クレアナを抱いて
ハーウィは十月半ばの午後四時を過ぎても、まだ強い光が窓から差し込んでいた。
「サトちゃん、もう職場の方へのお土産は買ったの?」
「買ったよ、ハーウィ・クッキーを」
「これ、少し多めに買っちゃったから、特別にお世話になっている人へあげなさいよ」
そう言って、サトシの母は小さな紙箱を三つほどベッドに置いた。最近話題になっているという、マーウ島産のチョコレートが入ったその箱を、サトシは崩れないように衣服で包んで、そのままトランクへしまい込んだ。
「ありがと、母さん」
「いいのよ。生物園の人たちには私からも感謝したいくらいなのよ。サトちゃんをしっかり世話してくれてありがとう、って」
「……冗談だよね?」
いつまで経っても子離れしない母を少し引き気味に眺めながらも、サトシは、最低限必要なもの以外をトランクへ詰め終えた。
「僕も着替えよっか」
あと一時間くらいしたら、レストランへ出発するのだ。サトシは、旅行中に買ったヤシの木柄のアロハシャツを取り出し、洗面所へ向かった。
十日間のハーウィ旅行もいよいよ最終日となった。今日は、ロパカの家族がマーウ島からやってきて二家族で食事をしようということになった。最初はレストランでも取るのかと思ったら、違っていた。
「ロパカがね、せっかくハーウィに来たんだから、ルアウショーをみんなで観よう、って」
五日目にアキコと一緒にランチをしていた時、彼女がそう提案してきた。
「ルアウっていうと、ハーウィのダンスか」
サトシの父が、持っていたハンバーガーを食べるのを中断して、言った。ハーウィで一番大きなショッピングセンターに買い物に来た一行は、センター内のフードコートで各自好きな物を買って食べていた。
「そっ!ロパカの知り合いで、本格的なルアウが見れる場所があるから是非って」
アキコも持っていたブリトーを皿に置き、答えた。そして、彼女はスマートフォンを三人に見せる。そこには、ハーウィの伝統的な衣装に身を包んだ男女が、踊っている写真が載っていた。
「でも、アキちゃん。こういうのって、見ていて楽しいの?」
「私は結構好きかなー。解説が分からなくても、ダンスを見ていて楽しいし、食事やお酒も好きに飲めるからさ」
フードコート内の日本食店でおにぎりを買った母親へ、アキコが説得するように言う。サトシも、持っていたハワイ風の海鮮丼を食べる手を止めて尋ねた。
「でも、こういうのって、観光客向けのショーなんじゃないの、姉さん」
観光客向けのルアウショーは大抵、火を使った派手なパフォーマンスや変な出し物で奇をてらったものである、というのがサトシのイメージだ。偏見交じりであることは承知の上だが、あまり行きたいとは思えない。
「ふふっ、良い質問だね、サトくん。ここは、ハーウィの伝統的なフラを追求していることで知られているんだよ」
「……それ、面白いの?」
「それは見てのお楽しみってことで。でも、後悔はしないと思うよ」
姉の自信たっぷりな言葉に、とりあえず納得したようにサトシは頷いた。
「でも、高いんじゃないの?そう言うショーって、一人二百ドルはするんじゃないの?」
「それがね。そのショーの監修の一人がロパカのおばあさんらしくて、関係者価格で良いんだって」
「えっ。でもそれ、悪いんじゃないの?」
「全然。いつでもどうぞって。ねえ、ロパカの家族もマーウから来るらしいし、行こう?」
アキコが父親の方を向いて懇願する。彼は買ったコーラを一口飲むと言った。
「分かった。向こうの家族にもよろしく伝えておきなさい」
「わあ!ありがとーパパ!」
そう言って、アキコは再びブリトーを手に取ると、一口齧った。
***
ルアウショーの会場までは、送迎のバスがあるらしい。出かける支度の整ったサトシたち家族は、バスの来ると言う免税店のある建物横に向かった。
「あっ、みんなー。こっちこっち」
すでに、アキコは来ており、手を振ってくる。そこには、十分前というのに観光客が多くいた。そのほとんどが外国人であり、本邦の人はサトシたちだけであった。
「あー。このショーは英語でしかないんだよね。だから、あんまり本邦の人は寄り付かないんだって」
バスの中で、アキコはそう話した。通路を挟んで二席シートのバスのため、サトシとアキコが並んで座ることになった。
「でも、本当に良いショーだから、楽しみにしてなよ!」
「はいはい。ところで、ロパカさんたちは?」
