三十度の焦燥
──梅雨が終わり、灼熱の季節が始まった。
七月に入った途端、三十度を超えるのが当たり前の日々となって久しく、肉体労働の多い生物園の職員たちを苦しめていた。各人、クールネックリングを首に巻いたり、空調服を着て、少しでも涼を取ろうとしている。
これは、サトシも変わらない。
立実と一緒にケヅメリクガメの展示ルームを掃除していても、すぐに汗が浮かんでくる。
ケヅメリクガメは、見た目からは想像できない活発さで動いている。特にこの個体は、うかつに近づくと固い甲羅でど突いてくるので、サトシはなるべく距離を取るべく、こまめに立ち位置を変えていた。
そのせいもあってか、朝のクーラーがついているはずの室内なのに、サトシは、ひっきりなしに首に掛けたタオルで拭っていた。
「助かるよ、丑前くん」
立実が笑いながら言った。彼は五十を超えた位と聞いているが、白髪交じりの頭と加齢で垂れ目のようになった顔で笑うと、何やら還暦をとうに超えた好々爺のように見えてくる。
「いえ、自分にできることはそんなにはないので」
「いやいや。最近は人も少ないし、自分から手伝いを申し出てくれるから、本当にありがたいよ」
サトシは、立実に恥ずかし気な笑みを返す一方で、内心焦っていた。
──なぜなら、どの展示ルームやケージの中からも、王様グンディの宝玉が見つかる気配がないのだ
今も、グンディたちの裏側にある、リクガメの展示ルームの中を掃除しながら、細かく見ているのだが全くと言っていいほど見つかる気配がない。
『宝玉ありました?』
サトシは立実と世話話しながら、王様グンディへ心の声で聞く。王様グンディが持つ力で、サトシの視覚は彼にも共有されている。
自分が見つけられないだけで、王様グンディなら何か気付いたものがあったのではと思い確認したのだが、王様グンディの返事はそっけないものであった。
『見当たらぬな。ここも異なると思われる』
『でも、おかしくないですか?もう、全部の展示スペースは確認していますが、宝玉どころかその欠片すら見つからないなんて』
集めたゴミを専用のごみ袋に入れながら、サトシは訝しむ。
近くの宝玉があれば反応する杖が、この展示室に来てから反応しなくなったのは、この展示室のどこかに宝玉が隠されているからである、と推理したのは王様グンディとサトシである。
だが、この展示室はもちろん、飾られている水槽やケージ、隣接するバックヤード部分まで調べているのだが、一向に見当たる気配がない。
ここ最近、そもそも当初の見込みに間違いがあるのではないかという懸念が鎌首をもたげてきていた。
『そもそも、ここに来てから、杖の反応が全くなくなったから、ここにあるって判断でしたよね?杖の反応が消えたのは、別の理由だからとかはありませんか?』
『ふむ……余も一時そのように思ったのだが、以前下僕と逍遥したことがあったであろう』
『逍遥……ああ、この前、温室に行った時のことですね』
『左様。その時にこの部屋を出た途端、杖の反応が再び始まったのだ』
サトシは、ゴミ袋を持ちながら驚いた。近くに立実がいなければ、思わず声を上げていただろう。
『そうだったんですか!?なら、その時に言ってくださいよ』
『下僕に言うこと、言わぬことは、余が決めることである。それに、貴様に伝えたとて、なんの参考にもならんであろう』
なんか、煙に巻かれた気がしたが、これ以上突っ込んでも無駄な雰囲気であったので、サトシは何も言わなかった。
『そして、かつてこの場所に来た時と同じように、部屋から遠ざかると弱まり、近づくと強くなった』
『っていうことは……この部屋にあることは確かということですか!?』
『下僕にしては物わかりが良いな。その通りである』
そうすると、なおさら疑問なのは、なぜ見つからないか、ということである。立実と別れて、ゴミ袋を抱えてバックヤードへ向かいながら、いろいろと考えてはみるものの、なかなかこれといった答えが浮かばない。
ゴミ捨てを終えて、思案しながら展示室のガラス越しに見ると、王様グンディは中央の擬岩の上で寝そべっていた。サトシが近づいても、そのままの姿勢を崩すことはない。
『王様、最近はその岩にばっかり寝そべっていますね』
『ここが一番、居心地がよいのでな。余に何か文句があるのか?』
