厳冬の夜、あなたと……
この章には戦闘描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。
獅子宮病院を退院して、五日が経った。リハビリを担当していた理学療法士が驚く程すぐに回復したイロハは、今は家でのリハビリに専念していた。すでに、松葉杖なしでも歩けるものの、何の補助もなく歩くにはいささか不安が残る。今日も祖母が使っていた杖を手に家の周りを中心に散歩をして、体力を戻そうとしてきたところであった。
退院して以来、大里アリナや石沼カズキらクラスメイトがお見舞いに来てくれた。特に、アリナとその友人たちは塾のない日は毎日やってきては、塾の勉強に付き合ってくれたのだ。
「あなた、相当遅れているのよ!先生からフォローアップ用の教材を持っていくように言われたから、一緒にやってあげるわ!」
塾の先生が、特別に作ってくれたプリント集を四人でやっていると、それが勉強ではあるものの心躍る気分となった。テストを受けることができなかったためか、一番下のクラスまで降格となってしまったのは残念であるが、逆に言えばこれ以上下がることはない。こうなってしまった以上、今まで以上に励んでいこうと、イロハたちは妙な前向きさで勉学に励んでいた。
「うーん。もっと長く動けるようになればいいのにな」
今日は、アリナたちは塾の日であり、ここには来ない。既に日は落ち、イロハは自室の勉強机の前に座って独り言ちた。日に日に回復している感覚はあるものの、もともとスポーツが大の得意というわけでもなく、特に持久走は下から数えたほうが早い成績のイロハは、家の周りを歩くだけでも疲れてしまう。フォローアップのプリントを一枚こなすと、身も頭もヘトヘトになってしまった。
「せっかくなら、王様猪ももっとすごい力をくれればよかったのに……」
疲れのせいか、普段は思わない罰当たりなことまで考えてしまう。王様猪がいろいろと今までのことを見せてくれたし、その加護の力を受け取ったものの、イロハは今までそのありがたみを感じることはなかった。歴史にめっぽう強くなったわけでもなく、王様グンディのような強力な力が使えるようになったわけでもない。
「これじゃあ、王様のところに行くことができるようになるまで、どれくらいかかるのかな……」
イロハが、ため息をついたとき、突然声が響いた。
『案ずることはない。余は寛大である。床に臥せる侍女のため、このように行幸に来ることもできるぞ』
それは、あまりに懐かしい響きであった。実際には、半年にも満たない程だが、王様猪といた期間のせいで、随分と昔であったような気がした。
「えっ!?お、王様……!」
『ふむ。幽世にいたようだが、無事に戻ってこれたようだな』
窓をすり抜けて、王様グンディがイロハの部屋に入ってきた。彼は、キラキラと光るシャボン玉のようなものに包まれ、フワフワと浮いていた。おとぎ話から出てきたかのような現実感のない牧歌的な光景に唖然とするが、しだいにイロハは鼻の頭がジンと熱くなってきた。
「王様ぁ!会いたかったです……」
『侍女も近寄るでない!そなたまでも、下僕のようなことをするな!』
思わず抱きしめようと立ち上がりシャボン玉ごと手に掴もうとしたイロハを、ヒョイっとよけながら王様は注意する。王様が一番高い箪笥の上まで来ると、シャボン玉がパチンとはじけて文字通り降り立った。
「王様、力が戻ったのですか!」
『左様、下僕の尽力でこの通り、宝玉が元に戻ったのよ』
王様が、イロハの声に応えて、杖を取り出す。その先端には、緑のキラキラとした宝石がちょこんと乗っかっていた。
「王様!そういえば、王様猪という人に出会いました!」
『ふむ。侍女が出会った王の名はそう言うのだな』
「はい!彼女から、聞きました。王様の杖のこと、そして原初の猫と何があったのかについても!」
そういったイロハへ、王様グンディは杖をしまうと、いつもの四つん這いの姿勢となり、向き合う。
