星なき夜の公園戦争
はじめにお読みください
この話には、戦闘の描写および動物が傷つく描写、流血を連想させる描写が含まれています。こうした内容が苦手な方は、閲覧をお控えいただくか、ご自身の体調と相談しながらお読みください。
迎江イロハは、バスに乗っている。王様から言われた彼女は、家にいる祖母へ告げることもなく、こっそり窓から家の外へと抜けだした。最低限の持ち物だけ持ったイロハは、杖をつきながらまっすぐにバス停へ向かい、そのまま生物園へ行くためのバスに乗ったのが十分ほど前のことである。
既に夜は遅く、乗客はイロハの他に一人だけである。イロハの二列前の席に座るサラリーマンは、残業の疲れだろうかぐったりと窓へもたれかかり微動だにしていなかった。
(急がないと……)
なまった体に鞭を打ち、いつもより時間を掛けたイロハは、疲れの取れない頭で考える。焦らなくてもよい、とは王様から言われているものの、やはり急いだほうが良いのは確かであろう。丑前サトシが危機的状況であるならなおさらだ。
(私が本当にうまくできるのかな……)
戦争を止める立役者である、と王様が言ってはいるが、イロハはまだ決心がついているとは言い切れていない。王様猪の話をどうすれば伝えられるのか、小学生のイロハには想像もできない。漫画や小説の主人公みたいに堂々と話せばよいのか、相手をなだめるよう丁寧に伝えればよいのか、それさえ定かではないのだ。
(それでも)
窓ガラスに映った不安そうな自分の顔を見たイロハは、活を入れるべく軽く頬を叩く。そうして、再び窓を見た時、生物園のほうから何か光が見えた。
(なに!?あれ……?)
最初は何かの見間違いかと思ったが、何回も同じような光が見えると、錯覚ではないことに気付いた。空に向かって飛んでいく閃光はきれいであるにもかかわらず、ひどく不吉なものに思えた。
『次は、柵保一丁目、柵保一丁目です』
ふと、アナウンスが流れた。降りるバス停であることに気が付いたイロハは停車ボタンを慌てて押す。ピンポーン、と次に止まることを告げるチャイムが鳴ったのを聞いたイロハは再び窓の外を見た。
もう、先ほどの光は、見えなくなっていた。星ひとつ見えない、暗い夜空を見ながら、イロハは胸がざわついてくるのを感じ、ポケットへと手を入れた。冬の寒さとこれから起こることへの不安が、少し和らいだ。
***
『あやつら、先に余の聖域に着いたようであるな』
王様グンディが、唐突に話した。
既に一時間は、シャボン玉のような飛行球の中にいるだろうか。煌めく麹田区を通り過ぎ、クリスマスのイベントで華々しく輝く東都公園もとうに過ぎ去っているので、かなり近づいてはいるのだろう。だが、向こうが先に着くことは、サトシにとっては想定外であった。
『それ、大丈夫なのですか?』
『良くはないな。この速さは少し想定外であった』
『本当に、大丈夫なのですか?』
言葉に反して、それほど焦っていない王様にサトシは思わず繰り返した。
『仕方あるまい。今の余の力では、この速さが限界である』
『いや、でも……』
『原初の猫と対峙するには、力がいくらあっても足りぬ。無理に速度を出して力を消耗するは愚の骨頂よ。それに、先を越されること自体は想定の範囲内であるゆえ、そう急かすでない』
そうはいっても、手伏区生物園には、他の動物も、グンディたちもいるのだ。危害を加えたり人質にしたりすることはないのだろうか。
『安心せよ。すでに手は打ってある』
サトシの心を読んだかのような王様が、くぎを刺すようにつぶやいた。
『えっ!?どういうことですか?』
『余の眷属はすでにモルモットたちの小屋に避難させておる。展示室にあるのは、ぬいぐるみを使って作った影武者よ』
『それでも、そっちまで行くこともあるのでは?』
『その余裕はあるまい。仮に向かったとしても、モルモットたちはその身を挺して守ると言っておったわ』
生物園の中にいるげっ歯目の生き物は、王様グンディへ絶対の忠誠を誓っている。前にチラリと聞いた話を思い出しながら、サトシは下を流れる町の光を眺めた。宇宙を連想させる光を見ていると、妙に落ち着いてくる。なんだか焦っていた心が冷めてきたサトシに王様が言った。
