の娘と、罪びとの肉親ではないものは、大猫さまのお慈悲により責から免れる。涙して謝せよ」
サナエがよくわからない言葉の前に、父親は黙って一礼する。だが、一瞬のさらに一瞬だけ、父の目に暗い怒りが灯ったのをサナエは確かに見た。
「禊済むまで神社に入ることまかりならぬ」
「……かしこまりました」
「箱音ミノリは私と共に来るように。以後のことを伝える」
名前を呼ばれた継母がうなずく。わずかに流した目をする彼女は、出ていこうとする太守の後をついていった。後には重い空気とサナエと父親が残される。
「一時間ほどしたら、私の書斎へ来なさい」
その言葉と共に、父は出ていった。
さて、サナエが時間通りに書斎へ向かうと、先ほどの服装のままの父親が椅子に腰かけていた。精根尽きたかのように力なく座る彼を不安そうに見るサナエへ、父親がそっと空いている椅子を指さした。指さされた椅子へサナエが座ると、父が口を開いた。
「ジュンヤは死んだ」
「……うそ、ですよね」
開口一番言われた悲劇に、サナエは思考が追い付かない。昨日まで、元気そうにしていた彼が、なぜ急にいなくなったのか、混乱するサナエへ父親が続ける。
「掟を破り、大猫さまの怒りに触れた。この罪は、とても重い」
「そ、そんな。ジュンヤは良い子でした。ご奉仕もさぼることなくやっておりました。そんな掟を破ることなど——」
「ネズミを神社で語るべからず。大猫さまの逆鱗に触れたのだ」
サナエは絶句する。古いしきたりでしかないと思っていた。ましてや、大猫さまを侮辱するつもりなど毛頭ない。サナエが何とか伝えようとするが、それを手で遮った父親が言った。
「みなまで言うな。大猫さまの言葉は絶対だ」
「だとしても!なぜジュンヤが死ななくてはいけないのですか!」
「太守様の命だ。大猫さまの叡慮となれば、異論をはさむことはできない」
「そんな……そうしたら、私のせ、せいで……」
サナエは泣くことしかできなかった。ジュンヤへの哀悼と自身の浅慮への後悔が入り交じり、尽きることなく湧き出る。父親は、彼女を静かに見守り、泣くに任せた。
どれくらい泣いたのだろうか。目が腫れ、喉が枯れたころに、サナエが聞いた。
「私たちは、どうなるのでしょうか?」
「サナエとミノリは大丈夫だ。太守様と村衆が約束してくれた」
「お、お父様は!?お父様も大丈夫なのでしょう!?」
「私は、ジュンヤの罪の責任を負わなくてはいけない。すまない」
『責任』の意味は分からないが、良いことではないだろう。サナエは思わず立ち上がると、父親のもとへ駆け寄った。
「い、嫌です!私は一緒にいたいです!」
「許してくれ、これ以外に助かる道はない」
「そ、そうだ!逃げましょう!東都でも、京の都でも、いっそのこと外国でも行きましょうよ!そうしたら——」
サナエなりの必死の提案も、父親は首を横に振るばかりである。
「だめだ。大猫さまから逃げることはできない。太守様の手の者が追ってくるだろう」
「で、ですが……どこか安全なところがあるはずでは——」
「サナエ。お前の持つ力がある限り、どこにいようとも大猫さまには居場所がわかる。逃げ場などないのだ」
サナエは唇を嚙んだ。当たり前だと思っていたこの力が次第に憎くなった。
「こうすれば、お前は無事なのだ。幸せに生きてくれ、サナエ」
そう言って、父親はまだしがみつくサナエを振り払うように立ち上がった。まだ嗚咽の止まらないサナエの頭を優しくひと撫ですると、一人部屋を出ていく。後には、床に崩れ落ちた少女が一人残された。
——翌日、一族の墓前で自刃した、父親が見つかった。
***
その数日後、父親とジュンヤの簡素な葬儀が終わったその日のうちに、サナエは家から追い出された。
代わりに、敷地の片隅にある小屋が彼女の住まいになった。家の者、特に継母はここのことを『離れ』と呼んでいたが、体の良い隔離部屋であることはサナエでも分かった。外からカギがかけられ、パソコンはもちろん、電話すらない部屋でサナエは一人ぼっちであった。風呂もトイレも小屋の中で済ませ、食事と着替えだけが扉に設けられた小窓から差し出される。そのため、村の人はもちろん、使用人たちとも話すことはおろか、顔を合わせることさえめったになかった。
