砂漠のオアシス拡張中、下僕の恋路邁進中
「どうした、ウシ?緊張しすぎて眠れなかったか!」
宿直室で目覚め、仕事の支度をする園長が、サトシの肩を軽くたたき、ガハハと笑った。
「え、ええ。なかなか寝付けなくて……考え事を……」
サトシは、疲れたように肩をすくめながら答える。もっとも、内心では我ながら適当なことを言うのがうまくなった、と苦笑しているのだが、それはおくびにも出さない。
「まっ、ウシの夜勤は、今年はこれで最後だ。今日はもういいから、ゆっくり支度したら、家帰って寝るんだな!」
そう言うと、園長は宿直室を出ていく。後には、いまだに寝間着姿で佇むサトシだけが残された。
『あの男が去ったようであるな。やっと、心置きなく話せる』
直後に、王様の澄んだ声が響いた。サトシは、のろのろと着替えをしながらその声を聞いていた。
『ありえない。箱音さんが、グンディを襲った犯人なんて……』
『貴様、いまだにそのようなことを言っているのか?すでに状況証拠はそろっておる』
『いや、それでもまだ決まったわけじゃないでしょう!』
宝玉を擬岩に隠すだけなら、別の人間、下手したら動物にだってできる。事実は、サナエの作った擬岩の中に、宝玉があったということだけだ。必死に、彼女が無関係であることを推理しようとするサトシへ、王様の呆れた声が聞こえた。
『下僕が、あの女に懸想していることは知っておるが、いささか度が過ぎておるぞ。それでは、嵐を前に、砂に頭を突っ込む駝鳥同然であろう』
『……それでも、考えられませんよ。箱音さんが、どれほど王様や妃たちに献身的だったかご存知でしょう』
『あの女が献身的であったことは認めよう。だが、それはあの女が憑代ではない根拠にはならぬぞ』
『しかし、普通殺そうとした相手にそんな尽くしますか?毒でも入れれば、話は全て終わったのに!』
サトシの叫びに、王様が冷静に答えた。
『確かに、毒程度に気付かぬ余ではないとはいえ、あの女が今まで余たちを害そうとしなかったこと。それは、検討の余地がある』
『でしょ!だったら……』
『なら、そなたが確かめてみよ。あの女の無実を証明してみせよ』
『……わかりましたよ。その代わり、箱音さんが関わりなかったら、箱音さんへ謝ってください』
サトシにも譲れないものはある。売り言葉に買い言葉であるのはわかっているが、それでも答えた。
『ふん。面白いではないか。下僕よ、やってみるがよい』
『謝罪、忘れないでくださいよ』
『言われなくとも、わかっておるわ。それより、あの女の無実を晴らす方法を教えてやる』
なぜか愉快気に言う王様の言葉を、サトシは荷物をまとめながら聞いていた。
『あの女に会ったら、こう言うがよい。『王様ネズミが貴様の主に会いたがっている』と』
『マリク・ジュルズ……何かの暗号ですか?』
いきなり知らない言葉を言われ、困惑するサトシへ王様が補足するように言った。
『余の一族が持つ、真の称号よ。原初の猫ならば、この言葉に反応をするはずである』
『……わかりましたよ。言えばいいんでしょう、言えば』
『それともう一つ、憑代であるならば、体のどこかにそれを示す徴がある』
『なんですか、徴って?』
『それは分からぬ。尻尾が生えているかもしれぬし、猫のような瞳孔を隠し持っているやもしれぬ。だが、貴様のネズミ面と同じように、必ずあることは確かである。よく気を付けることだ』
サトシは、荷物を片付けると何も言わずに、宿直室を出ていった。
***
同じ朝、獅子宮病院のある個室で、少女は眠っていた。
点滴で最低限の栄養は取れているとはいえ、すでに倒れてから一か月半が経つイロハの体は、誰が見てもわかるほど痩せこけていた。本来なら、成長期を迎え大きくなるはずの体は、全く動かないためか筋肉が落ち、骨が浮かび上がっている箇所もある。