「現地で集合することになってるよ。向こうは、ロパカのお兄さんが運転してくれるんだって」
「イオケパさんが運転するんだ」
「おお!よく知っているね、というか会ったんだっけ?」
「会ったよ。いい人だね」
「そうだ、この前、ロパカの家族と何を話したの?」
「まあ、いろいろ。姉さんのことは話してないから」
「変なの。じゃあ、何の話をしたの?」
「お互いの趣味の話。僕は生物園での動物の話をして、ロパカは電子機器の話をしたんだよ」
彼の祖母との出会いの後、ロパカとサトシは口裏を合わせるための話を練った。サトシがロパカの家に行ったのは、ロパカが自宅で作っている機械を見せてもらうためである、ということにしたのだ。
「そうしたら、ロパカさん、自分で作ったっていう機器をくれて。すごいねあの人」
ロパカの家から帰る際に、サトシは小判状のワイヤレス充電器をもらった。ロパカが自分で作ったというそれは、すさまじい速さで充電ができるという代物であった。
『グランマが、サトシくんへこれを贈れって。これが、サトシくんが探すもののヒントになるって』
ロパカ自身もよくわかっていないらしいが、ケアロハが言うことなら間違いないのだろう。サトシはありがたくもらうことにした。
「この充電器すごいね。ワイヤレスなのに、その辺の高速充電ケーブルより早く充電できて」
「あはは。やっぱり。ロパカとサトくん、馬が合うんだね!」
肝心な場所をぼかしながらも、話したことに、アキコが笑う。サトシも、つられて笑った。
「ねえ、姉さんはどうして、ロパカさんのどこが好きなの?」
「それって、こんなバスの中で聞く話!?」
「いいじゃん、母さんたちも寝ているし、誰も聞いてないよ」
まだ、行きのバスの中というのに、両親は熟睡していた。なんだかんだで、彼らもこの旅を満喫していたのだろう。
「うーん。あらためて言われると悩むけど……ロパカってああ見えて、結構抜けていてね」
少し悩んだ風のアキコが、ゆっくりと話した。
「大学でもヘマばっかりするし、この前のデートでも営業時間を間違えてレストランの前で立ち尽くしたりもしたし。あと、私の誕生日をすっかり忘れていたんだよ!」
サトシは少し驚いた。まだ数日も会っていないが、サトシから見たロパカは気立ての良い頼れる兄貴分であった。そんな彼の思わぬ一面を聞き、少し印象が変わったのだ。
「でもね、時々すごくかっこいいところ見せるんだよ。二年くらい前に、一緒にフィールドワークでハーウィの航海カヌーに乗った時、私たち嵐にあったの」
「カヌーで、嵐にあった?大丈夫だったの!?」
「カヌーって言っても二十人くらい乗れる大型の帆船だね。伝統的な航海術で大洋を渡れるかの検証だったんだけど、まあ大変で。私もクルーも何度も転んで吐いて、上も下も分からなくなるような状態。でも、その中で、ロパカだけが平静だったんだ」
そこで、一呼吸置いたアキコは、思い出すように言った。
「『嵐の中こそ、クレアナをやろう』、そう言ってロパカは動けない人の分まで嵐の中なのに働いてたの。それを見ていたら、私含めて船のクルーみんな、やれることをやろうって思えたの。それで気付いたら、嵐を乗り切っていた。あの後だったかな、ロパカと初めてデートに行ったのは」
「ねえ、姉さん。クレアナ、って何?」
サトシの質問に、アキコは微笑み答えた。
「責任って意味。でも、やらないといけないこと、という意味以上に、周りの人や環境へ自分が果たすべき役割や大切にすべき事柄、と言えばよいのかな?」
「よく、わからないよ」
「確かにね。私もちゃんとはわからないかな。でも、責任なんて固い言葉よりは私は好きかな」
そう言って車窓を眺める姉に、サトシは何も言えない。
『あなたは、あなたが思うより多くのものを背負っている』──先日、ケアロハからの言葉が頭から離れない。では、サトシのクレアナとは何なんだろうか。サトシはまだ分からなかった。
バスは、あと十分もすれば会場に着く。
***
会場のエントランスには、ロパカの一家がすでにいた。ロパカにイオケパ、彼らの両親とケアロハは、サトシの両親と互いに握手を交わす。
「行きましょう!すでに入れますよ」
ロパカの案内でサトシたちはハーウィ様式のアウトリガーカヌーの横を通り、会場に入る。会場に入ると、入り口にいるスタッフから、花で作られたハーウィ風の首飾りであるレイとウェルカムドリンクをもらった。
「サトシくんとお父さまがもらったそのレイは、プア・キカとオーキッドですね」