サナエがこの部屋を出られたのは、『おまねび』の時のみだった。小屋のそばへ寄せた自動車に乗せられ、そのまま神社へ連れられる。太守以外誰もいない本殿で憑代としての知識を学べば、そのまま車に乗せられて小屋に帰る。
学校にさえ通わせてもらえない。本を読み、憑代としての修行を行う。それ以外は寝ているか絵を描くだけの日々であった。
だが、それも二年間だけであった。
ある夜、サナエは夢を見た。見たこともない植物に囲まれた空間であった。サナエの顔程の大きさの葉が茂る木や、奇妙にねじ曲がった藤の木のような植物、そのほかサナエが想像もできないような植物がうっそうと茂るそこには、人ひとりが横になれる大きさの石台が置かれている。
サナエはその空間に一人でいた。だが、不思議とさみしさは感じない。少なくとも、小屋の中より楽に呼吸できた。
「メザメタカ、ミコヨ」
唐突に声が聞こえた。その声は、一度も聞いたことがないはずなのに、ずっと聞いたことがあるように感じる、不思議な響きがした。
サナエは、瞬く間に声の主を悟った。恭しく膝を地につけ、平伏する。
「お初にお目にかかります。大猫さま」
「ソナタノチカラハミノッタ。ワレガオリテモジュウブンナホドニ」
サナエが憑代として、大猫さまを身に宿す日が、ついに来たのだ。
「この日を待ち遠しく思っておりました。卑しきこの身ですが、どうぞ何なりとお使いくださいませ」
憑代になれば、サナエは『消滅』する。肉体は残るが、そこに宿る意思は大猫さまのものになり、サナエの魂は虚空に散る。家族がいた頃は、それをさみしいと感じたかもしれない。そもそも、相手はその家族を失った元凶である、と言えるかもしれない。でも、今はそれすらどうだってよい。
誰も悲しまないし、誰も惜しまない。せめて、空っぽになる体躯が誰かの役に立てればよいという思いしかなかった。
目の前の巨岩に寝転ぶ。ここが終焉の地だと思うと、思ったより悪い気はしない。やがて、大猫さまと思しき気配の塊がサナエの全身を包み込み、穴という穴から侵入する。痛みはない。
脳が押しつぶされる感覚と引き換えに次第に薄れゆく意識の中で、サナエは目をつぶろうとした。
——その時であった。頭の中で、何かが叫んだ。
『どうして!どうして、かみさまぁ……』
自分の記憶ではない。では、大猫さまの記憶なのだろうか?サナエは閉じようとした目を見開いた。
『なんで……アラビィさえいないの!?二人で守っていこうって言ったのに……』
ふと、幼い時に聞いた物語を思い出す。大猫さまは、かつて『かみさま』の飼い猫であった。そして、友達だったネズミに裏切られたのだ。
『ユルセナイ』
なつかしさすら感じるその痛みに、サナエは起き上がる。大猫さまの意識が頭の中を埋めているのに、はっきりと意識が覚めていく。大猫さまの『流入』は次第に収まり、とうとう止まった。
「コノカンカクハヒサシイナ」
大猫さまの感心するような声が聞こえた。サナエには何が起きたのか分からないが、消滅していないことは確かである。
「ソナタヘワレガオリルコトハカナワヌ。コレハ、ヒサシイコトダ」
サナエは、『おまねび』で習った話を思い出す。この地で恐れられていた大猫さまを改心させ、守護神にしたのは初代憑代であった。それ以来、その憑代の子孫である箱音家の女性には憑代としての力が宿ったとされる。
「イマイマシイガアノオンナトノヤクソクダ。ソナタヘフタツノミチヲシメソウ」
サナエの体から大猫さまの気配が抜けていく。次第にそれは石台の足元に集まり、やがて一匹の白黒柄の猫となった。
「ヒトツメハ、ヨリシロトシテノヤクヲオリ、ジブンノミチヲアユムガヨイ」
猫はひょいっと石台に上がり、サナエの膝の上へ来ると言った。
「フタツメハ、ワレトアラタナヤクソクヲムスブコトダ。サスレバ、ソナタハワレノノゾミヲカナエルカワリニチカラヲエルダロウ」
深淵への入り口を連想させる、漆黒の細長い瞳がサナエを見た。不快さはない。ただ、純粋に選択を待っているだけだろう。
「私に、もはや自分の道はありません。それは生まれた時から決まっていました」
なぜ、自分が監禁されているのか、サナエはうすうす気が付いていた。
継母も、太守も、村の人も怖いのだ。『おまねび』も終えていない頃に大猫さまの声を降ろし、自分たちを震え上がらせたサナエが、たまらなく怖いのだろう。であれば、憑代としての役割をやめれば、怖くなくなるのか?
