侍女の日常
この話には、いじめを連想させる描写が含まれています。こうした内容が苦手な方は、閲覧をお控えいただくか、ご自身の体調と相談しながらお読みください。
また、本作における聴覚障害・補聴器・耳の疾患に関する表現は、作者が調査した範囲をもとに書いておりますが、不正確な描写が含まれている可能性があります。フィクションとしてお楽しみいただき、医学的・専門的な情報として受け取ることはお控えください。
聴覚障害の症状や聞こえ方、治療の内容は個人によって大きく異なります。もしご自身や身近な方のことで気になることがあれば、耳鼻科や聴覚支援に関わる専門機関にご相談されることをおすすめします。
聴覚障害についてより正確な情報を知りたい方は、全日本難聴者・中途失聴者団体連合会や各都道府県の聴覚障害者情報提供施設など、信頼できる機関が発行している資料をご参照ください。
──六月のとある日曜日、迎江イロハは、麹田区に来ていた。
麹田区は隣接する湾岸区や中間区と合わせ都会三区と呼ばれている。
都会三区の名の通り、麹田区には、この国を代表する建物が多く建っており、東都二十三区を代表するような都会の区である。
イロハが来ているのは、そんな麹田区の楽斎町駅の正面にある運輸会館の二階であった。
同じ階に旅行用品店や本屋、ギャラリーなど様々な店舗があるが、この日イロハが来たのは、その中でも一番奥にある店であった。
「はい、調整終わったよ。イロハちゃん。これで耳にかけてみてくれるかな?」
認定補聴器技能者の飯田が、イロハへ補聴器を返すと言った。
真っ白な髪と同じ白い口髭、それにまん丸な顔をした彼は、『おじいちゃん先生』とあだ名されているが、実際はまだ五十手前であり齢を聞かれると驚かれる。
そんな飯田は、イロハが補聴器を初めてつけた時からずっと彼女の担当をしており、イロハの聴覚については主治医の次に詳しい。
イロハは、彼が調整した補聴器をそっと耳にかける。彼女の耳に合わせて調整された導音チューブは、自然に耳に沿ってフィットした。
イヤーモールドがイロハの耳の穴にそっと入ると、それまで聞こえていなかったBGMが明確に聞こえるようになった。
「聞き心地はどうかな?」
飯田が、優しく聞いた。
「すごく、良くなっています。前より、はっきりと聴こえるようになりました」
「それは良かった!しばらく来ていなかったから、結構調整したんだよ」
イロハが、この店に来るのは、半年ぶりであった。
両親の離婚に転居、新たな学校への転校手続きのため、なかなかこれなかったためか、補聴器の調整には随分と時間がかかったのである。
「これで、もう一度検査して問題ないようだったら、今日は終わりだね」
「いつも、ありがとうございます」
「ははは。イロハちゃんはとってもお利口だね。そういえば、転校先の学校にはもう馴染めたかな?」
「あっ……、ええっと……」
飯田からの質問に、イロハは言いよどむ。
転校して、二か月が過ぎた。
初日の騒動があったが、その後は特に問題は起きていなかった。
──だが実際には、問題が起きないような状態になっているというのが正しい。
転校してからというもの、イロハはクラスの腫れ物扱いである。
同級生たちは、邪険に扱うことこそしないものの、積極的に触れ合おうとする者はほとんどいない。
先生の配慮で一番前の座席に座らせてもらっているため、授業が聞こえないことはないが、休み時間に誰かが話しかけに来ることもない。
厄介なお客様のように扱われているイロハは、日に日に居心地の悪さを実感していた。
「うーん。やっぱり、イロハちゃん、転校は大変だよね?」
飯田は、何かを察したかのように言った。
「実はさ、僕もよく転校していたんだ。だから、イロハちゃんが大変じゃないかなーって思うんだ」
「えっ!?先生が、ですか?」
「そう。親父が転勤族で、それについていって三回は転校したんだよ。で、口下手だったから、慣れるまでが大変だったんだ」
昔を思い出すように語る飯田に、イロハは思わず食いついた。
「先生は、転校先ではどうやって馴染んでいったんですか?」
「いやー。僕の場合、転校先で妙に親しくしてくれる奴が必ずいてさ。今から思うと運がよかったな、って思うんだ」
「そう、なんですか……」
イロハは、肩を落とした。そんな彼女を見て、飯田は慌てて言った。