『特にはないですが、最近、ずっと寝そべっていますね』
『ふんっ!不出来な下僕を持つと、疲れるのでな。ここで少しでも回復しているのだ』
『はいはい。そうしたら、その姿、タレグラに載せますね。最近は、本当に人気なんですよ』
そう言って、サトシはスマホを向けるが、王様グンディはそのままの姿を変えなかった。
『いい写真が取れました。投稿しますけどいいですか?』
『好きにせよ。しかし、貴様、近ごろは毎日のように世話をしているが、大丈夫であるのか?』
『ん?何がですか?』
『決まっておろう。学業のほうはどうした?』
投稿するためスマホをいじっていた、サトシの手が止まった。サトシは、顔をあげて王様グンディを見ると、だらけている体とは対照的な真剣なまなざしがサトシを見据えていた。
『余を見くびるでない。人間の大学のスケジュール程度、余が知らぬと思っておったのか?』
『……まあ、ボチボチやっていますよ』
『本気でそう思っているのか?』
『…………何が言いたいのですか?』
王様グンディは何も答えない。
じっと王様へ見られていると、サトシの額に先ほどまでとは違った汗が滲んできた。
『王様?下僕となにをはなしているのよ?』
話に割り込むように、ミルフィが王様のいる岩に上ってくると、言った。
『そんなことより、アタシといっしょにぬくもりましょうよ、王様!』
『フフッ。よいぞ、余と一緒にいることを許そう』
その言葉で、ミルフィは王様の上に重なった。
王様は、気持ちよさそうに目をつぶりあくびをすると、サトシへ向かってつぶやいた。
『言っておくが、学びをおろそかにして未来から目を背けるような下僕の居場所は、余の宮廷にはないぞ。また、宝玉探しを言い訳にすることも許さぬ』
『……はい』
サトシは、低い声でそう言うと、そのまま展示室から出ていった。
王様を振り返ることは、なかった。
***
「ありがとうね、サトシくん」
論文を読みながら、サナエが言った。
サトシたちは、四階にある職員用オフィスのデスクでグンディの繁殖に関する情報を探していた。
オフィスには、日本中の動物園での知見や研究の結果を記載している雑誌がバックナンバー含めて置いてある。
また、インターネットを使えば世界中の論文にアクセスすることもできるため、二人はグンディについての情報を探しているのだ。
「自分は、手伝っているだけですし、大丈夫ですよ。それより、箱音さんのほうが大変じゃないですか?」
パソコンでグンディの情報を書いてありそうな論文を探しながら、サトシが答えた。
ほぼ毎日シフトを入れているとはいっても、サトシはアルバイトである。働く日数にも時間にも制限があり、正規の職員であるサナエとは比べ物にはならない。
「私も平気だよ!立実さんとか、私の作業を手伝ってくれるから。あっ、この前なんて林王さんも手を貸してくれたんだよ」
「へえ!?園長が……」
園長が、もともとはこの生物園の飼育員であったことは知っていたが、今でも動物の世話ができることは正直意外であった。
「そう、林王さんの手際が良くてびっくりしちゃった。あの『おもち』への餌やりもびっくりするくらいすぐ終わっちゃって」
『おもち』とは、生物園で飼育しているヤギの名前である。サトシがここへ来たころにはすでにいた古株であり、入ってくる飼育員へ頭突きをしようとすることで、一部職員からは恐れられていた。
「それは、すごいですね。僕が入ったときは、とてもちょっかいを出されて、大変だったのに」
「だよねー。私も何度もどつかれるのに、林王さんが軽くなでたら、おとなしくなっちゃったの」
園長の思ってもいない一面を知り、サトシの中の園長への認識が少し変わった。
単に調子のよい偉いおじさん、というわけではなかったのだ。
「皆さん、すごいですね……」
サトシは、遠くを見るような目で言った。今まで親しんでいた人や物が、今では何やら遠くなってしまったように感じられたのだ。
「そうだよね。私も頑張らないと」
「いや、箱音さんだって、すごいじゃないですか。絵もうまいし、話も上手ですし」
サナエの画力については、グンディのプロジェクトで何度も知っているが、サナエのすごさはそれだけではない。
温和そうで気さくな雰囲気と、知識と経験に裏打ちされたトークのおかげで、サナエ個人のファンになる来園客もいるのだ。
