山の声、島の声
「じゃあ、今日はここまで。お疲れ様」
塾の先生との居残り復習が終わった。イロハとアリナは、先生に礼を言い立ち上がった。
「先生、少し良いですか?」
教室を出ようとした先生をイロハが引き留める。先生は、立ち止まるとイロハの方を向いた。
「今週の週末ですが、塾をお休みしてもよいですか?」
「もちろんいいよ。でも、どうしてかな?」
思い切って話したイロハへ、先生が首をかしげて聞いた。
「お父さんの実家に行こうと思います。実家でお祭りがあるみたいなので、参加したほうが良い、と言われました」
やや苦しい言い訳なのはわかっているが、それでも何とか押し通す。先生はイロハを少し見ると、答えた。
「分かった。いいよ、お祭り楽しんでおいで!」
「良いんですか!?」
「たまには、息抜きすることも大切だよ。でも、宿題とデイリータスクだけはしっかりとやるんだよ」
そう言うと、先生は今度こそ教室を出ていった。後にはイロハとアリナが残された。
「あなた、その話は本当なの?」
アリナが、イロハの目を見ながら尋ねる。察しの良い彼女のことである、イロハの話に引っかかるものがあったに違いない。
「ごめんなさい。でも、どうしても行かないといけないの」
「……来週、挽回することね。私たちも一緒に居残りしてあげるわ。それと、きちんと行先は伝えておくことね」
それ以上何も言うことなく、アリナは教室から出ていく。イロハも続いて出ていった。
***
翌日の土曜日、黒のジャンパーを着たイロハは一人電車に揺られながら父親の実家の神社へ向かっていた。電車は土曜だというのに、空いている。
「いい?お願いだから、お父さんのところに行きたいなんてもう言わないで」
一年ほど前、家から父親がいなくなり、イロハが会って話をしたいと言った時に、母から言われた言葉だ。イロハも決してその意味が分からないわけではない。父親のところに行けば、母が今一番頭を悩ませていることに大きな影響が出る。そのことは重々わかっている。
だが、今のイロハにはこの遠出をするだけの理由がある。王様グンディたちにいくら語り掛けても返事をしなくなってからひと月ほど経っていた。丑前サトシもいろいろと努力しているが、そもそもなぜこうなったかすら不明瞭であり、解決には程遠い。
(ごめんなさい、お母さん。でも、あそこならもしかして……)
結局、行先をだれにも告げることなく、イロハは神社へと向かうことにしたのだ。かつて、イロハの祖母の物語を王様グンディたちに話した時に、王様グンディはもう神社には手掛かりはないだろう、と言っていた。だが、イロハには王様のこの推測には違和感を抱いている。
(王様には話していないけど、あそこで昔確かに感じたんだ……不思議な生き物のことを……)
まだ、両親が仲良かったころ、イロハは旅行を兼ねて帰省していたことがある。耳が悪くなる前、イロハにとって神社の裏手にあるご神体を祀る山は、恰好の遊び場であった。そして、そこで遊んでいる時に、何度か温かなまなざしを感じたのだ。
──イロハ以外だれもいない雑木林。幼いイロハが木の実を拾ったり、虫を追いかけていた時、誰かが見守ってくれている気がする。そう思って目をあげても、誰もいない。だが、何か安心できるものがあたりを漂っている。
そんな、子供時代の不思議な体験が、イロハの中で一つの仮説となっていた。それを実証するため、イロハは単身垈場神社へと向かっているのだ。
『次はぁ、ヌタバ、ヌタバです』
イロハの耳に次の駅を告げる自動放送が入ってくる。イロハは、立ち上がると軽く頭を振り、ドアの方へと向かった。
十月も半ばに差し掛かり、秋らしい爽やかな風が吹いている。折よく追い風となったこともあり、駅から一時間半かかる道のりも、イロハはすんなりと歩けた。
幸先の良さを感じながら歩むイロハの前に、石造りの鳥居が見えてくる。懐かしい鳥居をくぐろうとした時、イロハは、境内によく見知った人──イロハの父親──に気付いた。