『あとは、侍女が来るかどうかであるな。あの子が今宵のカギではあるゆえ』
『でも、危険じゃないですか?原初の猫と戦うかもしれないのでしょう?』
『余と貴様がこの身に替えても守る。それで異存ないな』
『……僕も戦うんですね』
『安心せよ。鉄火場は余の眷属が受け持つ。貴様は侍女を守っていればよい』
『…………了解です、よ』
そんなことを言っているうちに、良く見知った建物が見えてきた。ライトアップも消されており、黒く不気味な城のようである。サトシは決戦の場が近いことに息をのむ。
その時である。王様が軽く杖を振るい、飛行球の進路を変えた。サトシが何かを言う前に、真っ暗な公園から光の矢が文字通り光の速さで飛んできて、サトシたちの横をかすめた。
『なんなんですか、あれ!?』
『見て分からぬか。敵の攻撃である』
王様が杖を使って、飛行球を操作する。サトシの目では追えないが、先ほどのような光を躱しているようだ。
『ここから先は、原初の猫が手を出せる範囲であるらしい。少し飛行が荒くなるぞ』
***
『ナニヲシテイル!ウチオトサヌカ!』
頭の中で叫ぶ大猫さまの声を鬱陶しく思いつつも、サナエは黙って光の弾丸を標的に向かって打ち続ける。
大猫さまの持つ無尽蔵なエネルギーを使った閃光は光のような速さで飛び、かすっただけで普通の生き物であれば塵も残さず消滅する。だが、グンディとサトシを載せたシャボン玉は器用にあちらこちらへ避けていた。
気が付いたら、シャボン玉が生物園の屋根の高さに降りてきた。生物園に迷惑をかけてでも、攻撃を続けるか、サナエが逡巡すると、頭の中で大猫さまが怒り狂う。サナエは一瞬悩んだ末、手を銃の形にすると、生物園を背にするシャボン玉へ向かって弾丸を放った。
『ふんっ。余の宮殿を壊すでない』
シャボン玉の中にいるグンディがそう言うと、杖を振った。シャボン玉めがけてまっすぐに飛んでいたはずの弾丸が、瞬く間に小さくなり、そのまま虚空へ消えていった。
サナエの前で、グンディとサトシが地に降り立つ。クリスマスのイルミネーションが終わった公園は暗く、二人の顔は見えない。
『コノヌスットメ。ヤツザキニシテクレル』
サナエの背後から、怒りのこもった大猫の声が響く。まるで地獄の底から響くようなおぞましい声にも、グンディは物怖じすることない。
『その虚勢、まさに猫騙しといったところであるな。あるいは、少し呆けているのか?』
『コロシテヤル!ウスギタナイネズミノオウ!』
『余を王様ネズミとみなしてくれることはかたじけない。伝えねばならぬことも、すこしは伝えやすくなるからな』
サナエでさえ見たことがないほどの激憤をみせる大猫さまに対して、グンディは皮肉すら言う余裕がある。そんなグンディの後ろで、唐突にサトシが叫んだ。
「サナエさん!もうやめましょうよ!お互い話せば、誤解が解けるはずですよ!」
サナエは、一瞬意味を掴みかねた。さきほど、湾岸区の公園で彼はサナエに殺されかけた。ほんの数分前には、空を飛んでいるグンディもろとも光の弾丸で蒸発するところであったはずだ。なのに、この期に及んで話せば何とかなる、という楽観的を通り越し非現実的な発想が理解できなかったからである。似たように思ったのだろう、グンディがその黒々とした目をサトシに向けるのにもかかわらず、サトシは続けた。
「きっと、なんかの間違いのはず!王様のご先祖様だって事情があって——」
「言いたいことは、それだけ?」
サナエは、遮るようにサトシへ向かって腕を振り下ろす。サトシが慌てて避けると、サトシのいた場所が大きく抉れた。
「サトシくん、もう誤解とかそうじゃないだとか、どうでもいいの」
「でも、それじゃあ——」
「復讐してなにもかも終わらせる。もう、私、それ以外——大猫さまでさえ——どうでもいいの」
「そんな……」
絶句するサトシが、真っ暗の闇の中でもわかるくらいガクッと肩を落とす。そんな彼から目をそらしたサナエは、再びグンディをにらんだ。
『余の想像以上に愚かな下僕ではあるが、一理くらいはある。これ以上争っても貴様らが痛い目を見るだけであるぞ』
