妃たちの、王様のいない午後
八月の後半のある日、この時期にしては冷たい風が吹いていた。
「明日は、台風が来る予報よ」
園長室で、卯月が目の前の男性に言った。
「警報も出ているし、生物園は臨時休園にするべきだと思うのだけど、それでよいかしら?」
「おう、そうだな。どのみち、こんな日に来る奴はいねえからな」
園長は、天気予報のサイトをスマートフォンで覗きながら賛同する。予報では、生物園もある東都を直撃する予報線がひかれていた。
「それと、アルバイトの連中は来ないように言っておいてくれねえか?」
「そうね。それ以外の職員も、無理せずに来ないように伝えておくわ」
「そうだな。そうしたら、今のうちに、外の動物や植物の様子も見ておかねえとな」
卯月は、その言葉にうなずいた。園長は立ち上がり、職員たちへ台風の備えをすることを伝えるため、部屋を出ていった。
***
──翌日は、予報通り台風が東都に直撃した。
風が唸る。雨が叩く。手伏区生物園を囲む公園の木々は、大きくしなりながらも必死に根を張っていた。池の水面は波立ち、横殴りの雨が生物園の壁を絶え間なく打ちつける。
だが、建物の中は別世界のように静かであった。とりわけグンディの展示ルームは、生物園の奥まった場所にある。嵐の音は遠く、ただ空調の低い音だけが響いていた。
『なるほど。そちらの様子は理解した。余が参るとする』
王様グンディは、少し上を見ながら園のチンチラたちと会話をしていた。無論、直接話しているわけではない。念話を使い、近縁種の意思を拾っているのだ。
やがて、会話が終わったのか、王様グンディが岩で寝そべる妃たちのほうを向き言った。
『余は外で怯えるチンチラとモルモットのところへ向かう。そなたたちに留守は預けるぞ』
そう言うと、王様グンディは杖を振り、その身を透明にして、ガラスをすり抜け外へ出る。杖に残る少ない魔力でかろうじて使える力を使い王様が出ていった展示ルームには、妃たち三匹が残された。
『王様、大丈夫かしら』
一番大柄なアンドレが心配げに言った。アンドレは流木の上で、王様が行った方向を眺めていた。彼女は身ごもってはいるものの、その見た目は以前と変わるところがほとんどなく、元気に動き回っていた。
『モルモットたちに何があったのかしらね?』
王様は、この公園周辺のげっ歯類を統べている。特に、この生物園で飼育されているチンチラとモルモットたちは、王様のことを神の使いだと思っているらしく、崇めていた。そんな彼らを王様もまた無碍にすることもなく、まめまめしく世話しているのだ。こればかりは、臣下といえど別種の生き物である下僕や侍女に任せることもできず、王様グンディ自ら行かなくてはいけなかった。
『いやはや、手が足りぬとはいえ、余自ら行かねばならぬのはさすがに骨が折れることよ』
少し前に、モルモットたちが生物園側に巣をつくったカラスに怯えていると知り向かった時に、そう独り言ちていた。
『そなたたちも、早う健やかな子を産んでほしいものよ。さすれば、この仕事も任せることができるであろう』
いとおし気な目で、三匹の妃を見つめながら、王様は小恥ずかしさを隠すかのようにそう言ったものだ。
『アンタは、体調大丈夫なの、メウェ?アンタの体調が心配なのよ』
ミルフィがちいさくあくびをしながら横で寝転ぶメウェに言った。時おり、体を後ろ足で掻きながらミルフィはくつろいでいる。
『最近は随分落ち着いています。このまま、無事に生まれてきてほしいものです』
一番小柄なメウェが、わずかに膨れているおなかを前足で軽くなでながら言った。
『いいわね。アタシも、赤ちゃんが欲しいわ!』
『でも、楽ではないですよ。私、体が随分と重くなった気がします』
『アタシなら平気よ。三匹の中で一番素早いもの!』
何が平気なのかよくわからないが、その強気な言葉に、メウェとアンドレがフフッ、と笑った。
『でも、不思議よね』
一番高いところにいるアンドレが、外を見ながら言った。
『外に、だーれもいないわ』
彼女たちは、今日が臨時休園になったことを知らない。ゆえに、いつもなら人が多く来るはずの時間になっても、誰も来ないことを疑問に思ったのだ。
『よくわかりませんが、なんだか、昔に戻ったみたいですね』
メウェが、のんびりと答えた。どんな時でもマイペースな彼女にとっては、却って落ち着くのであろう。
『思い出すわね!アンタと初めて会ったのも、こんな静かな時だったじゃない!』