「なんか、そう言われちゃうと照れるな……」
「それに比べて、僕はいったい……何をやっているでしょう……」
サトシは、そこまで言って、ハッとした。心のどこかに沈積していた、不安が思わずこぼれてしまった。
「あっ、ごめんなさい……思わず愚痴が……」
「ふふっ。いいんだよ。サトシくん、いま一番進路について悩まないといけない時なんだから」
サナエの言う通りである。ついでに言えば、先ほど背を向けてきた王様グンディの言う通りでもある。
サトシは、ここ数週間、ほぼ毎日シフトを入れていた。反面、大学のほうの授業はおろそかになっているのは否めない。
あと一週間もすれば期末テストが始まる。いい加減、テストに集中しなくてはいけないのだが、どうしても本腰を入れようとは思えなかった。
さらに、今年からサトシは就活を始めなくてはいけないのだ。
既に同期は、適性検査や面接をしていると風の噂で聞いているのだが、サトシは就活サイトへの登録すらしていないのだ。
この年齢になっても、何をしたいのかおぼろげで分からない。
考えているうちに、頭が垂れてきたサトシを、サナエは心配半分優しさ半分な目で見ていた。
「サトシくん、今すごく悩んでいるんだね」
「そう、かもしれません」
「誰かに、就活のことを相談できたりしないのかな?」
「学生支援センターに行けば、もしかしたら、してもらえるかもしれませんが……なんか、あんまり行く気がしないんですよね」
「なにかあったの?」
「前に行った時も、あんまり親身に相談に乗ってくれなくて」
「なるほどね。そういうことがあると、行きづらくなるよねー。家族とかはどう?」
「……正直もっと嫌ですね」
厳密には一人的確なアドバイスをくれそうな身内を知っているが、彼女に聞く気にはなれなかった。
「そっか。相談できる相手がいないって、とっても大変だよね」
「箱音さんは、どうだったんですか?ぜひ、参考にさせてください」
サトシは何気なく聞いたのだが、サナエの答えは意外だった。
「うーん、私の経験なんて、参考にならないよ。私も、なかなか就職がうまくいかなくてね。実は大学を出ていないんだ」
「えっ、そうなんですか!?」
唐突な話に、サトシはそれ以上言える言葉がなかった。
「実家の都合でね。動物系の専門学校を出たんだけど、なかなか縁がなくて。入りたいところにも就職できなかったの」
サナエは、雑誌を読む手を止めて、少しだけ寂しそうに呟いた。
「でも、サトシくんなら、大丈夫だよ!こんなに頑張ってグンディたちのお世話しているんだから!」
「まあ、面接でなんとか話せそうですね」
「もし、全部だめなら、ウチに応募しなよ!林王さんも、サトシくんならすぐ採用してくれるはずだよ!」
「そうしたら、本格的に箱音さんの後輩ですね。優しく指導してくださいね」
「その前に、きちんと大学は出なよー。高卒はさすがに採用厳しいだろうから!」
そして、二人して笑った。なんだか、久しぶりに心から笑えた気がした。
「じゃあ、あと少し頑張ろうねサトシ君!」
その言葉で、サナエとともにグンディについて再び調べ始めた。
***
その夜、サトシが試験勉強に励んでいると、突然スマートフォンが震えた。その画面に表示された名前を見たサトシは、眉をひそめる。
いっそこのまま無視しようかなと思ったものの、スマートフォンが止まる気配はない。いよいよ根負けしたサトシが電話を取ると、明るい声が耳元に響いた。
『サトくん、久しぶりー!そっちはどう?』
「姉さん、今そっちは深夜じゃないの?」
およそ一年ぶりとなる姉の声は、最後に聞いた時と変わりなかった。
『そ。よく気付いたねぇ』
「当たり前だろ。こっちは午後七時、そっちは午前零時なんだから。何度、ハーウィに行っていると思っているの?」
てっきり、今拠点としているハーウィ大学にいるものと思って言った言葉に、アキコは楽し気にブッブー、と言った。
『ハズレー。今はハーウィじゃなくて、エワルモクにいるから、午後十時でーす!』
「どっちでもいいよ。酒でも飲んでいるの?ふざけているなら切るよ」
本気で切ろうとするサトシを、アキコは慌てて引き留めた。
『まあまあ。サトくん、十月にハーウィ来るんだよね?』
「行くけどどうしたの?」
『そうしたらさ、悪いんだけど、買ってきてほしいものがあるんだよね』