グンディのたしなめるかのような言葉に、サナエが再び笑う。そして、嘲るように言った。
「それは、どうかしら。高慢な王様」
そう言うと、サナエが手をたたいた。その音に反応するかのように、公園中から光る眼が浮かび上がった。それらは、グンディとサトシを囲むように徐々に近づいてくる。
「あなたたちが来る間、星を見て過ごしていたとでも思ったかしら?残念ね。東都中の猫を呼び集めたわ。これからどんどんと、ここに来るよ」
トラを彷彿とさせる、響くうなり声をあげる猫たちに、グンディはつまらなそうな口調で言った。
『余が、これしきの猫どもで震え上がるとでも思っているのなら、下僕以下の間抜けと言わざるをえないな』
「なに、強がりを言っているのかしら?」
『ふっ。強がりでも何でもないぞ。それに、まだ気づいていないのか。まあ、隠密行動は眷属の特技であるから仕方ない』
全く気にするそぶりもないグンディに、サナエが眉をひそめた時、小さくも甲高いチューチューという音があちこちから聞こえだした。その音は、彼女がモルモットやチンチラを世話するとき聞く鳴き声そっくりである。
『余が客人を迎えるに、下僕一人しか侍らすわけなかろう。すでに貴様らをもてなす支度はできているぞ』
先ほどまでの気勢はどこへやら、サトシたちを囲む猫が弱弱しい声を上げた。代わりに公園の木の枝、マンホールの中、芝生の上、その他公園を埋め尽くさんばかりのネズミがチュウチュウ鳴く。グンディが楽し気に言った。
『東都中の猫とやらも簡単には公園に入れるまい。どうだ?今なら、怪我無く話ができるぞ?』
その声に、大猫さまの怒りが爆発した。ネズミたちを吹き飛ばさんとするほどの気迫を発しながら、大猫さまが言った。
『コロシテヤル!イッピキノコラズナ!』
その言葉を合図にしたかのように、サナエはグンディへ拳を振り下ろした。見えないはずの大猫さまの手による攻撃をひょいっとよけながら、グンディが言った。
『仕方あるまい。少し頭を冷やさせてやる。下僕、眷属たちよ、死ぬでないぞ。このようなことで死ぬのはつまらんからな』
***
サナエが振り下ろした手を合図に、猫たちが王様とサトシめがけて襲い掛かってきた。それを食い止めんとクマネズミやドブネズミが盾となり猫たちの襲撃を防ぐ。すると今度はハツカネズミやモルモットが猫にまとわりつき、噛みつこうとする。
猫とネズミが、あちらこちらで攻撃の応酬を繰り広げていた。最近こそネズミに慣れてきたはずのサトシだが、ここまで数が多いと、冬の寒さとは別の悪寒が全身を駆け巡る。
『貴様は、とんだバカであるな』
王様グンディが飛びかかってきた猫を吹き飛ばしながら言った。猫やらネズミやらが文字通り飛び交う公園は、まさしく戦場である。サトシは、流れ弾や流れネズミに当たらないように頭を低くかがめながら返した。
「それでも、何とかしたかったんです」
公園でやつ裂きにされかけたことを忘れたわけではない。あの無表情そのものの顔をしたサナエに言葉は届かないことも理性ではわかる。それでも、サトシはサナエにあの言葉しか言えなかった。
「サナエさんが悪い人だと、思えないんです」
『ふんっ。その甘ったるい発想、平時なら叱り飛ばすところである。だが、今は少々事情が違うな』
原初の猫が放つ不吉な紫色の閃光をはじきながら、王様グンディが言った。
『どうも、侍女がこの聖域に来たらしい。下僕よ迎えに行くがよい』
「えっ!?この公園を横切って、ですか!?」
サトシは飛びかかってきた猫を避けながら叫ぶ。公園中で乱闘が起きており、とてもではないが行けそうにない。
『侍女をここまで連れてこれれば、貴様の言う話し合いの目が出てくる。行ってこい!そして、貴様がただのバカではないことを証明してみせよ』
発した言葉とは裏腹にその声には、揶揄やからかいは一切ない。王様が杖を振るい猫を吹っ飛ばした。その隙にサトシは頷くと、開いた場所へ走り出した。
「あなたたち!彼を追って!動けなくするのよ!」
『余計なことに気取られている余裕はないぞ、憑代の女』
サトシの後ろで猫に命令するサナエと彼女を妨害せんとする王様グンディの声がサトシの背中に響く。だがサトシは、振り向くことなく入口へ一直線に駆けた。