『なるほど、その話を聞きたいのはやまやまであるが、ここへは遊びに来ただけではないのだ』
遊びには来ているんだ、と内心思いながらも、イロハもまた、真剣なまなざしできな粉色のネズミに向き合い直す。王様は、続けた。
『風雲急を告げる事態である。原初の猫がまもなく戦いを仕掛けてくるであろう。そこで多くの血が流れるか、無血の結果となるかを決めるのは、そなたの言葉がカギとなるやもしれぬ』
「カギ?私の言葉が?」
『左様。そなたは、原初の猫の憑代とも仲が良い。そして、別の王の加護もあり、事の真相を相手に伝えることのできる可能性が最も高いと、余は見込んでおる』
「えっ!?私、そんなことできますか?」
王様が期待をしてくれていることはうれしいが、ここまで言われてしまうと買い被りすぎではないかと感じてしまう。慌てるイロハへ、王様は真剣な口調で言った。
『信頼できる第三者からの言葉は、時に何よりも伝わる。そなたが、今宵起きるであろう戦争を止める立役者となるのだ』
「そ……そんな……私そんなことできません!」
『できなくとも、やらねばならぬ。侍女は王様猪とやらから啓示を受けておるのであろう。それを伝えることができるのはそなたのみである』
その時、王様グンディが急に顔を見上げた。すると、杖をどこからともなく取り出して、一振りする。たちまち、来た時のようなシャボン玉に覆われた。
『下僕が少し大変なようである。全く、油断をするなと言っておいたのに……』
そう言って、シャボン玉が王様を入れた状態で浮いた。王様が、イロハの方を振り向くと、優し気に言った。
『そなたは焦らず、決意を固めて、今宵、生物園に来るがよい。決心無き心持ちで来られても、ことはうまくいかないのでな』
王様はそのまま、窓を再びすり抜けて、出ていった。後には、イロハだけが残された。
(私にしか、できないこと……!)
イロハはそのことを何度も咀嚼する。
戦い、と王様は言った。何にせよ、荒事が起きるのであろう。イロハの人生に無縁であるそれを想像するだけで、震える。
だが、何もせず、部屋の中で安穏とするのもまた嫌であった。むしろ、これのために王様猪にあったのだとさえ思えてきたのだ。だんだんと、胸が暖かくなる。それは胸に秘めた王様猪の加護が、イロハの決意を後押ししているかのようであった。
イロハは、立ち上がると、外へ出るための支度を始めたのだった。
***
この日の夕方、サトシは湾岸区の芝橋公園駅にいた。地下鉄駅である改札前は決して広くないものの、カップルを待つ人や、一緒に出口へ上がっていく人たちであふれていた。既に日が落ちて、地下にまで寒気が垂れこめているというのに、ここにいる人たちは皆、幸せと顔に書いてあるかのようであった。
これについては、サトシもまた、例外とは言えなかった。彼は、チェスターコートの下にカシミアのセーターとグレーのテーパードパンツを着ている。この日のために、インターネットで情報をかき集め、アルバイトで貯めた貯金をはたいて買ったのだ。着るのだって今日が初めてである。
「遅いな……」
スマートフォンの時計を見たサトシはつぶやく。約束した時間からまだ一分もたっていないのに、サトシの胸中はぐらぐらと揺れているようであった。相手は原初の猫の関係者かもしれないとはいえ、約束を破られればやはりいやな気持にはなる。
——だがそんな不安な思いは、ホームから上がってきた、見慣れた女性の姿を見た途端吹き飛んだ。
その姿は、いつも見ていた姿とはまるで違っていた。生物園では、サナエの私服はシンプルで動きやすいズボン姿であった。だが、サトシに近寄ってきた彼女は、太いフリンジのあるベージュのマフラーを巻き、白いステンカラーコートとネイビーのマーメイドスカートを履いていた。その姿は、大人の女性の気品さと美しさを醸し出していた。
「おまたせ!サトシくん、待ったかな?」