「あー。でも、一度話すきっかけが作れると、すぐに馴染めるよ!イロハちゃんは、転校先でよく話す友達は、いないの?」
「いるには、いるんですが……」
「なら、その子をきっかけにいろいろ話すとよいと思うよ!」
飯田がニッコリとほほ笑むのに合わせて、イロハも作り笑いを浮かべた。
イロハが話しかけるほぼ唯一の相手は、隣の席の石沼カズキである。
『ねえ、迎江さん。困ったことがあったら、何でも俺に相談してよ』
初日に質問攻めにあったイロハを静かに見守り、席に座ったイロハへこう言って気を使ってくれたのも彼であった。
それ以来、カズキは、過剰に気を使ってくることもなく、気さくにイロハに声をかけてきてくれた。
変に気を使われることを好まないイロハにとって、カズキがさりげなく橋渡しをしてくれていることが、数少ない救いでもあるのであった。
「そうだね。それと、どうしてもいやだったときはクラスを抜け出して、一人でぶらついていたね。イロハちゃんも、どうしても耐えられないなら、そうしてみたらどうだい」
飯田は、少しいたずらっぽく笑いながら言った。
イロハは、困ったような笑いを浮かべながら、うなずく。
人には言えないことであるが、イロハはグンディたちの王国の侍女である。
王国と言っても、手伏区生物園の中の一区画、グンディの展示スペースではあるが、そこでは確かに彼女は侍女としての役割を任されていた。
イロハの役割は、王様グンディの話し相手であり、彼の探す宝物の捜索に、妃と称するメスのグンディたちの相談役と実に多忙であった。
特に、妃たちとのお話は、大変である。
三匹の妃グンディは、それぞれ異なる趣味をしており、彼女たちの要求をかなえるように動くのは、小学生のイロハにはやや大変であった。
『イロハ!わたし、新しい動画が見たいわ!デグーの動画をもっと見せて頂戴!』
アンドレは、ほかのげっ歯類が好きなようで、タレグラでげっ歯類の動画を見るのが好きらしい。彼女の願いをかなえるため動画を検索しまくった結果、イロハのタレグラのおすすめ欄はすっかりネズミ一色に染まってしまった。
『アタシにアイデアをよこしなさい!この岩場を王様も気に入るようにアレンジするわよ!』
強気なミルフィが好むのは、いかに展示スペースを美しく飾るか調べることであった。DIYやアレンジメントの手本の動画を見ては、それをアレンジして岩にチモシーやニンジンを飾るのが彼女の日課であった。
『もっと、イロハの学校での話を聞きたいのです。お願いできますか?』
メウェは一番謙虚なようでいて、イロハを困らせることが多い妃であった。彼女はイロハの話す物語に少しでも気になることがあれば、納得するまで質問し続ける芯の強さがある。メウェの好奇心を満足させることは、イロハの知識量ではなかなか大変で、よく王様グンディや丑前サトシの手助けをもらって切り抜けていた。
「どうしたんだい、イロハちゃん!?」
イロハが思い出し笑いを浮かべたのを見た飯田は、不思議がって言った。
「あっ。いいえ、何でもないです」
「そっか。それならいいんだ」
まだ若干納得してなさそうな飯田が、それでも頷いた。
「ところでさ、最近イロハちゃん、耳だれとかあったりするかな?」
「えっ?いいえ、特には」
「そっか。そうしたら、イロハちゃんのお母さんに、いちど獅子宮病院さんで精密検査を受けてもらうように伝えておいてくれないかな?」
湾岸区にある獅子宮病院は、イロハが通っている病院である。
「はい?伝えておきますけど、どうしてですか?」
「これは、僕の個人的な印象なんだけどね、ちょっと耳の具合が良くないかもしれないね」
「それって……病気の再発、ですか?」
イロハは、幼少時に真珠腫性中耳炎という病気を患っていた。
耳に固くなった皮膚の塊でできた腫れ物が、中耳へ侵入していき、最終的に耳の骨を溶かし、神経を壊していく。
イロハの聴覚を奪ったこの病気は、いったん手術で摘出しきったはずであるが、再発しやすいことでも知られている。
「獅子宮病院さんには、僕のほうから連絡するけど、お母さんにも知っておいてもらいたいからね」
最終的な判断は主治医にしてもらう必要があるとはいえ、経験豊富な飯田の言うことが当たっていることは多い。
彼がここまで言うからには、再発している可能性が高いのだろう。
「わかり……ました」