何匹かの猫が走る彼を追ってきた。ニャーニャーと鳴きながら追ってくる猫たちは普段であれば可愛いはず、今は地獄の追跡者に見えた。
「うわっ!?」
真横から突然、毛玉が突っ込んできたためサトシはもんどり打った。冷たいアスファルトの上に押し倒されたサトシの上には、三毛猫が乗っかっていた。
「ちょっと!きみ、どいてくれ!」
サトシが手をぶんぶんと振るが、猫が退く気配はない。黄色い目を光らせた三毛猫が、サトシの喉元へかみつこうとした時、突然黒い塊が二三匹木の上から落ちてきた。それらが地面に横たわるサトシの体をよじ登ると、襲い掛かろうとしている猫に突進して無理やり引き離す。怒り狂ったかのような唸り声をあげる三毛猫を、さらに落ちてきたネズミたちは必死に押さえつけている。
『王さまのゲボク、ここは我らにまかせて』
『あ、ありがとう!』
たどたどしい言葉がサトシの頭に響く。サトシを救ってくれたドブネズミたちに感謝を言うと、再び公園の入り口へと向かった。
公園内もすごいことになっているが、入り口もすさまじかった。公園内の猫の何倍もの猫が、虎視眈々と外にある道路や向かいのスーパーの駐車場から睨みつけている。彼らは援軍に駆け付けたいのだろう。だが、公園の境界ではネズミたちが人間顔負けの密集陣形を組んでおり、容易に入れない。これほどの異常事態にもかかわらず、通りかかる人はおろか、近隣の住宅から顔をのぞかせる人さえいないことにサトシは一瞬戸惑う。しかし、公園入口のすぐそばで、猫たちに囲まれ立ち尽くす少女を見つけるとその違和感も吹き飛んだ。
「迎江さん!」
「あっ、丑前さん!?」
サトシは、ネズミたちをつぶさないように気を付けながらイロハのもとへ向かう。イロハの周りを警戒するようにうろつく猫たちを追い払うと、イロハの横で片膝をついて屈んだ。
イロハは、以前よりかなり痩せ、小柄な体がさらに小さく見えた。だが瞳だけは変わらず、むしろあの頃より強い光を宿していた。
「よかった!大丈夫なの、迎江さん!?」
「はい。私は平気です!それより、王様は?」
サトシたちは、今まであったことと、今日の夜のことを短く話す。話を交わすにつれ、イロハの表情は硬くなっていった。
「やっぱり、箱音さんが、原初の猫の味方……」
イロハは瞠目する。彼女もまたサナエとは親しく、彼女の依頼に応じてインタビューをしたことがあるくらいだ。できれば、フォローしてあげたいものの、今はそれどころではない。
「もしかしたら、まだきついかもしれないけど、一緒に王様のところへ来てくれないかな?」
「もちろんです。一緒に行かせてください!」
サトシは頷くと、イロハに背を向けてしゃがみ込んだ。意図を掴み切れず首をかしげる彼女へ、サトシは言った。
「ここから、急ぐとなると、迎江さんの足だと大変だろうから」
ようやく何がしたいのか理解したイロハは、サトシの背に体重を預けると、彼の首に腕を回した。イロハがずり落ちないように彼女の太ももを抑えると、サトシは立ち上がる。想像以上に軽い彼女を負ぶったまま、サトシは再びネズミたちの陣営を跨ぎ、公園の入り口へ入っていった。
イロハを背負ったまま、サトシは王様のもとへと駆けていく。入り口へ向かった時は、何匹もの猫が襲い掛かってきたのに、今は猫たちが向かってくる気配はない。それどころか、文字通り尻尾を巻いて逃げるものもいるくらいである。サトシが不審そうに思った時、イロハがサトシの耳元でつぶやいた。
「おそらく、今の私を怖がっているのだと思います」
「えっ!?迎江さんを、猫たちが!」
「はい、王様猪の加護がある、からだと思います」
随分と都合の良い加護であるが、今の状況ではありがたい。足元の生き物だけを気にしながら、サトシは急いだ。
「加護もうれしいし、迎江さんが、重くなくて助かるよ!」
「えっ、あっ、その。……あ、ありがとう、ございます」
「ところで、ごめん。もう少しだけ上の方へ乗ってくれないかな?」
「は、はい!」
その言葉で、イロハはサトシの背中に少しだけ強くしがみついた。イロハの体温が服越しに伝わってきたとき、サトシは、体温以外に伝わる感触があることに気が付いた。