ミルフィが軽く隣のメウェに身を寄せながらつぶやいた。
『ええ、そうですね。あの頃は王様がいなかったですし、こうして三匹で過ごしていましたね』
そう言って、メウェもあくびをすると横になった。すぐ上の保温電球のおかげで、岩の上はポカポカと暖かく、グンディたちの眠気を誘っている。
『あの頃は、大変だったわね』
***
──手伏区生物園に来る一年ほど前、アンドレたちは彩国県のとある動物園で生まれた。
アンドレたち三匹は、王様の妃候補として蝶よ花よと育てられていた……わけではなかった。
アンドレが覚えている最初の記憶は、今よりは狭いケージ越しの景色であった。彼女はバックヤードの片隅にある、王様グンディの一族とは別の群れの子供として生を受けた。
(ママ、ママ……)
空調の音だけが低く響く中、横にいる母親を求めて、彼女はチチチ、と甲高い声で鳴いた。王様グンディと出会う前の彼女にとって、考えることは難しいことで、それを伝えることはもっと難しいことであった。それでも、彼女を生んだグンディは、生まれたてのアンドレに優しく寄り添い、そっと首筋を向けた。グンディの乳頭は、前足のすぐ後ろと首筋にある。そこからほのかに匂う甘い香りを辿って、アンドレは生まれて初めての食事をした。
アンドレがミルクで腹を満たしていると、遠慮がちにチューチュー鳴く声が聞こえた。アンドレは口を乳頭から離し、あたりを見るとそこには、アンドレよりさらに一回り小さなメスグンディがいた。
彼女は、アンドレが見てもわかるくらい痩せていた。体を覆うきな粉色の体毛も乱れ、目ばかりが大きく見えた。彼女は先ほどのように小さく鳴いたが、それは遠慮しているのでなく、実際には鳴くのも辛いくらいにおなかが減っているようであった。
彼女はなぜ、自分のように母親のそばにいないのだろう。小さな頭で必死に考えるがアンドレには分からない。だが、小さいグンディと目が合った瞬間、アンドレはチュチュ、っと誘うように鳴いた。それを合図にしたかのように、その子は自分のそばに来た。
アンドレの母は、突然の闖入者に少し驚いたようにピクリと震えたが、すぐに、彼女にも乳頭を向けた。小さなメスグンディは、感謝するようにチュ、と鳴くと、アンドレの隣でミルクを飲み始めた。その勢いは、アンドレも驚くほどであった。
やがて、満足したようにその子が母グンディから口を離し、ペコリと頭を傾げた。そのまま、彼女は離れようとしたが、その前にアンドレが彼女の小さな体に乗っかった。グンディにとって、相手の体に乗るのは一種のあいさつであり、親愛を示すものである。アンドレに乗っかられたその子は軽く震えたが、すぐに落ち着くと、アンドレと彼女の母の間に埋まるように横になった。そうして、二匹は親グンディの横で、静かに眠りについた。
──彼女こそ、のちに一緒に妃となるメウェ、であった。
メウェに母親はいなかった。彼女が生まれてすぐに怪我をして、そのまま別のケージで治療することになりそれっきりとなったと、後に知った。
もっとも、これはのちに大きくなってから知ったことであり、このころのアンドレにとっては変な小さなグンディがついてくるようになった、くらいしか感じていなかった。
グンディは生まれてすぐに歩けるようになる。小さな体躯には不似合いな大きな後ろ足のおかげで、生まれて間もない赤ん坊でも、岩をよじ登り、母から離れてあちこち歩けるのだ。
だが、メウェは違った。ケージの中には大人のグンディを一回り大きくしたくらいの大きさの岩の模型しかないが、それでも彼女にとってはとても大変なものであった。
アンドレと、彼女と同じ日に生まれたミルフィという仔は、ササっと岩に上る。彼女らについていこうとメウェも岩に飛びつくが、それ以上上ることができないのか全く動けなくなっている。やがて、コテンとメウェがひっくり返って落っこちた。
それでも、メウェはもう助けを求めるような憐れみを帯びた鳴き声を発することはなかった。再び、起き上がると彼女は勢いをつけて岩に飛びつく。今度はうまい具合に手をひっかけることができたのか、ヒョイッと岩を駆けあがると、アンドレとミルフィの横に横たわった。そうして、三匹は岩の上で重なり合い、お互いの存在を確認しあった。そんな日々が、一年ほど続いた。
***
ある時、三匹は群れから引き離され、別のケージの中に入れられた。
大人のグンディと変わらないくらいに大きくなった三匹は、その日もいつものように、群れの中で重なって眠っていた。そして、目が覚めると群れの仲間はいなくなり、三匹だけがやけに広いケージの中に入っていた。