なぜ、迎江イロハが目を覚まさないのか、医者には皆目見当がついていなかった。イロハの主治医はもちろん、脳神経外科や神経内科の先生が総出で調べ上げても、分かったことは、彼女が健康体であることだけだった。何かの病気があるわけでも、外傷を負ったわけでもない彼女は、意識だけがきれいさっぱりなくなっているのだ。とうとう一週間前には、根気強く呼びかけてくださいと、半ば匙を投げるかのようなことを家族に言う始末であった。
だが、イロハの精神と感覚は、その小さな肉体には囚われていないことに気づく人はいない。いや、今や彼女は時間も場所も超越した場所にいることは、王様グンディでさえ想像していなかった。
『そういう、ことだったんだ……』
イロハは、無限に広がる真っ白な世界で、王様猪の『背』に乗っていた。これも、厳密には不正確で、この世界は白いわけでも広いわけでもない。また、すでに肉体を持たない王様猪には、背も腹もなかった。それでも、イロハがここを『白くて広い世界』と認識したため、世界は白くて広くなり、そこを『王様猪の背』と認識したため、イロハは王様猪の背に乗っているのだ。
あらゆる定義も原理も歪み溶け落ちているこの世界は、すべての時間を無視するし、あらゆる空間のつながりも飛び越えられる。その世界の中で、イロハは、地上で今まで何が起こったのかを見てきた。
イロハには分からなかったが、この世界では、果てしない地上が小さなポケットに収まるし、無限の時間が一瞬もかかって流れる。もし、イロハ一人であったなら、その厳然で曖昧で溶けそうなこの世界で瞬く間に意識が雲散霧消して、永遠に世界と一つになってしまっただろう。だが、王様猪の『背』という確かなもののおかげで、イロハはむしろ快適さすら感じていた。
『はい、おしまいだよぉ。長い間よく頑張ったねぇ、イロハちゃん』
王様猪の優し気な声が響き渡った。今のイロハはもちろん補聴器などしていない。だが、その老婦人のような声は、心で聞くより深くイロハには伝わった。
『だから、あの猫さんは、王様を狙ったんですね……』
『すこし、わかるようになったじゃないか、イロハちゃん』
『そして、王様がしなくちゃいけないことも、今ならわかります!』
自信たっぷりに言うイロハに、王様猪は良い回答をした生徒をほめるかのような口調で言った。
『いいねぇ。イロハちゃんのような、覚悟のある子は好きだよぉ』
気が付くと、イロハと王様猪は元いた地上にいた。そこは、イロハが良く見知った場所であった。
『ここは、獅子宮病院……それに、これは私!?』
五十センチほど空中を浮いているような感覚のイロハは、目の前で眠る痩せた少女が自分であることに気が付いた。眠るイロハの横にある机には、使い慣れた補聴器が二つちょこんと乗っていた。
『こんなになるまで……あの、今は何日ですか?』
『ふほほ、少し長く話過ぎたねぇ。今は冬至の三週間前さ』
イロハは、補聴器の横の卓上カレンダーを見て、驚いた。冬至の三週間前ということは、イロハが王様猪と、今までのことを知るたびに出てから一ヶ月半経過したということになる。
『ごめんよぉ。でも、何も知らない子にわかってもらうなら、これくらい必要だったのだ』
『分かっています。ありがとうございます!』
『イロハちゃんは、本当にいい子だねぇ。そんな良い子には、これを上げよう』
そう言った王様猪はイロハの前に初めて、確かな姿を現した。イロハより何倍もある体格に、昔の映画で見たような威厳と誇りを兼ねた顔をした猪は、イロハにもわかるくらい柔らかな表情をしていた。彼女の体から、白い大きな光の玉が一つ出る。輝きを持つそれはフワフワとしかし確かにイロハの胸元へ来た。そして、まるでシャボン玉のようなそれが、スゥっとそのままイロハの体内へ入っていった。
不思議と暖かいその感覚に蕩けるイロハへ、王様猪は言った。
『私の加護だよぉ。イロハちゃんを危険から守り、求めるものを見つける手助けをしてくれるはずさ』
『本当に、本当にありがとうございます。いつか、絶対にお礼はします!』
『その言葉だけでいいよ。イロハちゃん!さあ、元の世界へお帰り。そして、良い人生を送るんだよぉ!』