かつて、イロハの知っている父親は、汚れ一つないスーツを着込み、忙しそうにパソコンかスマートフォンと向かっていた。しかし、白衣に浅黄色の袴を身にまとい、のんびりと地面を掃く彼は、やや老けたようにみえるものの、今まで見たことがないくらいに穏やかな顔をしていた。
ここに、父親がいることは知らなかった。なるべく会うことなく目的の山へ向かいたいイロハが思案していると、ふと父親が顔を上げた。そして、イロハと目が合うと、驚いたような顔をして言った。
「イ、イロハ……どうしてここへ?」
「お父さん……えっと、その……」
イロハが何を言おうか悩んでいると、父親は近寄ってきて見たことがないような優しい笑顔で言った。
「疲れたろう。ちょっと待ってなさい。いま、お菓子を持ってきてあげよう」
神社の隣に立つ住まいの縁側で、イロハは父の持ってきたおせんべいを齧る。カリカリと前歯を使い齧るやり方は、イロハが好きな食べ方であった。
「ネズミみたいな食べ方はやめなさい」
そう、母親へ言われたものだが、この食べ方が好きだった。それを横で見ていた父親が、笑いながら言った。
「イロハは、その食べ方が好きなんだね」
おせんべいを食べ終わったイロハは、軽くうなずく。人に見られて少し恥ずかしいものの、仮にも実父であるから気にしないことにした。
「きょうはどうして、やってきたんだい?」
父親に尋ねられるが、イロハは答えられない。どういえばよいのかわからず黙り込むイロハへ、父はそっと言った。
「言いたくないなら、何も言わなくてよいよ。ただ、今日は早く帰るんだよ」
「ありがとう」
再び、二人の間に沈黙が流れる。イロハは、思わず聞いた。
「……ねえ。お父さんは、この神社の神主さんになるの?」
「そうだよ。まだ、見習いだけどね」
「ねえ、もう、戻ってこないの?」
「……正直、まだ、分からないかな。お父さんが自分で決めたことなのに、それがイロハたちにとって良かったのかどうか、まだ答えが出ないんだ」
「…………分かった」
力なく笑いながら答えた父にそう言うと、イロハは縁側から飛び降りて言った。
「お父さん、私、山に行ってくる。それが終わったら、帰ります」
「ご神体のことかい?どうして?今は危ないよ、野生の動物も出るし──」
「ごめんなさい。でも、どうしても行きたいの」
そう言うと、イロハは裏手へ向かって駆ける。後には、一人座る父親だけが残された。
***
山の雑木林は、前来た時より鬱蒼としていた。
最後に来たときは、まだ土を踏み固めたような道らしきものがあったのに、荒れに荒れ果てた今ではけもの道同然となっている。動きやすい格好をしてきてよかった、心の中でそう思いながら、イロハは奥へと進んでいった。
(たしか、この奥にあった……はず)
鳥とも動物とも言える鳴き声を聞きながら、イロハは奥へ向かう。周囲の音が補聴器で増幅され、耳に必要以上に響くが、イロハはかつての記憶を頼りに山に入っていく。
それからしばらくすると、急に開けた場所に出た。周囲に木はなくお昼すぎの柔らかな光が差し込む。地面も程よく踏み固められており、まるでここだけ別空間のようであった。そして、その空間のちょうど真ん中に、イロハが目指していたものがあった。
それは、小さな古い社である。曲がりなりにも手入れされているふもとの神社とは違い、こちらは朽ちるに任せるかのようにボロボロであった。最後に手入れされたのがいつなのか、苔むして今にも倒れそうなその外見からは想像もできない荒れ具合である。だが、ここから発せられている雰囲気は、どこか王様グンディの展示ルームの雰囲気と似たものがあった。
イロハは、意を決してそれに近寄った。近寄るたびに、心が冷えていくような気がする。しかし、それは不快さよりも気持ちよさの方が勝るものであった。
やがて、社の目の前まで来た。少し悩んだイロハは、そっと手を合わせると、つぶやいた。