イロハの声は意図せず固くなった。手術となれば、経済的・肉体的な負担はもちろん、心理的な負担も大きい。
彼女のそんな様子を察したのか、飯田は先ほど以上に優しげな声で言った。
「ごめんね、僕からもお母さんに連絡するから。イロハちゃんからも伝えておいてくれるかな?」
「はい……」
「ありがとう、イロハちゃん。そうしたら、もう一回、調整しようか」
飯田の言葉に、イロハは、ただ頷くことしかできなかった。
***
イロハが補聴器をメンテナンスした翌日のことである。
「ねえ、迎江さん。ちょっと、一緒に来てくれる?」
授業が終わり、イロハが帰り支度をしていると、突然声をかけられた。
イロハが振り返ると、険しい顔をした女の子が三人立っている。
彼女たちとは、いままでほとんど会話をしたことがない。しかし、彼女らの穏やかではない雰囲気を感じ取ったイロハは、なるべく平常心を保ちながら言った。
「大里さん、ですよね?何の用、ですか?」
「あなたに話したいことがあるんだけど。来てくれるよね?」
大里と呼ばれた、ポニーテールの気の強そうな女の子が不機嫌そうに答えた。
よくないことが起きそうなことを直感で悟ったイロハが後ずさりしようとするが、いつの間にか大里と一緒にいた二人の女の子が後ろに立っており、逃げられない。
「大丈夫、迎江さん次第ですぐに終わるから。来てくれるよね?」
有無を言わさない態度に、とうとうイロハは頷いてしまった。
そうして、イロハは同じ階の女子トイレへと連れ込まれた。
放課後の女子トイレは、イロハたちしかいなかった。
トイレに入り次第、大里は顔をこわばらせてイロハに詰め寄った。
「ねえ。迎江さんって、本当は障害なんてないのでしょ?」
「えっ?私は……」
「ごまかさなくていいから。石沼くんや男子と会話できているじゃん」
大里がなじるように言うと、一緒に来た二人の女の子も同調するように言った。
「そうよ!そのくせ、私たちが話しかけるとすっとぼけたように聞こえないなんて変でしょ!」
「アンタって、単に男の子たちから好かれたいだけよね!?そうじゃないと、辻褄合わないわよ!」
「ち、ちが……」
イロハは、何とか誤解を解こうと説明をしようとするが、それは大里の怒声に阻まれた。
「現にこうやって聞こえて話せているじゃん!何が違うのよ!?」
大里の怒りに満ちた音声が、補聴器で拡張されイロハを苦しめる。
イロハは、混合性難聴という障害を持っている。これは、全体の音量が小さく聞こえるだけでなく、特定の音が聞き取りづらいのである。
特に高音域──女性の声やサ行の音──が歪んで聞こえるため、どうしても女子の声を聞きづらい。
それをわかっていた前の学校では、イロハの前に立って話しかけてくれていたのだが、こちらの学校ではそうした配慮がないため、イロハが聞き逃す原因となっていた。
「ねえ。いくら障害者だからって、男子や先生に媚びて恥ずかしくないの?」
「聞いて、大里さん!言ったことを聞き逃したことはごめんなさい。でも、私、高い音は聞こえにくいの。だから、これからは正面で話しかけてくれると……」
イロハの必死の説明も、大里たちの怒りに油を注いだだけであった。
「なによそれっ!?そんな都合の良い、障害があるわけないじゃん!」
「そうよ!聞こえるのか聞こえないのか、はっきりとしなさいよ!」
「手話もできないって噂だし、その補聴器も飾りなんじゃないの!」
イロハは確かに手話ができない。四歳の頃に聴力を失ったが、補聴器を付けてさえいれば一応音は聞こえるし会話ができる。
このため、手話を習うということもなく、彼女は過ごしていた。
「手話はできない、会話はできる、でも私たちの声は無視する。こんな都合の良い話、おかしいじゃない!」
大里が、顔を赤くして怒鳴ってくる。なんとか、落ち着いて話してもらうようにイロハが何か言おうとした時、トイレの外から先生の声がした。
「いま、大きな声がしたけど、大丈夫かしら?」
その声で、冷静になったのだろう、大里と一緒にいた女の子が、返事をした。
「大丈夫です。お話をしていたら、ちょっとだけ、熱くなっちゃって」
「そう。もう、放課後なんだから早く帰りなさい」
面倒くさそうな先生の返事が聞こえ、足音が小さくなる。大里たちは興が醒めたような冷めたい顔でイロハに言った。
「明日、朝の会で、みんなの前で、絶対言いなさい!私の障害は、嘘でした。ごめんなさいって」