(んっ……)
イロハのズボンポケットであろうか。なにか、棒状の物の感触がした。突き当たるような感触に少し眉を顰めるサトシであったが、ようやく王様たちのところへとたどり着いたため、聞くことはできなかった。
公園中で、猫とネズミが足の踏み場もないくらいに乱闘を繰り広げている。だが、生物園の正面だけは、王様とサナエ以外、生き物はいなかった。迂闊に入り込めば、二人の交わす呪文や攻撃の巻き添えになってしまうのが猫にもネズミにもわかっていたのだ。
『キサマァ!』
夜の闇の中でもはっきりと見える巨大な猫型の影が、王様へと一瞬で詰め寄る。だが、それを間一髪後ろへ飛びのいた王様が、杖を振って白い閃光を放つ。すさまじい速度で向かってくる光の線条へ原初の猫が爪を突き立てた。その瞬間、閃光は激しいフラッシュを放つ。
遠くにいるサトシやイロハでさえ思わず目をつぶるほどの光を、間近に見た原初の猫が苦しそうに呻く。連動するかのように顔をゆがめたサナエが、がむしゃらに腕で薙ぐ。ロクに見えていないのか、あちらこちらへ手を振り回し、そのうちひとつは、サトシのほうに向かっていた。
「危ない!?」
夜目が利いてきたサトシが、サイドへステップをして、斬撃を避けた。だが、その反動と斬撃の余波でバランスを崩して転んでしまう。背中のイロハが傷つかないように気を付けたのだが、そのせいで、思い切り顔面を地面へ打ち付けてしまった。
サトシの顔に痛みが走る。痛みに呻きながら顔を上げると、鼻の穴から生暖かい感触が伝った。鼻を打ち付けた衝撃による鼻血であるのだろう。
「あ、あの……丑前さん、大丈夫ですか!?」
「だ、大丈夫!それよりも、やっと着いた」
サトシの背中から降りたイロハが心配そうに手を差し伸べる。その手を取ったサトシが痛みをこらえながら立ち上がると、きな粉色のネズミに向かって声を上げた。
「王様!迎江さんを、連れてきましたよ!」
サトシの声に反応して、王様グンディがこちらを向いた。
『でかした!聞け!原初の猫よ!』
まだ苦しそうに悶えている影状の猫とサナエへ、王様が一喝した。
『コノ、ナニヲ……』
『貴様が余の杖を狙っていることは知っておる。今はそれを責める気はない』
「偉そうに……!」
やっと、前が見えてきたサナエが憎々し気な表情を王様グンディへ向ける。それを無視して、王様が話を続けた。
『言ったであろう、今宵こそ五万年の因縁に決着をつける、と。なあ、猪、よ』
『おやおや、小さな若造が。一丁前な口を利くもんじゃないよ』
王様がそう言った時、サトシの横にいる少女が口を開く。だが、よく知ったイロハの口調ではなかった。
「えっ、迎江さん?今、なんで、そんな?」
突然のことに困惑するサトシへ、イロハも少し驚いたように顔を振る。だが、イロハの口が再び開くと、イロハの声色で、イロハとは違ったものが続けて語る。
『ごめんねぇ、イロハちゃん。それにそこの小童。頭の軽さの割に、随分勇敢だったねぇ。だけど、おかげで想像以上に早く付けたわぁ』
『マサカキサマ、エヴァ!?』
全く状況がつかめず余計にこんがらがるサトシであるが、割り込むように原初の猫の声が響いた。
『なつかしいねえ、キジ。そのような姿になり果ててまで、妄執を捨てられぬか』
旧友に話すかのような口調をする『何か』へ、キジィと呼ばれた原初の猫が怒り狂ったような声を上げた。
『ウルサイ!キサマニナニガワカル!カミサマノツエヲウバッタクセニ』
『奪ったわけではないよぉ。その証拠にほら!イロハちゃん、この前渡したものを出してごらん』
そう言ったイロハは、ズボンのポケットへ手をまさぐり入れると、一本の木の棒を取り出した。
二十センチほどの長さの古い木の枝であるのだが、ささくれひとつ見当たらない。そして、その枝の先には王様の杖の宝玉と同じ形の赤い石がついていた。
サトシも、サナエさえも、その杖を目を大きく開いて見る。イロハを介して話す王様猪は少し愉快そうな声で告げた。
『これが、そのネズミのご先祖様がキジへ渡そうとした神様の杖だよぉ。五万年越しにようやっと渡せるよ』