「もしも、神様がいましたら、教えてください。王様グンディはどうすれば戻りますか?」
風の音と鳥の鳴き声以外、それに応える声はない。しばらく待ってみるが、何かが出てきたり、イロハの頭に舞い降りてくることはない。そうして、十分以上待ってみるが、何も変化がないことを悟ったイロハが、少し肩を落として踵を返そうとした時、不意に頭の中に声が響いた。
『まったく、最近の子は耐え性がないねえ』
まるで王様グンディに初めて話しかけられた時のような感覚に、イロハはびっくりして飛び上がる。頭の中の声は愉快そうに言った。
『豆が弾けるような跳び方だねえ、イロハちゃん』
年を召した婦人のような柔らかい声がくすくすと笑う。
『あ、あの!?あなたは、杖の持ち主の生き物ですか!?』
『おやおや。随分と物知りになったみたいねぇ。そうとも、わたしゃ昔、神さまから杖を受け取った動物さぁ』
『あの、お願いがあります!どうか、私の王様グンディを元に戻す方法を教えてくれませんか!?』
イロハの必死のお願いに、声の主はゆったりと言った。
『それは無理だねぇ。私はもう昇天した身。こうして、イロハちゃんと話せるのも、きまぐれみたいなものなのさ』
『お願いします!私、王様グンディがあのままなのがどうしてもいやなんです!』
『そこまで言うなら、一つ昔話に付き合ってもらおうかね』
その声が響いたとき、社の扉がバキッと音を立てて壊れた。ボロボロと朽ちた扉の奥には、一本の三十センチほどの杖が入っていた。唖然とするイロハを無視して、杖がひとりでに出てくると、イロハの前に浮かぶ。
その時、太陽すらかき消すほどの光が杖から放たれた。光の奔流をモロに受けたイロハの目が眩み、すべてが真っ白になる中、愉快そうな声がイロハの中に響いてくる。
『さあ、王様猪の話は長いよぉ!振り落とされないよう、しっかりとついておいで!』
***
イロハが神社に向かった翌日のことである。
サトシは、マーウ島へ向かう飛行機に乗っていた。隣には、姉の婚約者であるロパカが、スマートフォンから音楽を聞きながら座っている。楽しそうにロックを視聴している彼の横で、機内食代わりのグアバジュースをすすりながら、サトシは神妙に縮こまっていた。
サトシ以外の三人は、今日は泊まっている島を一周ぐるっとドライブするらしい。この国で一番のビーチと言われるカオハオ・ビーチも行くということで、みんな水着を用意する中でサトシはロパカに付き合い、彼の家に行くため移動していた。
──なぜこうなったのか、それは前日の夜にさかのぼる。
「サトシくん、明日、私と一緒に来てくれないかな?」
レストランのトイレで、ロパカはそう言った。初顔合わせということで、ワイキで一番有名なステーキハウスであるライオンズマフィアグリルバーで五人は夕食を食べている。宴もたけなわ、ふらりと抜け出したサトシのすぐ後にロパカも洗面所にくると、二人は話を始めたのだった。
「いきなりですね。どこまで行くんですか?」
「そう遠くないよ。マーウ島に私の家族がいる」
マーウ島はハーウィ二番目の大きさの島である。二つの島がくっついたような特徴的な形のマーウ島は、その鄙びた雰囲気と、高山からダイビングスポットまである豊かな自然で人気の観光地だ。
「とくにグランマは大神官の下で学んだことがあるんだよ。グランマなら、もっといろいろと知っているかもしれないからね」
カフナ・ヌイが何を指しているのかはよくわからないが、すごい人であるのだろう。
「ロパカさんのおばあさんに会えば、おうさ……この呪いをかけた人がどうなったのかわかりますか?」
「へえ。君、自分の呪いよりも他人のことを気にするんだね」
そう言われて、ハッとした。今日初めて会ったロパカへどこまで伝えればよいのかわからず、あいまいな言い方になったのだが、確かにグンディになる呪いを解こうとは言われるまで思わなかった。