その言葉で、イロハの感覚はすべて暗転する。自由落下する感覚のなか、イロハは元の世界へと戻っていった。
一ヶ月ぶりの肉体は、ひどく重たく感じた。何にも縛られない魂だけの状態とは違い、存在するだけで重力に引っ張られる感覚に難儀しながら、イロハは重たい瞼を開いた。普通の電灯のはずの照明がひどく明るく、薄く漂う消毒液のにおいが今は不快なほどに濃く感じる。
「イ、イロハ!?目が覚めたの!」
数か月前まで腰を痛めていたはずの祖母が、読んでいた雑誌を手から落とし立ち上がった。
「大丈夫!?どこか痛いところはある?」
今まで心配をかけてきたこと、そして、連絡を取らなくてはいけないことを伝えようとするが、唇は膠でもついているようにくっつき、あごは関節が固まってしまったかのように動かない。
「待っていてね。今、お医者さまを呼んでくるからね!」
祖母がナースコールを押し、イロハの手を握った。高齢者特有のひんやりとした掌が、今のイロハにはちょうど良いぬくもりに感じすこしだけ身体がほぐれたような錯覚を覚える。コールに呼ばれて来た看護師を見ながら、イロハは再び眠りについたのだった。
***
王様グンディが元に戻ってから、一週間経った。世間はいよいよクリスマスムードとなり、街にはポインセチアカラーがあふれかえっている。
だが、王様はそんな浮かれ具合とは関係ないかのように、何かの準備をしていた。
『まずは、この地を余の聖域としなくてはならない』
今日はアルバイトはないのだが、サトシは王様を連れて公園を行き来していた。なんでこんなことをしているのかを聞くと、王様はにべもなくそう言った。
『下僕にもわかりやすく言ってやる。余の力とこの地の水脈をつなげ、この公園にいる限り余の力が十二分に揮えるようにするのだ』
ただの公園に、随分とすごい設定をつけるものだ。すごいのか、すごくないのかいまいちよくわからないが、それ以上は何も言わずに言われるがままに、王様が行きたい場所へと向かう。
「ねえ。あの人、なんでトナカイの角を付けているの?」
公園に遊びに来た子供が、サトシを指さしながら言っている。
サトシの頭の上にいる王様は、傍から見ればトナカイの被り物に見えるらしい。そういうふうに王様が魔法で偽装した。
「きっと、クリスマスのイベントの準備よ!ほらっ、クリスマスは何が欲しいの?きっと、あのお兄さんが、サンタさんに伝えてくれるはずよ!」
そんなことを言いながら通り過ぎる親子を尻目に、サトシは池のほうへと向かう。
『ここでよい。止まれ』
王様グンディに言われて、池のふちまで来ると、彼はひょいっと頭から降り、その勢いのまま池へ飛び込んだ。急なことに目を丸くするサトシの前で、さらに目を丸くさせることが起きた。
『余は、水底にある、源泉へ向かう。下僕はそこで待っておれ』
水面の上に立った王様は、そのまま波紋一つ立てずに中央へと向かう。そして、少しずつ沈んでいき池の真ん中へ着くころには、すっかりと見えなくなっていた。
待っておれ、と言われても、手もちぶさである。サトシがスマートフォンでも眺めようとポケットを探っていた時、サトシへ声をかける声が聞こえた。
「あれ?サトシくん、どうしたの池の前で黄昏れてるけど?」
「あ、箱音さん!?」
厚手のコートに身を包むサナエに、サトシは飛び上がるくらい驚いた。
「もお、突然声かけられたからって、びっくりしすぎだよ!」
狼狽具合がおかしいのか、サナエが少し笑うが、サトシは笑うことができなかった。この楽しそうに笑うサナエが、王様たちを襲った犯人であるという疑惑がどうしても頭の中で鎌首をもたげるのだ。
「んっ?どうしたの?」
サトシが笑っていないことに気がついたのか、サナエも笑うのをやめた。
「い、いや。久しぶりですねー、って」
「あーごめんね。一週間くらい休んじゃったから」
サナエの言う通り、サトシの夜勤の日からサナエはずっと休んで実家へ戻っていた。
「明日から、また一生懸命働くからね!」
「あの、ご家族の方は大丈夫なんですか?」