普段とは異なる雰囲気のサナエが、いつも通りの優し気な笑みで聞いてきた。サトシも、洋服にはこだわっていたつもりであるが、今のサナエの前ではまだ不足ある気がしてくる。硬直したサトシを少し見つめたサナエが、フッと笑った。
「そんなに固くならないで!今日は楽しもうよ!それじゃあ、案内よろしくね、サトシくん!」
そう言って、サトシの手を取った。サトシはカチカチになりながら、目的地に出るための出口へと向かった。
***
芝橋公園は、そこまで広い公園というわけではない。しかしながら、その歴史は古く、この国が文明開化を迎えて数年後には開園したとも言われている。その間、戦争があり、一部がホテルになり、昔の面影はほとんど残っていない。
そんな公園の、多目的運動広場のある区画で、クリスマスマーケットは開かれていた。駅出口に近い入り口から入った先の道は、東都電波塔が正面に見え、ドラマのロケにもよく使われている。すでに日がすっかりと落ちており、オレンジ色の街灯が、道行くカップルや親子連れを暖かく照らしていた。
入場ゲートとまで、百メートルくらいしかないが、サトシたちは静かに、しかしゆっくりたっぷりと時間をかけて歩いていた。外気に当てられひんやりとしているのに、サナエの手は柔らかい。その心地の良い感触で、サトシの心拍数はどんどんと上がっていく。
「箱音さんって、手がきれいですね……」
ゲートでの支払いを待っている間、サトシが思わず言った。力仕事が多い飼育員の仕事をしているサナエの手がここまで柔らかく、滑らかなことに驚いたのだ。
「ふふっ。やっぱりこの仕事しているとね、手荒れが気になるよね」
「あっ、そういう意味では……」
「実は、卯月さんからおすすめのハンドクリームを教えてもらってね。それを塗っているんだよ!」
卯月は、生物園の事務型の実質的なトップであるが、そういうことに詳しいことは知らなかった。
「そう、何ですね」
「サトシくんは男の子だし、知らなくても仕方ないよ!でも、生物園の女性はみんな使っているんじゃないかなー?」
そういうつながりがあることすらよく知らないサトシは頷くしかできない。そうこうするうちに、サトシたちの番になり、受付で入場料を支払うと、いよいよマーケットの中に入った。
ここまで来る道もにぎやかであったが、中はお祭り騒ぎであった。円状の多目的広場を囲むように屋台が出ており、中央には巨大な木製のツリーが立っている。数段組みのツリーには、ところどころにくるみ割り人形やろうそくが飾られ、ツリーの周囲を回っている。てっぺんには、半径が二メートルほどの巨大なプロペラがあり、下の人形と一緒にゆっくりと回転していた。
「これは、クリスマスピラミッドっていうらしいですよ」
「そうなの、クリスマスツリーじゃないんだ」
「よく似ていますけど、こっちのほうが歴史があるみたいですね」
サトシがあらかじめ仕込んできた小話をすると、サナエは微笑んだ。
「よく知っているんだね!ねえ、あのてっぺんのプロペラは何かな?」
「あれは、下でろうそくを燃やすと、その熱で回転する仕掛けになっているらしいですよ」
もっとも、これほど大きなツリーにそのような仕掛けはなく、モーターを使い回しているのだろうが、それを言うのは無粋であろう。
「私、こういうの見るのは初めてだから、知らなかったよ!サトシくん、ありがとう!」
そう言って、サナエはクリスマスピラミッドを眺める。本当に楽しいのだろうか、まるで子供のように目を輝かせ、周囲の白熱電球の光で照らされていた。
(こんなに楽しそうな箱音さん、見たことないな……)
ほかの店を回ることも、何かを食べることも忘れて、サトシはサナエのほうを見た。少し前のサトシであれば、新たな彼女の一面を知れて純粋に喜んだだろう。だが、今は王様グンディの言葉がちらついて、離れない。
(本当に、箱音さんが憑代なのだろうか?これほど、楽し気にしている箱音さんが……?)