ロパカが、ウェルカムドリンクとしてもらったマイタイを飲みながら言う。サトシたち男性には赤い細長い花と紫の花を組み合わせたレイが、女性陣には白と紫の花を合わせたレイが渡されていた。
「どういった違いがあるんですか?」
「紫のオーキッドは歓迎を意味する花で、赤い細長い花のプア・キカは男性への尊敬の証だね。ちなみにアキコ達へは女性への親愛を意味するプルメリアが使われているね」
「いろいろ、意味があるんですね」
「そうだね。ハーウィでは、贈る相手やイベントによって使い分けているんだ。ちなみに、サトシくんがつけているマノの歯の首飾りも一種のレイ、だね」
サトシは胸に着けているネックレスを軽くなでる。特に何か調子が良くなったり、意識が冴えたりしたわけではないのだが、王様グンディと同様の生き物の一部なのでお守り代わりに肌身離さず首に掛けていた。
「この、いただいた首飾り、どういう意味があるんですか?」
石を積んで作られたステージに近いテーブルに案内され、一息ついたサトシは、向かいに座るケアロハへ拙い英語で聞いた。マーウ島のような直接心で交信するやり方は、ケアロハの家にある石垣の中でしかできないため、サトシは一生懸命話している。サトシの話を横に座るイオケパが翻訳して伝え、彼女が答えた内容を今度は逆向きの流れで話してくれた。
「グランマ曰く、それを付けている間は、そのネズミ顔はそれ以上進まないらしいよ」
ゆっくりとしゃべってくれるためかろうじて理解できる英語に、サトシは再び英語で返事する。
「呪い自体は消えないんですね」
「その呪いは、今では絆としての意味が強くなっている。あなたの王様以外ができることは、進みを止めることくらい、って言っているね」
いよいよ話が深くなり、翻訳アプリに頼り、やっと理解できた言葉の意味をかみしめていると、アロハシャツを着たスタッフが何かを話していた。その言葉を聞いたロパカが言った。
「ご飯の用意ができたそうです。ビュッフェ形式ですので順番に行きましょうか」
ハワイの伝統的な料理である、ポイ──タロイモのペースト──やポキ、カルア・ピッグを堪能しながら、サトシたちは会話をしていた。サトシの家族とロパカたちはすっかり打ち解けあい、楽し気に話をしていると、ステージに一人の男性が歩み入り、手に持っていたほら貝を吹き鳴らした。
「はじまるわね」
アキコがそう言うと、ステージで司会と思しき男性が英語で話をしていた。
「『ようこそ皆さん、ハーウィの人たちはフラを大切にしてきました。これらは歴史を伝え、思いを伝え、先祖へ捧げるためのものでした。幾重にも重なるものを感じながら、どうぞご堪能ください』、そう言っているよ」
逐次翻訳しているアキコに頷く両親とサトシの前で、大きな葉でできた環を頭に着け伝統的なハーウィの衣装を付けた男性がステージに立つ。彼は微動だにせず目を閉じていたが、ひょうたんでできた太鼓のリズムと歌声が響くと、それに合わせて踊り始めた。
体幹にブレはなく、重心を低く保ちながら踏み鳴らす踊り手の姿には、ある種の神々しさまである。太鼓の鳴らす鼓動と踏み鳴らす足の衝動がサトシの体に響き、まるで揺れているような錯覚を受けた。
何分ほど踊ったのだろう、男性はまるで捧げものでもするかのように手を天へ向け動きを止めた。わずかに流した汗がスポットライトに照らされ、体を輝かす。音楽が終わったのに合わせて、万雷の拍手が会場に響いた。
「今のは、祖先のルーツを踊りで表現しています」
踊りが終わり、ダンサーが去るときに、ロパカがサトシたちに言った。
「昔のハーウィには、文字がなかったため、こうした踊りで継承してきました」
「今のは、祖先の話、何ですか?」
「祖先がどのような航海をしてきたか、どこから来たのか、着いた土地で何をしたのか、それらを踊りで表しています。それは、はるか昔であれば、踊り間違えれば死をもって償う必要があるほど、大切なことでした」
サトシたちは、何も答えられない。次のダンサーたちが舞台に上ったためでもあるが、それ以上に今の踊りがそれほど大切なものであることに、衝撃を受けたのだ。
「さあ、次のダンスが始まりますよ!次のはもっと気楽なものです、楽しみましょう!」
***
──あっと言う間の、二時間であった。
本格的で伝統的な踊りを堪能したサトシたちは、ロパカたちと別れてバスに乗った。一時間ほど再び車に揺られて、サトシたちはワイキの町へと戻った。