「そっちも問題ないよ!近所の人たちが交代でお世話してくれることになったから、私はしばらくはこっちにいても平気になったの!」
どこまでが本当かわからない。家族の話だって、真実は不明だ。それでも、湧き上がる疑惑を抑えながら、サトシは言った。
「それなら、良かったです!そうしたら、クリスマスや正月もこっちで?」
「そう!まあ、一人で寂しく過ごすのは残念だけど、有休もほとんどないからしばらくは仕事に専念かなー」
「あの。だったら、良ければ今度、一緒にクリスマスマーケットに行きませんか!?」
自分でも思ってもいなかった言葉が飛び出し、今度はサナエが目を丸くした。
「えっ!?それって、なに?」
「あっ、クリスマスマーケットって言うのは、クリスマスグッズを販売する屋台が並ぶイベントで……」
「ああ、ごめんごめん。それは知っているんだけど、サトシくん、そういうところに行きたいの?」
これじゃあ、デートのお誘いじゃないか。サトシは少し後悔しながらも、後には引けない。
「僕の住んでいる場所の近くで、毎年クリスマスマーケットやるんですよ。そこがいろいろとおしゃれで、もしよかったら箱音さんも一緒にどうかな、って……」
サナエが、少し考えるように顎へ手を置いた。断られることを予想し、冷や汗をかくサトシへ、サナエが笑って言った。
「いいよ!私の夜勤とかもあるから、日程は調整が必要だけど!」
「えっ!?あ、ありがとうございます!」
「実は、家族以外の人とクリスマス過ごすの、仕事以外だと初めてなんだよね!だからさ、サトシくん、しっかりエスコートしてよ!」
そう言うと、時計を見たサナエが慌てて言った。
「いけない!もう行かないと!じゃあ、このことは、またメッセージ送ってね!」
そう言って、生物園のほうへと踵を向けたサナエに、サトシは王様から言われた言葉を思い出し聞いた。
「あの!一つだけ、箱音さんは、『マリク・ジュルズ』って知っていますか?」
その言葉に、サナエは考えるように首を傾げて、言った。
「知らないなー。私、流行とか教養とに疎いから。どういう意味なの?」
「すいません。僕もよくわからなくて」
「そうなんだ。そうしたら、それもクリスマスマーケットの時に一緒に調べてみようか、じゃあね!」
艶やかな笑みを浮かべたサナエが、手をひらひらと振りながら、生物園へと向かっていった。サトシは、体がボオッと暖かくなるのを感じながら、立っていた。
『して、余は話しかけてよいか、色ボケ下僕よ』
唐突にからかうような王様の声が響き、サトシの心身は冷や水をかけられたかのように急に冷めた。
『は、はい!終わったんですか!?いつ!?』
『随分と前にやるべきことは終わったわ。して、貴様は余が汗水垂らし手を打っているさなかに、主の仇かもしれぬ女と色恋沙汰とは。何か申し開きはあるか?』
王様が、サトシの頭に再び乗りながら言った。池の中に潜っていた割には、濡れている様子は全くなく、いつも通りのフワフワな毛並みが場違いながらも心地よい。
『……いえ、ありません……』
『まあ、良い。思わぬ収穫があったな。あの女、王様ネズミに反応していた。やはり、只者ではないな』
『えっ!?全く知らなかったって言っていたのに!?』
『心の目で見るのだ、愚か者よ。あの言葉に、隠しきれぬほど狼狽しておったぞ』
そんなことを言われても、そんな様子は微塵も感じられず、サトシは信じきれない。サトシから見たら、サナエは本当に知らないように見えたのだ。
『それでも、僕は信じないです』
『強情な下僕よ。まあよい、今日はこれくらいにしよう。余は疲れた』
展示ルームへ帰るよう言われたことを察したサトシは、サナエの行った道と同じ道をたどって、生物園へ向かう。力が戻ったといっても、まだ万全ではないようで、力を揮える時間は限られていた。
『でも、どうして、メウェをあのままにしたんですか?』