あんまりにもじっと見ていたせいか、サナエが目線に気が付くと、少しはにかみながら握っていない方の手で顔を隠した。
「サトシくん、少し恥ずかしいよ……」
「す、すいません……つい、見上げているその顔がきれいだったから……」
思わず言ってしまった言葉にサトシは自分が恥ずかしくなるが、サナエもまたキョトンとし、やがて嬉しそうに笑った。
「もう!そう言うのは、もっと素敵な人に言わないとだめだよ」
「ええっ!?いや、今のは……」
「でも、そう言われたことはほとんどなかったから、嬉しいな!」
サナエはそう言うと、屋台のほうを指さした。
「なんか、おなか減ったなー!せっかくだし、色々食べようよ!」
「わ、わかりました!?」
そうして、サトシたちは湯気薫る屋台へと向かっていった。
***
結論から言うと、あまりご飯は食べられなかった。
値段が高く、サナエが遠慮したため、二人で一つのピザとホットチョコレートしか食べなかった。
「おいしかったね!」
それでも、サナエは楽しそうに微笑んだ。先ほどから、女性のミュージシャンが舞台でクリスマスソングを歌っている。あなたと一緒なら寒い冬も暖かい、といった内容だろうか、今の雰囲気にはぴったりの曲である。
「あの、箱音さん、この後暇ですか!?」
歌手が歌い終わり拍手が鳴りやまぬ中、サトシは思い切って聞いた。
「えっ、それはどういう意味かな?」
訝しむように聞くサナエの態度に、サトシは慌てて手を振り言った。
「あっ、やましい意味はないんですが、すぐ近くに、落ち着いて話せる公園があるんですよ。もしよければそこまで行きませんか?」
「いいよ!私は全然大丈夫だよ!」
サトシたちは少しだけ、屋台を巡ったのち、五分ほど歩いた場所にある、公園へと向かった。
こちらの公園も厳密には芝橋公園ではある。だが、よくイベントが行われる多目的広場とは違い、東都電波塔がある丘の下は夜になると人が少なくなる。街灯もほとんどなく、不気味とさえ思えるほど薄暗い。
「こんな場所があったんだ」
「あんまりイベントとかもなくて、人は少ないのですが。なんか、落ち着きませんか?」
だが、サトシはこちら側も好きであった。小さな流れがあり、そのさざめきを聞いているとどことなく心が落ち着く。クリスマスマーケットの喧騒も、ほぼ真上の東都電波塔の輝きもここだけは素通りしていくようであった。
軽く冷たい風が吹いて、葉の落ちた枝が揺れる。だが、ベンチに腰掛けたサトシたちは気にすることもなかった。二人の距離は自然と近くなり、やがて吐息が感じられるほどの距離となった。
「今日は楽しかったねー!」
「いろいろと拙かったですけど、喜んでもらえてよかったです」
サナエが首をかしげて微笑む。遠くの街灯に微かに照らされわずかに影を帯びたその顔は、先ほどとは異なる大人の女性らしい美しさを帯びていた。
「良いんだよ!でも、よくこんな場所知っていたね!」
「この辺は、僕の通っていた小学校がありまして、よくこの辺で遊んだんですよ!」
先ほどの芝橋公園には、参上口小学校という学校がある。学校が終われば、ゲームをするか公園で遊ぶかの二択であった小学校時代を思い出しながら、サトシが言った。
「すごーい!こんな都会の小学校に通っていたんだ!」
「まあ、僕がすごいわけではないんですけどね。箱音さんはどうなんですか?」
「……ねえ、その『箱音さん』っていうの、今はナシで。なんか距離感感じちゃうな」
唐突に、口をとがらせてるサナエが顔を近づけながら言った。サトシは、唐突なことに、目を白黒させる。
「い、良いんですか!そ、そんなこと!?」
「えー。だって、こんな雰囲気じゃん。いいよ!今は」