既に、夜の九時を過ぎているが、カラカウノ通りの賑わいが止む気配はない。両親はバーへ行くと言って、夜の街へと消えていった。後に残されたのは、サトシとアキコであった。
「せっかくだし、姉弟で飲もうか?」
部屋に戻っても、寝る以外やることはなく、サトシも賛成した。
「いいけど、どこで飲む?」
「なら、マーウブリュワリーのバーはどう?サトくんも好きだよね?」
マーウブリュワリーは、その名の通りマーウ島にある醸造所が運営するビアバーだ。値段もこの辺りとしてはお手頃で、ここのラガーはサトシが無理せず飲める数少ないお酒である。
「分かった。ワールドモールの前だったよね?」
サトシの言葉に、アキコがうなずく。そうして、二人は三分ほど歩いて二階建てのバーへ入った。
すんなりとテーブル席に案内された二人は、それぞれ好みのビールと、チキンウィングを注文する。レイトハッピーアワーで少し安くなっていたことに内心ほっとしつつも、二人は静かにワイキの夜景を楽しんでいた。
「それじゃあ、ハーウィ最後の夜に乾杯!」
ビールがやってきて、サトシたちはグラスを鳴らす。二人が一口ずつビールを飲み、チキンウィングを手に取った。
「サトくん、いろいろとあっちで買ってきてくれて、ありがとうね!」
「頼まれていたし、それに立て替えてくれたんだから、いいよ」
アキコの急な感謝に少し照れながら、サトシは言った。
「姉さん、結婚式はいつ頃、どこで上げる予定なの?」
「まだ決めてないかな。私もロパカも、研究があるからそっち優先だし。一応、一年以内に、ハーウィと故郷の両方で式はやりたいかな」
ビールを口へ運びながら、アキコは言う。
「籍は、どうするの?」
「うーん、こっちで先に手続することになると思うから、多分半年くらいかかると思う」
「そう、なんだ」
別に、聞きたいわけでもないことばかり、話してしまう。このまま、駄弁って過ごしてもよいかな、と脳裏に思い始めた時、以前サナエから言われたことが脳裏にふと湧いてきた。
『向き合ってみたら、見えてくるものがあると思うよ』
何をしたら向き合うと言えるのか、いまだにサトシにはピンとこない。だが、最大にして最後の機会であることを直感しているサトシは、思い切って心の片隅の澱みを口に出した。
「昔、小学生のころに読書感想文コンテストに出たこと覚えている?」
「もちろん!どうしたの急に?」
「あのとき、僕の感想文が先生の目に留まってさ、コンクールに出すことになったんだよね」
サトシが、シートン動物記をもとに書いた文を、国語の先生と一緒に何度も手直しして出したそれは幼いサトシの全身全霊の逸品であった。実際、サトシの感想文は、東都の審査会まで行くことができた。
「都で入賞したやつ!パパもママも珍しく褒めていたね!あれすごく良かったよね」
「……でも、姉さんのは、国の大臣賞を取ったじゃん」
それを聞いたアキコは、ビールを飲む手が止まった。
「覚えていないんだね。自分の作文のほうが上だったことすら」
サトシが何度も書き直しをしている横で、アキコは一日で本を読み、三日で感想文を書き上げた。それは、瞬く間に学校の先生たちの話題となり、気が付けば全国審査会にまで進んだ。そのころには、サトシの作文など、添削してくれた先生の眼中にすらなかった。大臣賞の受賞という開校以来の快挙に沸く裏で、学級新聞の片隅に小さく載っていた記事がサトシの小学校時代唯一の輝きであった。
その時以来、好きだった動物記を手に取ることはなくなった。誰が悪いわけでもなく、自分の実力を出し切ったことは頭ではわかっても、その本を読むたびに口の中に苦いものがにじみ出てくる感覚が思い浮かんでくるのだ。
ハーウィの夜の生暖かな空気の中で、アキコはサトシの言葉を黙って聞いていた。ビールをさらに一口運んだアキコが、とうとう答えた。
「そう、思っていたんだね、サトくんは」
そう言ったアキコは、左上に目を向け、口を閉ざした。やがて、彼女はゆっくりと語った。
「あの感想文ね。私のものは最初もっと微妙だったんだ。まあ、読んでいた本がひどかったこともあるんだけど」
そう言って、少しクスリと笑った彼女は、再び真剣な表情になると続けた。
「でも、サトくんの感想文を読んだら、びっくりしちゃったの。まるで本当に動物と話したのかと思うほどのリアルさとそれがはっきりと伝わってきた作文。私じゃ書けない、って。でも、そう思ったら悔しくなっちゃったの」
