侍女の決意(前編)
本作における聴覚障害・補聴器・耳の疾患に関する表現は、作者が調査した範囲をもとに書いておりますが、不正確な描写が含まれている可能性があります。フィクションとしてお楽しみいただき、医学的・専門的な情報として受け取ることはお控えください。
聴覚障害の症状や聞こえ方、治療の内容は個人によって大きく異なります。もしご自身や身近な方のことで気になることがあれば、耳鼻科や聴覚支援に関わる専門機関にご相談されることをおすすめします。
聴覚障害についてより正確な情報を知りたい方は、全日本難聴者・中途失聴者団体連合会や各都道府県の聴覚障害者情報提供施設など、信頼できる機関が発行している資料をご参照ください。
台風が東都を直撃してから、一週間がたった。
くすんだ空気を洗い流したかのような澄んだ空気も、一週間も経てばすっかりと元通りになっていた。
夏休みも後半戦を過ぎたこの日、迎江イロハは獅子宮病院の病床で医師の診察を受けていた。
「両耳とも化膿しているところも、感染症の兆候もない。術後経過は良好だね」
髪を短く刈り込んだ五十代くらいの先生が、耳用の内視鏡でイロハの耳の穴をのぞき込みながら言った。もう片方の耳には補聴器を付けているとはいえ、イロハには聞き取りづらく、困ったように首をかしげる。
「ごめんねイロハちゃん。そんなに悪くないから、大丈夫だよ!」
先生は、ゆっくりと大きな声で言った。その言葉を聞いたイロハは、安心したように笑った。
「あの、それで、イロハの聴力はどうなるんですか?」
その横で先生の話を聞いていた、管理職のような雰囲気の女性──イロハの母──が心配げに聞いた。
「まだ、きちんと測定はしていないのですが、前と同じ数値を維持するのは難しいでしょうね」
「聞き取れはするのでしょうか?」
「これも測定前ですので断言はできませんが、この水準ですと、補聴器なしでの会話は大変になってくると思います」
母親が心配げに額に手を当て、イロハも不安そうに見つめる。やがて、彼女は再び口を開いた。
「わかりました。あと、イロハの退院はいつくらいになりそうですか?」
「この調子でしたら、予定通り明日には退院できますよ」
「よかった……すいませんが、私はこれで失礼します。明日も退院には付き添いますので、あとはよろしくお願いします」
少しだけ安心したように肩をなでおろした母親が、スマートウォッチを見るとハッとした顔となり立ち上がった。
「イロハも頑張るのよ。明日も来るから、またね」
補聴器の掛かっている方の耳元で、少し早口めにと母が言うと、忙しそうに病室を出ていった。
「イロハちゃんのお母さんは、本当に忙しそうだね」
診察が終わり、両方の耳に補聴器を付けたイロハに、先生が苦笑いするように言った。
「えっと、あの、ごめんなさい」
「いいんだよ、いろいろ大変なことが続いているって聞いているからね」
先生は、労わるように言った。彼は、イロハが幼少の頃からの主治医であり、イロハの家の事情についてもある程度は知っている。
「先生、補聴器を付けてみたんですが、ちょっと聞きづらいですね」
「ああ、手術でどうしても耳の調子は変化するんだ。また飯田さんのところで補聴器を調整してもらうとよいよ」
飯田は、イロハの補聴器のメンテナンスを担当している認定補聴器技能者である。先生とも見識があり、また信頼も厚い。実際に、イロハの体質や生活スタイルに合わせた補聴器の調整は、飯田に一任されていた。
「じゃあ、僕はこれで。イロハちゃんも、宿題頑張ってね!」
「えっ……あっはい!」
そう言うと、先生は病室から去っていった。後に残されたイロハは、ベッドへ横になる。
先生には言っていなかったが、すでに、夏休みの宿題は終えている。入院する前に、大里アリナたちと一緒にすべてやり終えていた。
「あっ、お母さんにこのことを言うの忘れていた……どうしよう」
イロハがベッドわきの引き出しのほうを見ると、目を見開いてつぶやいた。彼女が引き出しを開くと、そこには一冊のパンフレットがある。A4の冊子の表紙には、授業を受けている子供たちの写真と一緒に次のタイトルが書かれていた。
『入塾の案内』
***
──話は一週間前にさかのぼる。
手術の前日、不安そうにしていたイロハのもとへアリナたちがやってきたのだ。