「え、ええっと、そうしたら、サナエさん。サナエさんは小学校時代どうでした?」
バグバグと音を立てる心臓が胸を破って飛び出しそうになる。そんなサトシを、サナエが笑いながら見て、そして言った。
「あんまり、話すことはないかなー。どこにでもある小学校で、私の当時は学校が済めば、友達と校庭で遊んで、あとは神社によく行ったことくらいかな?」
「神社?前に話していた大きいっていう神社ですか?」
「そう!前も話した通り、私の家が神主さんの御用聞きのようなことをしていてね、その縁でいろいろと話してもらえたんだよ!」
その瞬間、不意に何か違和感を感じた。例えるなら、日常を写した写真に異物が紛れ込んでいるような、何か引っかかるようなそんな気持である。頭に一度浮かんだそれをサトシは払うことができずに、聞いた。
「あの、サナエさんはどういう話を聞いたんですか?」
「ふふっ、懐かしいなあ。いろいろだよ!町の歴史や神様のこと、でもね──」
サナエはサトシに密着した。ドキッとして離れようとするサトシの肩に片方の手を回し、もう片方の手を彼の胸元にやる。そうして、真っ赤になったサトシの耳元に唇を当てると、いつになく優しい声で囁いた。
「——一番聞かされたのは、憎くて憎くてたまらないネズミについて、だよ」
次の瞬間、サトシの胸をサナエの手が貫いた。サナエは、先ほどまでと変わらない、妖艶な笑みを浮かべていた。
***
痛みはなかった。ただ、胸部にありえないものが突き刺さった衝撃だけである。
何が起きたのかわからないサトシは目を大きく見開くが、サナエは不思議そうな顔をするばかりであった。
「……あれ?なんで、血の一滴も……?」
サナエの笑みが崩れ、首をかしげて言う。その瞬間、サトシが首からかけている王様鮫の歯が弾けた。歯が弾けるなどサトシは聞いたことがなかったが、ほかに例えようがない。サトシは、数メートルほど吹き飛び、そのまま地面にたたきつけられた。
「ネズミ以外の加護もあるんだね。それは予想外だよ、サトシくん」
「はあ……はあ……、どうして、サナエさん!」
背中全体に広がる痛みを抑えながら、サトシが叫んだ。もはやサナエからは、先ほどまでの優し気な雰囲気消え失せ、何を考えているのか分からない仮面でも被ったような表情となっていた。
「サトシくんさ、まえに、『マリク・ジュルズ』って言ったよね?」
唐突なことに混乱するサトシへ、サナエが投げつけるように続けた。
「あの時、大変だったんだよ。大猫さまが殺せ殺せ言っていて、抑えるのが」
「そ、そんな……」
「まあ、そんな気はしていたんだけどね。サトシくんと、きっとイロハちゃんも、あのネズミの味方なんだって」
獲物を怯えさせるようにゆっくりと近づくサナエから後ずさりするサトシは、再び叫んだ。
「なんで!?なんで、サナエさん、あ、ありえ、ありえないのに!?」
「それ、あのネズミと話せるサトシくんが言うことかな?まあ、いいか。もう大猫さまを宥めるのは限界、ネズミの仲間は一族郎党根絶やしにしろって私の中で声が響いているの」
急に、サナエの背後の影が蜃気楼のように歪む。歪みは見る見るうちに大きくなり、やがて巨大な猫を連想させる形に変貌した。
「だ、誰か!助けてください!」
「無理だよ。大猫さまがこの辺りに結界を貼ったからサトシくんの声は外には聞こえない。それじゃあ、本当にさようなら」
サナエが腕を伸ばすと、彼女から湧き出る影がサトシのほうへ襲い掛かる。サトシが無様に横へ転がった瞬間、先ほどまで自身がいた地面に巨大な猛獣の爪痕のような跡が出来上がる。みるみる顔が青くなるサトシを、表情一つ変えないサナエが見下ろしていた。彼女は、何も言わず再び手を向けてくる。