「……いや……なんのこと、だよ……」
それ以上、サトシは何も答えられない。姉の口から、悔しいなんて言葉を聞いたこと、ついぞなかったのだ。
「塾もさぼって、何度も書き直して。いろいろな本やサイトで書き方を見直して、やっと出したものもサトくんにはかなわないな、って思ったの」
「で、でも……姉さんの感想文は大臣賞で……」
「そうだよ。でも、もう何を書いたかすら、覚えていないんだよね。サトくんの感想文は、今でも内容まで覚えているのに」
サトシは口をあんぐりと開け、瞠目する。心の中に何年もあった黒いものが、今透き通っていくのが分かった。
「私が、サトくんに本の添削を頼んだのも、それが理由。きっと、サトくんなら、何か気付きをくれるって信じているから」
以前送られてきた、原稿。サトシはまだファイルを開いてさえいない。自分の矮小さで情けなくなっているサトシは、短く言った。
「あのさ、実はまだ、読んでないんだけどね。今ここで読んでもいいかな」
「もちろん!筆者がここにいるんだから、何でも質問してよ!」
そうして、二人は小さなタブレットに表示された文章を、頭を寄せ合いながら眺めた。それは、小学校以来の姉弟での共同作業だった。
***
──翌日、朝の空港は来た時と同じくらいの快晴であった。
「それじゃあ、結婚の手続きとかでまた連絡するから!」
チェックインを終えて、荷物の預け入れも終わったサトシたちを、アキコとロパカが見送ってくれた。先ほどまで、ロパカたちの家族も一緒にいたが、マーウ島へ帰るため一足先に出発ゲートへ発っていた。
「サトシくんも、元気で。また、『みんなで』来てよ!グランマたちも楽しみに待っているからさ!」
ロパカが、サトシの肩をたたきながら言った。力強い、褐色の手が心地よい。
「ありがとうございます、ロパカさん。ぜひ、また、行かせて下さい!」
少し眠たげな眼でサトシは言った。コンドミニアムに戻り、アキコと二人で読んだせいで、眠ったのは深夜を大きく回った時間になったのだ。
それでも、彼の気分はすこぶるよかった。サメの歯の首飾りが胸を撫でる心地は良く、通り抜ける風は胸の中にまで達しているかのようだった。
「それじゃあ、そろそろセキュリティゲートに行こうか。アキコ、がんばれよ」
腕時計を見た父親が、名残惜しそうに言った。見送りの人が行ける限界まで来てくれたアキコたちへ、サトシが言った。
「姉さん、ロパカさん、結婚おめでとう」
祝福を受けた二人は軽く顔を見合わせると、仲良く笑って言った。
「ありがとう、サトくん」
その言葉に何も言うことなく、彼は表情を和ませる。アナウンスが飛び交う出発ロビーで、サトシはようやく姉に向かって本心から微笑めた気がした。
***
──甲斐県のとある病室で、一人の少女が寝ている。
彼女の横には、和服を着た男性が座っていた。
「イロハ、お願いだから目覚めておくれ……」
彼女の父が、やつれた顔で言う。彼は、ひんやりとしたイロハの手をずっと握っており、それはまるで自分の生命を、娘へ捧げているようでもあった。
そんな彼のもとへ、ドクターコートを着た男性が入ってきた。彼はこの病院の医者である。イロハの父へ一礼すると、彼は遠慮がちに口を開いた。
「あの、奥様が来ています」
その言葉と同じタイミングで、スーツを着た女性が入ってきた。イロハの父が立ち上がり何かを言おうとする前に、彼の頬を、彼女はひっぱたく。
「どうして、あなたがいたのに、こうなるのよ……」
彼女は震える声で言った。ちょうど病室へ入ってきた、新人と思われる看護師が目線をあちこちに向けるが、それを気にする人はこの部屋にはいない。有無を言わせないよう、彼女は短く吐き捨てるように言った。
「この子は、東都の病院へ転院させるわ。あなたは、これ以上関わらないで」
「……分かった」
それ以上何も言えない父親を無視するように通り過ぎて、いまだに目を覚まさないイロハの横に彼女は膝をつく。そうして、起きない娘の顔を優し気になでると、立ち上がり、医師へ伝えた。
「転院の手続きをお願いします。すでに、受け入れ先の病院とは話ができてますので」
医師に断る理由はない。外へ手を向け、部屋の出口へ行くと、母親と看護師も一緒に出る。あとに残されたのは、ベッドの上のイロハと俯いたままの彼女の父親のみだった。
窓の外では、骨まで凍えさせるような風が吹き始めていた。