「これうちのママが持っていけって。食事制限とかあったら、無理して食べなくてもいいからね」
ややフォーマルな襟付きワンピースを着たアリナが、クッキーの入った袋を差し出しながら言った。彼女の親は洋菓子店を経営しており、このクッキーにも店のロゴが印刷されている。
「アリナちゃんちのお菓子おいしいよね」
「ねー」
一緒に来た巻き髪の少女と腰まで伸ばしたロングヘアの少女も相槌を打つように言った。彼女たちは、アリナの取り巻きであるが、以前アリナが生物園へ行くときに塾に残ってくれたこともあり、今ではイロハとも少し関係が改善されていた。
「ありがとう、大里さん」
「別に、大したことをしたわけじゃないから」
寝間着姿のイロハが、笑いながら受け取ると、アリナが目線を外しながら返事をした。彼女たちは、病院内のデイルームにいた。建物の角に当たる部分を利用して作られたこのスペースは、全面ガラス張りなこともあり実際の広さ以上に広く感じられる。だが、この時期のこの時間では日差しが容赦なく室内を照らし、クーラーが効いているとはいえ汗ばむようにすら感じられた。
「迎江さんは、どうしてわざわざここで手術を受けるの?住んでいるところから結構離れているじゃない」
ロングヘアの少女がふと尋ねた。彼女の言う通り、イロハの住んでいる草塚という町から病院までは電車で一本とはいえ、1時間程度かかる。
「私が小さい頃から耳を見ていた先生が、ここで診察しているの。だから、入院もここにしようって。それに、昔の家はここが近かったから」
「へー。迎江さんって、湾岸区に住んでいたの?」
湾岸区とは、この病院のある地区である。東都二十三区の中でも屈指の経済力と知名度を誇るこの区は、今イロハが住む町とは比べ物にならないほど、多くの高層ビルや派手な建物が建っていた。
「うん。って言っても去年までだけど」
「どこに住んでいたの?」
「武浦に住んでいたよ」
「ええっ!あの昔CMでやっていた場所だよね!?」
武浦キャナルタウンは、湾岸区の埋め立て地区に立つタワーマンション群である。すでに建てられてから二十年以上たっているが人気が衰えることはなく、憧れのマンションと言う人もいるくらいであった。
「すっごーい!お父さんやお母さんは、どういった仕事をしているの」
「えっと、両方とも普通のサラリーマン、かな……」
「いいなー。私も高層ビルに住んでみたいなー!」
ロングヘアの少女は憧れるように言った。実際には、いろいろ大変なこともあったのだが、それをイロハがあえて言うことはなかった。
「迎江さん、明日が手術なのよね?ご家族はいらっしゃらないの?」
その横で、巻き髪の少女が心配げに言った。
「うーん。お母さんは仕事で忙しいし、ばあ……おばあちゃんも年だから毎日は来れないの」
「あれ?ほかの家族の方は──」「あなたの家も大変そうね。ところで、あなたに一つ提案があるの」
巻き髪の子が他に何かを言う前に、何かを察したアリナが遮るように言った。
「あなた、宿題こそ入院前に終わらせたけど、受験とか、どうするの?」
「えっ?」
イロハは、予想外の質問に戸惑った。以前両親がイロハを塾に通わせるか否かを話し合っていたような気がするが、その話がまとまる前に別れてしまったため、宙ぶらりんとなっていたのだ。
「ご、ごめんなさい。私、そう言ったことを一度も考えたことがなくて」
「はあ……あなた、中学受験はあっという間に来るわよ。自分の進路についても考えたほうがいいんじゃない?」
塾の先生の受け売りだよね、とつぶやく取り巻きを一瞥したアリナが、一部の冊子を取り出した。
「これ、今私が入っている塾のパンフレット。聞いたら、聴覚障害についてもいろいろと配慮してくれるみたい」
「へ、へえ……」
「それに、紹介者がいれば入学金が安くなるらしいの。検討してみたらどう?」
「お、大里さん……ありがとう……」
自分のことのように面倒を見てくれたことに感動し顔をくしゃくしゃにしたイロハを見て、アリナが慌てて言った。
「べ、別に。紹介キャンペーンでもらえるグッズが欲しかっただけよ。締め切りは今月までだから、早く決めなさいよ!」
アリナの狼狽した様子にイロハたちは思わず笑ってしまい、少し看護師に注意されたものの、イロハは久しぶりに楽しい時間を過ごしたのだった。