何も言えないイロハを、睨みつけながら大里が詰め寄った。
「返事は!?聞こえないなんて言わせないよ!」
それでも、無言のままのイロハへ、追い詰めるように言葉を畳みかける。
「私たち、これから塾に行かないといけないの。早く返事してくれる?」
「……はい」
ひねり出すような、その言葉を聞いた、大里たちは少し満足した表情を浮かべると、トイレから出ていった。
あとに一人残されたイロハの体は、今になってようやく震えだした。
***
──シフトが終わり退勤しようとした時、イロハの声が脳裏に響いた。
『……丑前さん、王様、今、ちょっとだけ話せますか?今、公園の入り口にいますので、すぐに行きます』
いつもの柔らかく優しげな声とは異なる、硬く震えるような声である。さすがにただ事ではないと悟ったサトシは、一も二もなく承諾した。
『イロハ、どうしたのかしら?』『なにがあったのよ!』『あの子に何かあったのか、しんぱいです』
彼女の声を同じく聞いたメスグンディたちをなだめた後、公園に出た。
イロハは、多目的広場の横にあるベンチに座っていた。
遠目では彼女の外見に特に異常は見当たらず、サトシはホッとする。しかし、イロハの顔が今まで見たことがないくらい暗く沈んでいることに気付き、再び真顔になった。
「迎江さん……」
「丑前さん、閉園日なのに、無理言ってすいません」
サトシに気付いたイロハが、元気なく言った。
落ち込んでいる顔で無理に笑おうとしている彼女はあまりにも痛々しく、目を背けそうになるがサトシは何とかこらえた。
『侍女よ、ただならぬ様子であるな』
王様グンディはいつもの調子で言った。
『……はい。ごめんなさい』
『謝る必要などない。そこにいる下僕とともに、しばし風に当たろうぞ』
午後三時を過ぎている公園では、子供たちがボールを使って遊んでいた。
多目的広場は、球技ができるため、子供たちに人気がある遊び場である。
そのそばのベンチに座るサトシもイロハも、展示ケースにいる王様グンディも何もしゃべらない。ただ、風で揺れる葉の音と子供たちの声が響いていた。
折しもちょうど良い具合にベンチは木の影となっており、二人の間に涼しい風が流れていた。
「暑いね」
ふと、風が止むと、サトシが思わず、つぶやいた。
「そう、ですね」
「なにか、飲み物買ってこようか?」
「……大丈夫、です」
そこで話が止まってしまう。自分のコミュニケーション力の貧相さを内心呪いながらも、サトシはイロハの横で静かに座っていた。
やがて、日差しが紅みを帯び始めてきて、子供たちが公園を去り始めた時、イロハが口を開いた。
「……ひとつ、聞いてもよいですか?」
「いいよ」
「私、明日どうすればよいのでしょうか?」
「何が、あったの?」
サトシの疑問に答えるように、イロハは放課後に大里たちへ言われたことを語り始めた。
***
「そんなことが……」
ベンチに座るサトシが、絶句する。
話を聞き終わったころには、すでに五時前となっていた。
「こんなことがあったことを、先生には伝えたの?」
「いいえ。思わず、すぐにここにきてしまいました」
「それは、明日きちんと言ったほうが良いよ」
「……でも、それで納得してくれるのか、わかりません」
イロハが受けたことは、まごうことないいじめである。
本来は、親や先生が対応するべき案件であり、そうするべきであるとサトシは感じた。
「私、何か間違えたらと思うと怖くて……でも、何をすればよいのかはわからなくて……」
いつもの姿からは想像できないほど怯える少女に、サトシは何を言ってあげればよいのかわからない。
辛い人にはただ寄り添ってあげろ、とはよく聞くが、サトシには今どうすれば『寄り添い』になるのか見当もつかない。
こういう時、何でもできる姉なら、どうするだろうか、そんな逃避にも似た思考が動き出した瞬間、王様グンディの声が響いた。
『侍女よ。そなたは誠によくできた侍女である』
『えっ?あ、ありがとう……ございます……』
『そなたの忍耐力と勇気は、そこの下僕など優に超えている。余の言うことであるから、間違いではないぞ』
いい加減、自分をダシにするのをやめてほしいと思いつつ、王様グンディのいうことはサトシ自身も賛同せざるをえなかった。
『まずは、己が心に語り掛けてみよ。そして、返ってきた言葉を、よく吟味するのだ』
『そう、なんですか?』