サトシは、今まで荒事はもちろん、子供同士のけんかでさえロクにしたことはない。無我夢中で這いずり回り、影からの斬撃から逃げまわっているうち、気が付いたら流れのそばまで来てしまった。
「うわっ!?」
サトシは転がりまわった勢いで水に突っ込んだ。この流れは人工のもので、十センチも深さがない。それでも、全身冬の冷たい水まみれとなり、さらに流れにはまったことでそれ以上逃げ場がなくなってしまった。
「や、やめて!?助けて、お願い!」
「残念だけど、無理なの。でも、安心して。あっちの世界には、みんなすぐに行くからさみしくはないと思うよ」
別に残念そうには思っていない口調で、サナエがつぶやくと、死刑を宣告するかのように手を振り下ろした。サトシは、少しでも避けようと身を縮こませ、頭をかばった。
だが、予想していた痛みや衝撃は全く来なかった。サトシの脳内に透き通るような声が響いた。
『だから、言うたではないか。用心をせよと』
シャボン玉のようなものに入っている王様グンディが、いつの間にかサトシの前にいた。彼が杖を掲げており、サナエは振り上げた手をそのままの状態に、焦りの表情を浮かべていた。
「お、王様!?どうしてここが!?」
『貴様に持たせていた余の毛の気配が突然消えたのでな。不審に思っただけよ。それより、さすがに、今はあちらに集中せねばな』
そう言うと、王様グンディがサナエのほうを向いて言った。
『余の言葉が聞こえているであろう。原初の猫とその憑代よ!』
王様の声に、サナエは今度は憤怒の相を表す。そんなことを意に介する様子のない王様は続ける。
『この下僕にも多少の落ち度があるとはいえ、よくも手に掛けてくれたな。この代償は軽くはないぞ』
『ダマレ、ウスギタナイネズミメ』
その声はサナエから発せられたものではなかった。サナエの後ろの影から地を這うような声が響く。その声に共鳴するかのように周りの立木が震えた。
『貴様に会うのも実に一年ぶりであろうか。その様子であれば、息災のようであるな』
『コノヌスットメ、イマスグヒキサイテクレル』
『口先のみの威勢は、却って空しく響くぞ。だが、ここは少々賑やかすぎる。再開を祝うにはもっとふさわしい場所があるでな』
その言葉を合図にしたように、王様の入っているシャボン玉がどんどん大きくなる。しまいにはずぶ濡れのサトシまで包み込んだ。
『余の聖域で待っておる。逃げも隠れもせぬ。そこでなら、思う存分話ができるでな』
サトシと王様グンディを載せたシャボン玉がふわりと浮いた。微塵も動かないサナエが真下に見えるくらいの高度に達すると、王様が言った。
『待っておるぞ、今宵こそ五万年の因縁に決着をつける時である』
そうして、シャボン玉はそばにある東都電波塔のてっぺんが真横に見えるほどの高さまで達すると、生物園目指して、北へと飛んでいった。
『まったく、世話を焼かせる下僕である』
のんびりと飛ぶシャボン玉の中で、王様がサトシのほうを向いて言った。
『あ、あの、ありがとうございます』
『フンッ。まあ、これではっきりしたであろう。あの女の正体が』
サトシは、先ほどまでいた芝橋公園を振り向く。輝く東都の町の中、公園は真っ暗で、サナエの姿は当然見えない。
『サナエさんが、そんな……』
『失恋に浸っていたい気持ちは分からんでもないが、少々急がなくてはな。原初の猫がのんびりとしているとは思えん』
そう言って、再び王様は進行方向へと向いた。
『しばらくは、泣いているがよい。この飛行球は、貴様の涙ほどでは壊れないのでな』
サトシは鼻をすすった。それは、流れに落ちて冷えたからだけではなかった。