***
退院した翌日、イロハは手伏区生物園に来ていた。サトシと王様グンディに、退院の報告をするためである。
「退院おめでとう。迎江さん」
サトシは、グンディの展示ルームのガラスを掃除をする手を止め、小声で言った。辺りには、ほかの来園者もおり、彼らへの配慮のためである。
『ふむ。以前と変わらない様子でなによりであるぞ』
王様グンディのほうは、相変わらず岩の上で寝そべりながらも、少し首をあげて声をかけた。
『ありがとうございます。それと、ミルフィさん、ご懐妊、おめでとうございます』
『ありがとう。アタシもいよいよお母さんになるの!』
隠れ家の巣穴からメスのグンディが一匹顔を出しながら言った。三匹の妃がこれで全員妊娠したことになる。
『して、相談とは、なんであるか?』
「はい。実は、今週から塾へ通うことにしました」
退院した日にイロハが塾のことを言うと、母親はあっさりと了解した。そして、有休をとったというその日のうちに入塾の手続きを済ませたのだ。
『ああ。迎江さんもそんな学年なんだね』
サトシが、感慨深そうな顔をしながら言った。
『丑前さんも、塾に行っていたのですか?』
『そうだよ。僕も中学受験をしたからね』
懐かしそうに上を見ながら言うサトシであったが、呪いのせいでサトシはネズミ顔になっているため、イロハからするとなかなか不可思議な光景であった。
そのおかしさに思わず笑いそうになるのをどうにかこらえながら、イロハが言った。
『それで、これからは学校の後に週三日の授業と日曜のテストになります。こちらに来る機会は少なくなってしまいますが、大丈夫でしょうか?』
『それは仕方ないよ。大切な時期にもなるし、塾と勉強が優先じゃないかな?』
『それを下僕が決めるでない。侍女の進退を決めるのは王たる余であるぞ』
サトシが当たり前のように言うと、王様グンディが釘をさすかのように割り込んだ。
『じゃあ、王様グンディは反対なのですか?』
『誰もそうとは言っておらん。侍女がより研鑽することは、まごうことなきめでたき事。一層余の妃と子供たちを支えるため励むがよい』
『……ん?要するに、僕の言ったことと同じじゃないですか?』
『貴様の戯言と余の玉言が同じであるはずがなかろう。貴様は一度滝にでも入って、軟弱なおつむを鍛えなおすがよい』
ネズミ頭のサトシと本物のネズミである王様グンディの掛け合いをほほえましく見ながらも、改めて言った。
『開いている時間は、できる限り来るようにしますね!宝玉探しも、その時手伝いますので』
『迎江さん、ありがとうね。でも、本当に自分の都合を優先していいからね!』
その後、王様グンディの散歩にイロハは従い、とはいっても透明になっている王様グンディを腕に抱えて園内を巡るだけであったが、充実したひと時を過ごすことができたのだった。
『侍女よ、余を逍遥に連れ出した褒美である。受け取るがよい』
透明になっている王様グンディが、イロハへ一本の毛を差し出した。受け取った毛からは、不思議な、しかし気持ちがさわやかになる香りを感じた。
『それをお守りとして持っておくがよい。侍女の身に危急が迫った時に身代わりとなってくれるであろう』
『ありがとうございます!』
そう言うと、イロハはその毛を大切そうにティッシュで包むと、胸ポケットにしまった。
『そなたの身は、余にとっても大事である。無事に励み続けることを祈っておるぞ』
真夏の太陽が照り付ける庭で、優しく王様グンディが言った。
***
生物園へ行った次の日、イロハはアリナに付き添われて塾に初めて行くことになった。一時間ほどのクラスわけテストを受け、イロハはアリナと同じクラスになった。
「毎週、掲示板に席順が掲載されるの。日曜日のテストの成績順よ」
クラスまで一緒に来たアリナが、入り口横にあるプリントを指さしながら、言った。幸い、まだ授業の開始まで時間があるため、来ている生徒はまばらだ。
「本来、入塾したてのあなたは一番後ろになるんだけど、特別に一番前の席になったようね」
座席は三人掛けの机が横に二つ並び、それが七列ある。そのクラスで、確かにイロハの席は、一番前の通路側であった。
「で、私はここ。今回はテストがうまくいかなかったから少し下がったわね」
そう言ったアリナの席は、二列目のイロハの斜め横だった。
「大里さん、すごいんだね」