「知るかよ。父さんに頼むか、通販で買えよ」
『いやー、パパにはちょっと頼みにくくて、通販だと手数料や送料がバカにならないからサトくん頼むよ、ねっ?』
「……で、何が欲しいんだよ?」
いろいろと面倒くさくなったサトシは、近くにあったメモ帳を引き寄せながら聞いた。
『ありがとー!じゃあ、まずは『伊達男の冒険譚』の最新刊』
「姉さんが好きなあの漫画ね。初回特典入りのやつ?」
『そうそう、よろ』
「それだけ?」
『それとさ、いつものシャンプーも三袋くらい詰め替えを』
「はいはい。ほかには?」
『あっ、そうだ。一番重要なんだけど、ブルフォーの最新号を買ってきてほしいかな?』
「……は?いまなんて」
サトシのメモを書く手が止まった。『ブルフォー』ことブルームーフォーウーマンは有名な結婚情報誌である。
『だ、か、ら!ブルフォーだ──』
「いや、それは知っているよ!なんでそんなものが欲しいんだよ!」
サトシの声が、自分でもわかるくらい上擦る。
『鈍器にするわけじゃないし、ブルフォー買ってやることなんて一つじゃない?』
冗談のつもりで言ったのだろう、アキコの声は朗らかであったが、サトシは笑えなかった。
身内の贔屓目抜きでも、容姿端麗という言葉の似合う容姿のアキコは、意外なことに学生時代に浮ついた話は一切なかった。中高を女子校で過ごしていたからでもあるが、それでも時おり現れる下心を持った男たちを、彼女は悉く断ってきていた。
アキコ曰く、勉強とスポーツのほうが恋愛より楽しいとのことで、やんわりとしかし有無を言わせず振っているのをサトシは知っていた。そんな姉からいきなり言われた結婚のことは、サトシにとって青天の霹靂とでもいうべきものであった。
「姉さん、結婚するのかよ!?」
『うん、まあまだ口約束だけど』
「相手は誰?どんな人!?」
『こっちの大学の同学年。ハーウィに住んでいる、日系の人だよ』
「もう、父さんたちには言ったの!?」
『まだ。ただ、こっちにみんなが来るまでには言うよ』
サトシは黙り込んでしまった。アキコは、基本的に家族への相談をすることはなく、自分のことを自分で決める人間であることは知っていた。
だが、突然の結婚報告を咀嚼しているうちに、なにか昏いものがサトシの胸中にこみあげてきた。常に自分の前にいたはずの姉が、本当に遠くに行ってしまう、そう思うと自分でも不思議なくらい苛立ってくるのだ。
『彼、ロパカって言う名前なんだけどさ、めっちゃ理工オタクだから、きっとサトくんとも話し合うと──』
「知るかよ。会ったこともない奴との相性なんて」
『ん?どしたの?なんか怒っている?』
「あのさ、いきなりとんでもないこと言われて、混乱しているんだよ。分からないのかよ」
『……まあ、そうだよね。ごめんね』
聞いたことないような寂しげな姉の声に、サトシは却って頭が冷める。お互い何も言えず、しばらく無言の時間が続いた。
『サトくん、この結婚に賛成してくれるかな?』
「会ったこともない奴の人となりなんてわからないんだから、賛成も反対もないだろ」
『だよね。今の質問忘れて!』
「僕からは、父さんたちへは何も言わないでおくよ」
『ありがとう。助かるよ』
本当は祝福と協力の言葉の一つ、建前でもかけるのが礼儀であるのだろうが、サトシは言えなかった。それを言ってしまえば、何かがサトシの中で消えてしまうような気がしたのだ。
『あっ、そうだ。今度、私が書いた本を出版しようと思うんだ。その前に、読んで感想くれないかな?』
「僕の意見なんて、大したことないだろ」
『いやいや、素人の意見も重要なんですよ。それに、今回のやつはそこまで専門的じゃないからさ』
「わかったよ。今は忙しいけど、そのうち読むよ」
『助かるわー。ありがとう!』
「それじゃあ、これから勉強続けるから、切るよ」
『オッケー。じゃあ、お休み』
そう言うと、アキコは電話を切った。
通話画面が消え、スマートフォンには、すっかりとグンディ面になっているサトシの顔が写されている。
残されたサトシは、机の前でぼんやりとしていた。先ほどまで学んでいたことなど、すでに頭から消え失せている。
メールを受信した通知が来て、アキコから添付された原稿を開くこともせず、サトシはただただ呆けることしかできなかった。