メウェが不安そうに、チィーチィーと鳴いている。ミルフィは不安げにケージの中をうろついていた。アンドレは、何が起こったのかわからず、ただ立ち尽くしていた。
三匹のみ隔離された日から、時おり、知らない匂いの人間が、彼女たちの世話のために来た。その人間は、別の白い髪の人間──この動物園のベテラン飼育員──に従い、三匹の餌やりや敷き砂の交換をするのだった。
そんな不安げな日々が続いていたある日のこと、知らない匂いがケージに漂っていることにメウェが気付いた。メウェに続いて、ミルフィとアンドレもその匂いに気付いた。
グンディは、コミュニケーションのために、嗅覚を重視する。匂いを使って、仲間かどうかを判断するのである。そのため、嗅いだことのない匂いというのは、グンディたちにとっては耐えられないほどのストレスになる──はずであった。
しかし、この匂いは違っていた。知らないはずなのに、どこか安心できる暖かい香りを嗅ぐのは、悪くなかった。その香りに包まれている間は、三匹とも不安や怯えから解放されたのだ。
三匹は、いつの間にかこの匂いに慣れてきた。知らない匂いの漂うケージの中で、三匹は元気に駆け、疲れたら重なり合って寝る日々を過ごした。
──このころ動物園のスタッフ、そして研修中のサナエは『とある』グンディの匂いのついた敷き砂を三匹のケージに撒いていた。これは、少しでも知らない個体の匂いに慣れてほしいという意味で行っていたことだったが、これが三匹を安心させていたことはとうとう気付かなかった。
そんな、三匹だけの平穏な日々は唐突に終わった。
三匹がのんびりと過ごしていたある日、世話をしていた人が、一匹のグンディを彼女たちのケージに入れたのだ。
ケージが開く音で、三匹は驚き、隅にある小さな巣箱に隠れた。三匹はいつものような餌の交換だと思いながらも、巣箱の中で重なり合いながら侵入者の手がさることを祈っていた。
だが、この日はいつもの餌やりとは違っていた。今まで嗅いでいた温かな匂いがいつも以上に濃く漂ってきたのだ。三匹の中で、ミルフィが勇気を出して巣箱の中から顔を出すと、そこには三匹と同じくらいの大きさのグンディがいたのだ。
そのグンディは、今までの群れの中にいるグンディたちとも違っていた。堂々とした表情と立ち振る舞い、それまであったどのグンディとも違った雰囲気を帯びたそのオスのグンディは、恐る恐る見ているミルフィの目線に気付いたのか、ミルフィたちのほうを向く。びっくりして再び隠れたミルフィに、そのグンディは、ミルフィたちにもわかる『ことば』を投げかけてきた。
『そこにいる姫たちよ。恐れなくともよい。余は王様グンディであるぞ』
初めてかけられた言葉は、彼女たちの頭のもやを取り払う王の玉音であった。
***
『懐かしいですね』
思い出を語り合っていると、メウェが懐かしむように言った。それに二匹も同意した。
『本当にそうね。アタシたちも、あれ以来、少しずつ会話できるようになったのよね』
王様グンディの力は、周りにも影響を与える。三匹の妃たちも、会話ができるようになり、相手の思いも、自分の意思もはっきりと伝えらるようになったのだ。
『ねえ、わたしたちで、王様に何か上げないかしら?王様、すごく疲れているように思えるのよ』
アンドレは提案するように言った。確かに、王様グンディの衰弱はこのところ著しい。終日岩に横たわり、ほとんど動かない日もある。今日だって、かなりの無理をして行ったに違いない。
『そうね!なら、アタシは王様の好きな岩を綺麗に飾るわ!』
そう言ったミルフィは、チモシーを取りに餌のある所まで行った。
『賛成です。私は、今までためていたおやつを撒いておくのです』
メウェは、奥まった巣箱の中に貯めている、ニンジンやズッキーニを取り出しに駆ける。その姿は、弱弱しい赤ちゃん時代からは想像もできなかった。
『私は、どうしようかしら?せっかくだし、デグーたちの歌を真似た歌を歌ってあげようかしら?』
アンドレは、そう思うと声のトレーニングのため、チィチィと鳴き始めた。
三匹の心を尽くしたプレゼントを、返ってきた王様が感無量の様子で見たことは言うまでもあるまい。
グンディたちは、嵐なんて気にすることもなく、温かなひと時を過ごせたのだった。
──しばらくして、ミルフィもまた子宝に恵まれたことに、王様グンディが気付くのであった。