「あなたも、がんばらないとあっという間にこのクラスから落っこちちゃうわよ」
「『落っこちる』って、どういうこと?」
「あのね、この塾には成績順に四つのクラスがあるの。で、月ごとにクラス替えがあって上のクラスに上がったり、下のクラスへ落っこちる、って言うのよ」
どうやら、昇級や落第制度があるらしい。イロハは思わず緊張した。
「毎週のテストで二回以上クラスで六位、つまり一番前の列になれば、一つ上のクラスへ上がれるんだけど、反対に三回以上一番後ろの座席になったら一つ下のクラスに落っこちちゃうの」
「かなり、厳しいね」
「そうよ。だから、あなたも頑張りなさい。さっそく今から、少し予習をしましょう。まだ三十分くらい余裕があるわ」
しばらく、二人でテキストを使い勉強をしていると、次々に生徒が入ってきた。どの子も、暑そうにタオルで汗をぬぐったりシャツの裾をはためかしていた。そうこうするうちに、チャイムが鳴りスーツを着た若い男の先生がクラスに入ってきた。
「はーい、今日からこのクラスで一緒に勉強する迎江さんです。お互いに頑張りましょうね」
先生が、イロハを紹介する。イロハは席から立ち上がり、一礼する。
「せんせー。どうして迎江さんは一番前に座っているんですか?」
真ん中くらいの列に座る少年が手を挙げて言った。
「迎江さんは、耳が聞こえにくい体質です。ですので、特例で一番前に座ってもらいます」
「ってことは、順位はどうなるんですか?」
「迎江さんの席順は、クラスの昇級には関係ないですよ。クラス替えが必要な子には、個々別々に声をかけるからね」
そう言うと、テキストを開いて、先生は言った。
「それじゃあ、授業を始めます。迎江さん、聞こえないところがあったら、いつでも言ってね」
そうして、三時間ほどの授業を受けおわると、すでに夜遅くになっていた。
「これで、終わりにします。みなさん、気を付けて帰ってくださいね」
チャイムがなり、先生がテキストを閉じながら言った。それを合図に、生徒たちは立ち上がり、会話をしながら教室を出る。イロハもまた文房具やテキストを片付けて帰ろうとした時、先生が声をかけてきた。
「迎江さん、ちょっとだけいいかな?」
「はい?どうしましたか?」
「今日の授業を聞いて、どうだったかな?」
イロハは、言葉に詰まった。正直に言えば、授業の内容は、イロハにとってはかなり難しく、ついていくことに不安があったのだ。
「あっ、ええっと、頑張ってついていくようにします」
「うーん。頑張るのは立派だけど、正直に言って、難しくなかった?」
「う、うーん……」
図星を突かれ言葉に詰まるイロハへ、先生は微笑んだ。
「そうしたらさ、毎回三十分だけ残ってくれないかな?僕が、教えられるところは教えるからさ」
「そんな、良いんですか?」
「もちろん。生徒のフォローアップをするのも、僕たちの役割だからさ」
そう言ってくれた以上、イロハに断る理由はない。イロハは、お辞儀をした。
「よろしくお願いします」
「あの。それ私も一緒に参加してもよいですか?」
後ろで話を聞いていたアリナが言った。
「私も、もっと上のクラスに行きたいんです」
「もちろん!大里さんがそう言ってくれてうれしいよ!それじゃあ、次回から──」
「あのっ!今日からでも、良いですか?」
イロハが言った言葉に、先生は一瞬キョトンとし、そして笑った。
「いいよ。それじゃあ、さっそく今日やったところを復習しようか!」
その後、イロハは塾の勉強に励むことになった。クラス担当の先生は、イロハへの支援を惜しまなかった。
「実はね、僕の両親も失聴者なんだ。いろいろと苦労するところを見ていてね」
ある日の自習時に聞いてみたところ、先生からは意外な言葉が返ってきた。
「だからかな。迎江さんを見ていると、応援したくなるんだ。でも、生徒の成績が良くなれば、僕の評価も上がるし。あんまり気にしないでおくれよ」
そう冗談めかして言った先生だが、かえってイロハのやる気に火をつけた。二週間ほどたち、新学期が始まったころにはイロハはクラスの授業についていけるようになった。まだ、成績は下から数えたほうが早いものの、テストの成績も伸びておりそれがイロハのやる気に一層火を付けたのだ。
──このイロハの決意がとある事件の引き金になることは、この時誰も予想していなかった。