おそらく、それはない。力のなくなろうが、サナエは異物なのだ。力無き異物は容赦なく排除されてしまうだろう。この地にサナエの居場所はないのだ。
「ですので、大猫さま。私と約束をしてください。大猫さまの大願は知っております。それを果たす代わりに、私に力をください」
「……ワカッタ。デハ、ケイヤクノインヲムスボウ」
そう言うと、猫がサナエのおなかの上に上った。そしてそのまま、寝間着ごとサナエの腹部を噛む。
鋭い痛みに、サナエはキャッと、叫ぶ。だが、大猫さまが緩める気配はない。しばらく噛みついていた猫がようやくその口を離すと、サナエのおへその横に、猫の噛み跡が残っていた。
「ヤクソクハナッタ。ソナタハチカラヲエタ。スキニツカウガヨイ。ソシテ、ワガノゾミデアル、ニクキネズミヲホロボセ」
「分かりました。必ずやその願い、叶えましょう」
もう、サナエには目覚めた後にすることが決まっていた。だんだんと、植物咲く地から遠のいていく感覚で、サナエの意識は途絶えた。
***
目覚めると、まだ外は暗かった。サナエは窓に映る月の位置を見る。そして、おおよそ午前二時であることを知った。
そっと寝間着をずり上げる。月明りに照らされ白く見える腹部には、猫の噛み跡がはっきり残っていた。
「……ふふっ。本当だったんだ」
『トウゼンデアル。ソナタトノヤクソクヲタガエルハズハナイ』
急に脳裏に自分のものではない声がした。それが先ほど夢で話していた大猫さまのものであることは、言うまでもない。
ふと、自分の体に何かがみなぎってくる感覚を感じた。初めてであるのに、ひどく懐かしい気さえするその感覚で、サナエは自分が得た力の使い方を悟る。
『ワガノゾミヲカナエヨ』
「分かっていますよ。でも、最初にすこしだけ、私に力を使わせてください」
そう言うと、サナエは扉に向かって、パーの形にした右手を振り下ろした。サナエを監禁する際わざわざ作り直させた鉄の扉に五条の切り裂きができた。裂け目から流れ込む冷たい風を浴びながら、今度はこぶしを握り、ドアに向かってストレートの素振りをする。非力な少女の、しかも数メートル離れたところからのパンチである。だが、腕が伸び切った瞬間、バァンという大きな音とともに鉄扉に大きな穴が開いた。
扉の残骸を押しのけ、サナエは外に出た。今は十一月、薄い寝間着では夜は寒い。だが、薄笑いを浮かべるサナエは、気にすることもなく、自分のかつて住んでいた屋敷を見た。二階建ての家の片隅に、一部屋だけポツンと灯がついている。そこが、かつての父と母の寝室であることに気が付き、サナエはより深く昏い笑みを浮かべ、屋敷へと向かった。
「な……なんで、ここにいるのよ、あなたは!」
サナエが寝室の扉を切り裂くと、そこには半裸の継母がベッドにいた。シーツで身を隠しながら、混乱したように叫ぶ彼女を気にすることもなく、サナエが部屋に入る。薄暗く、ムーディーな曲が流れる部屋の中には、もう一人良く見知った人間がいた。
「サ、サナエ!?まさか……その力は——」
間男がそれ以上何か言うことはなかった。サナエが指を一振りすると、胸毛で覆われた胸部が斜めにずり落ちる。袈裟斬りとなった男の上体が、絹の布団に落ちた。
「ダ、ダイチぃ!いやぁぁぁ!?だれかきてぇ!」
すぐ横で人が斬られ、継母はあらん限りの声を出す。だが、使用人が来る気配はない。この家の敷地は外に声を漏らさない程には広く、そして敷地内で生きている人間はすでに二人しかいないからだ。
「なんで!なんでなのよぉ!」
赤黒い液体で塗れた継母が、ひどく歪んだ形相で叫んだ。まるで地獄絵図に出てくる悪鬼のような姿にうんざりしたサナエは、拳をギュッと握り、そのまま振り下ろす。ひと振りで継母はベッドごと床に叩きつけられた。床が抜け、一階まで落ちた彼女は、いまやハエたたきに当たった虫のようになっていた。
「まだ、たりない」
空いた穴から、継母の最期を見届けたサナエがつぶやく。彼女は穴へ飛び込み、冷たくなりはじめた継母の遺骸を避けて着地をした。避けたのは、死者への敬意ではない。父に買ってもらった寝間着を汚したくなかったのだ。