「アキコの弟らしいね。彼女そっくりだよそういうところ!」
楽しそうに続けるロパカにサトシは何も言えない。姉にそっくりだなんて、思ったことは一度もなかった。
「いいですよ。行きましょうよ。ロパカさんのおばあさんのところへ」
「オッケー!それじゃあ、決まりだね。じゃあ、あとはご両親とアキコを説得しようか!」
ロパカはそう言ってスタスタと出ていった。サトシも後へと続き、ディナーの席へと戻っていった。
その後、ロパカの家に二人だけで行くことを話した。最初こそ難色を示していた両親だが、ロパカの説得で最終的には許可してくれた。
──昨日のことを思い返していたサトシは、着陸の揺れで我に返った。飛行機は無事にマーウ島のカフイ空港へと到着した。
それから三十分もしないうちに、飛行機のドアが開きサトシたちはマーウ島へ降りた。最低限の荷物だけ持ってきた二人は、そのまま到着ゲートを出る。
先ほどまでいた島と変わらない乾いた暑い日差しの下を少し歩いた先の車止めには、だいぶ年季の入ったピックアップトラックが止まっており、ロパカより少し年上な男性がにこやかに手を振っていた。
「紹介するよ。兄のイオケパだよ」
英語で話しかけるイオケパにサトシは拙い英語で返す。どこまで伝わったかわからないが、笑ってくれているので、何とかなったのだろう。若干狭苦しいもののサトシたちがなんとかトラックに乗ると、イオケパは出発した。
「どこまで、行くんですか?」
「クーラ、って言って分かる?」
「はい。ハレーカラ中腹の町ですよね」
マーウ島には、ハーウィ諸島で三番目に高い山のハレーカラ山が東側にある。西洋盾を伏せたような緩やかな山体は空港からの道すがらずっと見えていた。クーラはそんな山の中腹にある緑豊かな町である。
「そう!そこに私たちの家があるんだよ。グランマもそこにいるさ!」
ロパカが話した直後、イオケパも、何か話した。早口の英語であるため、うまく聞き取れないが、ロパカが翻訳してくれた。
「『グランマなら、そのネズミ顔も何とかなるさ!』だって」
「その、おばあさまって、どれくらいすごいんですか?カフナ・ヌイから教わったと言っていましたが」
「あー、マナを通じて、自然の力を借りたり、森羅万象を知ったり。とにかく、いろいろできるんだ!」
胡散臭い霊能者のようにしか聞こえないものの、サトシにかかっている呪いを見抜いたのは事実だ。そんなロパカがそこまで言うのなら、サトシも一度会ってみることにしたのだ。
そんな話をしているうちに、トラックはサーファーの町を抜け山を登る道に入った。少しがたがた揺れるトラックに辟易しながらも、そこから三十分くらいして、一行はロパカの実家に着いたのだ。
***
ハーウィの高名なカフナが住んでいるのだから、古代ハーウィ様式の家を想像していたサトシであったが、着いたのは深緑色の外観とやや汚れた白い屋根をしたクラフツマンスタイルの家である。三人が家に入ると、すぐにあるリビングでふくよかな女性がソファにもたれかかっていた。
おそらくは、ロパカたちの母なのだろう、彼女は入ってきた人たちをみて立ち上がると、満面の笑みを浮かべてハグをした。サトシも巻き込まれ、香水と体臭がやや混じった空気と一緒に彼女に抱きしめられた。
ロパカは彼女の母へ、英語で何かを話す。ときおり、グランマという言葉が聞こえるため、おそらく祖母について話していることはサトシでもわかった。彼女は、笑顔で何か答えると、そのまま奥へ行くようにとジェスチャーをした。
「こっちに来て。裏庭で準備をしているって」
そう言って、サトシたちは家を横切り、裏庭に出る勝手口から再び外に出た。そこに広がっていたのは、不思議な空間であった。
この国の庭らしく、芝生が敷き詰められているが、その上を溶岩を積み重ねできた低い石垣が円を描くように配置されている。光り輝いているように見える円の中心には、腰かけられるほどの大きさの岩が置かれていた。