サトシは戻る道の途中で、気になっていた疑問をいつの間にか透明になっていた王様へ投げかける。妃たちも話せるようになったにもかかわらず、メウェは相変わらず群れではなくケージに一人でいた。少し可哀そうに思うサトシは以前、メウェを群れに戻すように王様へ提案したのだが、意外なことに王様はそれを断った。
『それはな。敵に余計な気付きを与えないようにするためよ』
『気付き、ですか?』
『そう、あの女も、猫どもも余が宝玉を取り戻したことに気付いておらぬ。それは、余らにとっては大変な優位である』
グンディたちの展示ルームの正面には、保護猫を飼育するスペースがある。王様グンディ曰く、その猫らもサナエの手先として見張っている役目を持っているのだが、赤ちゃんグンディが生まれた今は、展示スペースに目張りがされている。そのため、猫は王様たちの様子を知ることが難しいそうだ。
『今は、毛ほどにも余計な情報を与えたくはない。メウェには申し訳ないが、下手に動いて怪しまれるより、力のないふりをしている方が良いのでな』
『……わかりましたよ。ああ、着きましたよ』
いつの間にか、生物園の中へ入り、奥の展示室に入る。入ったところにあるグンディたちの展示スペースの前へ来ると、王様が透明なまま飛び降りた。
『余が戻った。大事はないか?』
『あっ、大きなのが来た!ねえ、大きなの!アタシも外に出してよ!』
ガラスをすり抜けた王様に、ライラが元気そうな声で言った。
『……余のことは、王様か父上と呼ぶようにと言ったはずであろう、ライラ』
『しらなーい。大きなのは、大きなのじゃない』
王様が諭すように言うが、ライラはそれを意に介することはない。王様といえど育児にはてこずることを知ったサトシは、苦笑いを浮かべた。
『それじゃあ、また明日来ますね』
『……好きにするがよい。ああ、次は余の姿のぬいぐるみをいくつか持ってこい』
『グンディぬいぐるみのことですか?いいですよ』
先月無事発売された、グンディぬいぐるみは今や売店の一番人気である。王様も可愛いところがあるのだな、と思いながらもサトシは頷いた。
『アタシには、クッキーをまた持ってきなさい、大きい生き物!』
『分かったよライラ』
『貴様、王女と王子へ不健康なものを食わせるでないぞ。しっかりと栄養は考えるように。それと、あの女には気を許すでないぞ』
王様らしからぬ発言にもう一度苦笑いしながら、サトシは展示室を出ていった。出た先でサナエが展示室向かいの猫スペースに入ろうとしているのが見えた。
サトシが一瞬見たサナエは、何も読み取れない、無表情な面立ちであった。
***
「迎江さん!?まだ早いですよ!」
病院専属の小児理学療法士の悲鳴を聞きながら、イロハはリハビリに励んでいる。一ヶ月以上寝たきりの体は、想像以上に深刻であった。数日間は寝たり起きたりを繰り返し、二日前にようやく起きられるようになったのだ。
イロハは、一生懸命であった。生憎、サトシの連絡先は知らず、生物園関係者で連絡を知っているのは、サナエしかいない。原初の猫とサナエとのつながりを『白くて広い世界』で知ったため、彼女に電話をすることはためらわれた。いっそのこと、生物園へ直接連絡しようとも思ったのだが、サトシ以外の職員、特にサナエが応対する恐れがある。そのことを考えると、やはり気が引けた。
結局、一刻も早く歩いて生物園へ行けるようになるのが良いと考え、今イロハはリハビリに精を出していた。力の入らない手で平行棒を掴み、震える脚で歩こうとするが、筋肉が衰え切った両足は体重を支えることができずに、イロハは崩れ落ちるように転んだ。
「慌てなくても大丈夫ですよ!スケジュール通り、確実に進めていきましょう!」
「あ、ありがとうございます!でも、私一日でも早く復帰したいんです!」
そう言って、イロハは再び立ち上がるため、平行棒を支えにして力を入れた。小児理学療法士が慌てて近づくと、イロハの介助をしてくれる。
もう時間はほとんどない。イロハは、滲む汗をぬぐうこともなく、王様やサトシたちに会うためのリハビリを続けた。