『そなたの抱える問題を解く、王道はない。いずれの道も困難極まるであろう』
『……はい』
『いかなる時でも、余の王国では、そなたを待っている。それは余も妃たちも同様である。それをゆめゆめ忘れるでない』
『わかり、ました……』
すでに赤くなっている空の下で、イロハは目をつぶりなにか考えていた。
そして、ゆっくりと目を開けたイロハが、真剣なまなざしでサトシに言った。
「あの。一つ、手伝ってもらえますか?」
──駅前の区立図書館で、サトシとイロハは調べ物をしている。
幸い、本を読むだけであればだれでも利用できるため、区民ではないサトシやイロハもとがめられることはなかった。
「でも、良いの?夜遅くまで外にいて?」
サトシは、聴覚障害についての医学書を眺めながらささやいた。
「はい、お母さんは夜遅くまで帰ってきませんし、おばあちゃんは放任主義なのであんまり気にしないですね」
正面で、聴覚障害についての知識をまとめるイロハが同じく小声で言った。
彼女は、活用できそうな情報を自身のタブレット端末に入力している。これは学校で支給された物らしく、サトシには隔世の感を覚えるものがあった。
『明日、クラスのみんなに私の耳のことを話します』
公園でイロハがそう宣言したのを、サトシは驚きながら聞いた。
『だから、丑前さん。一緒に利用できそうな知識を調べてくれませんか!?』
もちろん、断る理由はない。サトシたちは一番近くにある図書館へと向かうと、そこで聴覚障害について調べ始めた。
耳のことであれば、すべて答えられるようにしたいと言った少女の意思は固く、イロハは専門的な医学書にすら手を付け始めていた。
サトシもまた、その心意気に押されて、張り切っていた。
本棚から、使えそうな資料を集めて、机に持っていき、そこで本に目を通す。時間がないため、二人は必死に読み漁った。
やがて、館内に蛍の光が流れ出す。閉館の合図と知ってもなお、二人はぎりぎりまで本を読んでいた。職員に追い出されるまで、イロハたちの調査は続いた。
「ありがとうございます!」
図書館を出たイロハは、頭を下げた。
「こちらこそ、十分に手伝えなくてごめんね」
「いえ、あとは自分でやります」
「わかったけど、無茶はダメだよ。それと、家まで送るよ」
「えっ!?そこまでは大丈夫です!」
「いやいや。もうすっかり夜も遅いし、送るよ」
そう言った押し問答を数回繰り返し、とうとうイロハが折れた。イロハの家の近くまで行くバスに二人で乗り、しばらく二人は無言になった。
やがて、バスが最寄り駅に着くと、二人は降りて家の近くまで一緒に歩いた。やがて、住宅街に入り、イロハの家が見えてくると、イロハが言った。
「ここで、大丈夫です。今日はありがとうございました!」
「……わかったよ。でも、予め先生には伝えておくんだよ」
サトシが読んだ本の中に、このような場合、教師の事前の関与と話す場の調整が重要であるという記載があった。それがどこまで役に立つかはわからないが、サトシは釘を刺すように言った。
「はい。わかりました!」
「じゃあ、おやすみ。迎江さん」
「おやすみなさい、丑前さん。お気をつけて帰ってください」
そう言って、自宅へ入っていったイロハを見送ったサトシは、少し寒くなった夏の夜道を一人帰るのだった。
──翌日の朝のことである。
『貴様も、少しは気が利くようになったではないか』
生物園の開園前に、事の顛末を聞いた王様グンディが、珍しく優し気な声で言った。
『迎江さん、上手くいくといいんですけど……』
『ふんっ。侍女の選んだ道は、一番険しいものである。逃げることも折れることもなく、立ち向かうのであるからな』
グンディの朝の写真を撮りながら、サトシと王様グンディが会話する。
『でも、上手くいくとよいですね』
『たわけが。今日、侍女がやることは最初の一歩に過ぎない。これよりあの子は、一人で行動し、信頼を積み重ねていかねばならないのだ。ゆえにこの道は険しいのだ』
『一人って。それじゃあ、僕たちができることって、あるんですか?』
『当然よ。あの子がいつでも戻れるよう、王国を繫栄させることこそ、貴様ができることであるぞ』
王様グンディが、一瞬ニヤッと笑った気がした。サトシも、思わず笑い返すのであった。
ゴールデンウィーク中は、毎日掲載するようにしますので、ぜひご確認お願いします。