岩を挟んで反対側には、ロパカより少し薄めの肌の、真っ白な髪の老婆が、立っている。彼女は深い切れ込みの入った葉──モンステラ──の模様を染め抜いたムームーを着ており、そっとサトシたちを手招きしていた。
彼女が、しわがれた小さな声で何かを話す。それは、英語ともまた違った言語であるようで、サトシにはさっぱり理解できないが、ロパカとイオケパはわかるようだ。二人が頷き返事をすると、サトシの方へ向かい言った。
「グランマが、サトシくんだけヘイアウの中に入ってきて、と」
「僕だけ、ですか?いいんですか?」
「そう、大丈夫。入れば、わかるよ」
そう言われて、サトシは彼女の方へ歩む。勇気を出して近づき、そして、溶岩でできたサークルの中に入った。熱い日差しがさしていたはずの庭の真ん中にいるのに、涼しい空気が漂っている。だが、寒気以上に心地よさを感じる空間にいると、サトシは久しぶりに心の底から清々しい気分になった。自然と笑みがこぼれるサトシの頭に、ふと声が響いた。
『あなたが、ロパカが言っていた呪いを受けた子、ですか?』
かつて、王様から何度も同じことがあったが、今では随分と懐かしく感じる。そんな思いをしながら、サトシも答えた。
『そうですが、あなたは?』
『ケアロハ、私がロパカたちの祖母です』
老婆らしからぬ、若々しく瑞々しい声で彼女は答えた。
『ケアロハさん、僕は丑前サトシです。あの、いったい、どうやって──』
『ふふっ。そういうことを聞きに来たわけではないように、思えますよ。おそらくは、あなたが仕えていた王様のことを聞きに来たのではないのですか?』
まだ、ケアロハにはもちろん、ロパカにさえほとんど話していないことを、一発で見抜いた彼女を唖然とするサトシへ、ケアロハは優しく言った。
『時間は長いようで短いものです。私も、あなたも。だからこそ、じっくりと語りましょう』
ケアロハはまず、サトシを中心にある岩に座らせた。ゆったりと回り、サトシの正面に立った彼女は、サトシの顔へそっと皺だらけの手を寄せた。
『なるほど、イオレ・リイリイの王様から怒りを買ったのですね。呪詛にも似ていますが、もっと単純な怒りの具現……』
サトシの顔に優しく触れながら、ケアロハはまるで研究中の学者のように冷静に言った。
『あの、僕が話さなくてもわかるんですか?』
『ええ。言葉を介さずとも、意思を交わさずとも、あなたのマナがそれ以上に雄弁に語っています』
子供の頭をなでるように、ゆっくりとサトシの頭に手を当てた彼女は、少しだけ意外そうに言った。
『あなたはその王様の復活を望んでいる。わがままで、気まぐれ。呪詛をかけられ、命令されて仕方なく世話していたはずの彼を』
サトシは何も答えられない。言われていることが間違っているとはとても思えないからだ。
『呪いを解いてもらうため?仕方がなく?』
『……言わなくても、わかるんじゃないのですか?』
『無粋なことを言いますね。これは、私よりもあなたのためですよ』
子供に諭すような言い方であるが、皺だらけの優しい顔で言われると不愉快な気分はない。サトシはそっと目を閉じながら、探るように慎重に言葉を選んだ。
『確かに、王様はわがままで気まぐれです。何度振り回されたことか』
サトシの言葉を、ケアロハは静かに聞く。ロパカたちさえ入ってこれない二人だけの空間で、ゆっくりとサトシは話す。
『でも、そんな王様でも、何も話せないまま終わるのはなんだか、寂しくて……いや、違う。きっと、このまま終われば、僕は自分を許せないのだと思います』
小さな生物園の展示室の一画、そこにあった砂漠の王国を瞼の裏に映しながら、サトシは言う。
『王様が言葉を失ったのは、あなたのせいではないのに?』
『それでもです。だって、僕は、王様グンディの世話係で彼の下僕ですから』