「大猫さま、この村を滅ぼしますね」
大猫さまは何も言わない。だが、サナエはそれを許可ととらえた。
適当な靴を履き、玄関を出る。監禁されてから一度も切っていない長髪を揺らし、月明りの下で年相応の笑みを浮かべる姿は神秘さすら帯びているようであった。
——この日、太陽が昇る前に、根梨地区の住民の半分が死んだ。どういう理屈か、この事件は村に降りてきたクマの仕業とされた。サナエは罪に問われるどころか何か話を聞かれることもない。やがて、神社を継いだ新たな太守の手配で、東都の専門学校へ通えることになった。根梨を出て大猫さまの大願を叶える、というのが建前であったが、実際は恐れをなした新太守が厄介払いをした、というのが正しい。
あとは言うまでもない。手伏区生物園へ就職すると、休日には動物園やペットショップを巡り、杖を盗んだネズミの情報を探す。何のヒントもない手探りの捜索では、ヒントさえめったに見つかることはない。日に日に大猫さまのいらだちが増していくのを感じながらも、サナエはただ諾々とそれを受け入れるのみであった。
もはや、家族はいない。故郷は自分の手で半壊させた。だが、御根来神社は残り続け、大猫さまは自分の体の中にいる。
生物園の人たちは優しく、サナエの身上を探ろうとしない。仕事は忙しいながらも充実していた。だが、安らぎを得るたび、サナエの体の中で月明りに照らされた少女が彼女を苛む。皮膚一枚下で際限なく湧き上がる苦しさに気が狂いそうになっても、本当に気が狂うことはない。砂漠で一粒の宝石を探すような役目を担い、永遠にこの地獄から逃げられることはない絶望が諦念に変わりだしたころ、彼女に転機が訪れた。
——生物園にやってきた、グンディが杖を持っていたのだ。
***
昔のことをぼんやりと思い出していると、サナエはいつの間にか生物園までたどり着いていた。気配からして、サトシとグンディはまだ来ていないようだ。サナエは、職員用の通用口から生物園に入る。目当てはグンディの家族であった。
『ニクキネズミヲネダヤシニセヨ』
その言葉にしたがい、職員用の通路を抜けて薄暗いエントランスに出る。幸い、当直の職員には気付かれることはなかった。エントランスの角にある猫たちの部屋では、三匹の猫がサナエを見ている。この子たちが申し訳なさそうに鳴いているが、そちらへ気を向ける余裕はない。猫たちの反対側にある展示室へ入ったサナエは、正面のガラス張りの展示ルームを見た。
グンディの展示ルームは電気が消えて、真っ暗になっている。グンディたちは眠っているのか、巣箱から出てくる様子はなかった。これは都合がよい、とサナエは少し安心する。少なくとも、無残な姿になった生き物を直接見なくて済むのだ。
右手をおおきく振りかぶる。そのまま勢いよく下ろすと、展示ルームは音もなくグシャグシャになった。一生懸命作った擬岩も、展示しやすい工夫を凝らした巣箱も、嵐と地崩れがまとめてきたかのようにひしゃげてペシャンコになる。自分でやったことではあったが、暗澹とした気分になるサナエであるが、何かおかしいことに気が付いた。
生き物が死んだときに出る死臭はもちろん、血の匂いすらしないのだ。サナエがガラスを切り裂いて、中に入る。そうして、ガラクタと化した巣箱をひっくり返したサナエが見たのは、グンディたちの死骸、ではなかった。
『余の眷属を真っ先に狙うとは、悪くない判断である。相手が余でなければな!』
巣箱の中から出てきたのは、グンディの姿に似せたぬいぐるみであった。ズタズタになったぬいぐるみから、王様グンディの高笑いが響く。サナエの体の中で、大猫さまの苛立ちが高まるのを感じた。
『逃げも、隠れもしないと言ったではないか。少しは頭を冷やすがよい。ちょうど良い塩梅の涼しい夜であるぞ』
一瞬、生物園中を巡ってグンディたちを探そうと思うが、そんなことをしていればさすがに、王様グンディたちも来るだろう。相手の思惑通りになることで気が狂いそうになりながらもサナエは、生物園から出ていった。