去年までは生物園でアルバイトをしていたのに、動物に触れることさえなかった。サナエにはいつも助けられ、イロハに手伝われたことさえあり、王様からは愚痴ばかり受けていた気がする。呪いさえなければ逃げたいという暗い気持ちが喉元まで来たことさえあった。
──だが、グンディたちの世話をするごとに、そうした思いは、砂のようにサラサラと胸から零れ落ち消えていた。
『呪いを解けたとしても、このまま王様が戻ってこなければそのことが僕にとっての新たな呪いになります。多分、今より見えないけど、はるかに重く、一生消えない呪いに』
そこでサトシは、目を開け、ケアロハの方を向いて言った。
『お願いします。僕にできることなら何でもしますので、王様グンディたちが力を取り戻せるようにしてください』
ケアロハは、何も答えない。微動だにせず、サトシを見つめていた。
『あなたの気持ち、しっかりと受け止めました。わたしも、あなたへわかる限りのことを話しましょう』
『本当ですか!?』
座っていた岩から立ち上がろうとしたサトシをとどめるように手をかざしたケアロハは言った。
『まず、王様グンディは力を失っています。話すことができなくなったのはそのせいです』
『それは、宝玉がないから、ですか?』
『それもあります。それ以上に彼は耐えられない悲しみを受けた。それは持っていた力へ背を向けてしまうほどのもの』
サトシは、今度は悲痛な気持で目を閉じる。何もかも失ってしまいたいほどの悲しみ、それには心当たりがあるからだ。
『悲しみを取り除くこと。どのような名医や偉大なカフナでも、それはできません』
『では、どうすれば?』
『待つことです。彼の偉大さが、彼の使命を思い出させるまで。あなたが彼のことを思うのであれば、それしかありません』
『……それしか、ないのですね……』
サトシの言葉に、ケアロハは沈黙するのみであったが、それはどのような言葉よりも深い意味のあるものだった。
『そして、もう一つ。これは、アウマクアからの贈り物です』
そう言うと、いつの間にか手に持っていた三十センチほどの布の帯を、彼女はサトシの首に掛ける。その首飾りには、サメの歯が縛られていた。
『かつて、私たちの祖先が仕えていた王様鮫の歯です。これが、あなたの道しるべとなり、呪いを防ぐ護りの力になるでしょう』
『ありがとうございます!でも、こんなに貴重なものを、良いのですか!?』
『良いと思うものへ使えばよい、無駄遣いしても出し惜しみはするな。かつて、王様鮫はこう言ったとされています』
ケアロハは微笑み、言った。
『あなたは、あなたが思うより多くのものを背負っている。それを忘れないでください』
そう言って、ケアロハはサトシに立つように促した。
『さあ、おなかが減ったでしょう、サトシ。ヒアポ──イオケパたちの母がブランチを作ってくれていますよ』
***
「イロハー!イロハー!」
イロハの父は、白衣が汚れ、袴が枝で裂けたことすら気にせず、山奥へ走っていた。
山へイロハが入り、夕方になっても降りてこないことに気付いた彼は、最悪の事態を想像し、必死に声をかけながら、古い奥宮のある方へと向かっている。イロハへの負い目が勝り、危険な山道についていかなかったことへの後悔で、胸が押しつぶされそうになりながらも、イロハの父は駆け続ける。
そして、奥宮──という名前の、朽ち果てたも同然の社──がある場所へ来ると、彼は地面にうつぶせに倒れているイロハを見つけ、半狂乱となって駆け寄った。
「大丈夫かい!?イロハ!」
父親が彼女を抱きかかえた。その拍子に、イロハの耳から補聴器が音を立てて落ちる。
彼女に、目立った傷こそない。だが、秋風に晒され体温が下がっていた肌からは、微かに脈動がするのみであった。
「イロハ、お願いだ!目を覚ましてくれ!」
父親が揺さぶっても、イロハは返事をする気配はない。補聴器を拾いイロハを抱きかかえると、彼は来た時以上に急ぎふもとへと走った。
──すぐに地元の病院へ送られたイロハは、その日もその翌日も目を覚ますことはなかった。




