第7話『ラーメン屋の無口マスターは全てを知っている(かもしれない)』
スーパーでの「半額シール事変」は、海斗の心に奇妙な疲労感と、そして「勝った!第3部完!」みたいな達成感を残した。嫉妬に狂うルナが引き起こした局地的な嵐は、彼女の機嫌が直ると同時に嘘のように消えさり世界を救うことが出来たからだ。
半額惣菜が買えなかったことを除いては…。
「……腹、減ったな」
アパートへの帰り道、隣を歩くルナの腹が「きゅるる~」と可愛らしい音を立てた。さっきまでの剣幕が嘘のように、今はバツが悪そうに俯いている。その姿が、叱られた後の子犬のようで、海斗は思わず苦笑した。
「よし、今日は特別だ。俺のソウルフードを食わせてやる」
「そうるふーど……?」
「魂の食べ物ってこと。まあ、俺が世界で一番うまいと思ってるラーメン屋だ」
どーん!と胸を張る海斗に、ルナの顔がぱあっと輝く。
その素直さが、海斗には“癒し”以外の何物でもなかった。世界の命運も、家計の危機も、二の次にしてしまうくらいに。
二人が向かったのは、駅前の喧騒から一本外れた、昭和の香りが色濃く残る路地裏。そこに、まるで隠れ家のようにひっそりと佇む一軒の店があった。煤けたのれんには、力強い筆文字で『むさし屋』とだけ書かれている。
「ここ……?」
ルナは不安そうにガラス戸の向こうを覗き込んだ。店内はカウンター席のみ。薄暗い照明の中、湯気の向こうに見えるのは、ねじり鉢巻きをした角刈りの男。岩のようにごつい体躯で腕を組み、眉間に刻まれたシワは、まるで長年の戦でついた古傷のようだ。いかにも「頑固一徹」を地で行くその男こそ、この店の主、桜庭武蔵だった。
「うっす、マスター」
「……いらっしゃい」
ズシン、と地を揺らすような低音ボイス。桜庭はカウンターの内側から、海斗の後ろに隠れるように立つルナを、値踏みするようにギロリと一瞥した。その眼光は、獲物の急所を見定める猛禽類のそれだ。
ルナは思わず「こ、これが威圧スキルLv.MAX……」と小声でつぶやき、海斗のシャツの裾をぎゅっと掴んだ。
「大丈夫だ。味は保証する。見た目は……まあ、諦めろ」
海斗に促され、おずおずとカウンターの端の席に座るルナ。海斗はその隣に腰を下ろした。
「マスター、いつもの。あと、こいつにも同じやつ。麺はかためで頼む」
「……へい」
桜庭は短く応じると、巨大な寸胴の前に立った。その背中は一枚岩のようで、近寄りがたいオーラを放っている。彼は無言で麺の塊を掴むと、テボに入れて豪快に湯の中へ投じた。チャッチャッ、とリズミカルな湯切りの音が、静かな店内に響き渡る。
その間、桜庭の視線は、決してルナから外れなかった。調理の合間合間に、まるで何かを見定めるかのように、鋭い視線を送ってくる。ルナは完全に萎縮してしまい、テーブルの木目を数えることに全神経を集中させていた。
(やべえ……完全に“ラスボスイベント戦”だと思わせちまった)
海斗は内心で汗をかく。ここは彼にとって唯一の聖域。
現実に心が折れそうな時も、このラーメン一杯で「俺は帰ってきた!」と立ち直れた。だからルナにも味わってほしかったのだ。
やがて、二つの丼がカウンターに置かれた。琥珀色に輝くスープの表面には、丁寧に抽出されたであろう鶏油がキラキラと浮かんでいる。トッピングは、分厚いチャーシュー、極太のメンマ、そして鮮やかな緑のほうれん草。湯気と共に立ち上る、煮干しと豚骨の複雑で芳醇な香りが、鼻腔をくすぐった。
「さあ、食え。冷めないうちに」
「は、はい……」
ルナは、まるで儀式に臨むかのように、おずおずとレンゲを手に取った。スープを一口すする。
次の瞬間、目をカッと見開き、思わず叫んだ。
「……お、おいしすぎますっ!!」
それは「ただの感想」ではなく、魂の咆哮。
魚介の深みと動物系のコクが混ざり合い、完全なる調和を奏でる。
「だろ?」
海斗はドヤ顔で麺をズズッとすする。
ルナも夢中になり、気づけば二人の間には「啜る音の合唱曲」が流れていた。
「これが……“真のラーメン”……」
さっきまでの緊張はどこへやら、その顔には純粋な幸福感が浮かんでいる。桜庭は、そんな二人を腕組みしたまま、黙って見つめていた。その表情は相変わらず険しいが、口元がほんの少しだけ緩んでいることに、海斗は気づかなかった。
店内に響くのは、二人分の麺をすする音と、壁にかけられた古い時計の秒針の音だけ。気まずいはずの沈黙が、今は不思議と心地よかった。同じものを「おいしい」と感じる。ただそれだけのことが、二人の間の距離をぐっと縮めてくれた気がした。
やがて、丼は空になった。スープの一滴まで飲み干したルナは、満足げにほうっと息をつく。
「ごちそうさまでした。すごく、すごく、おいしかったです」
深々と頭を下げるルナ。海斗も「ごっそさん、マスター」と財布を取り出した。会計をしようと海斗が席を立った、その時だった。それまで石像のように沈黙を守っていた桜庭が、重い口を開いた。
「兄ちゃん」
「へい、なんでしょう」
「そいつ、ちゃんと大事にしろよ」
ぶっきらぼうで、命令口調。だが、その声には、先ほどのラーメンのスープのように、深く、温かい響きがあった。
「お前が泣かせたら、俺が許さねえ」
その言葉は、雷のようにルナの心を貫いた。
生まれてからずっと、自分の存在が世界に災いをもたらすのではないかという、漠然とした不安に苛まれてきた。海斗と出会ってからも、迷惑ばかりかけているという罪悪感が常に胸の内にあった。
だが、今、目の前の無口で怖い顔をした男は、確かに言ったのだ。「大事にしろ」と。それは、彼女の存在そのものを肯定し、守るべき価値があるものだと認めてくれた、初めての言葉だった。
「……はいっ!」
カイトが答えたその時、気づけば、ルナの大きな瞳から、ぽろり、と大粒の涙がこぼれ落ちていた。それは、悲しみや不安からくる涙ではない。自分がここにいてもいいのだと、誰かに「大切にされている」のだと実感できた、生まれて初めての、しょっぱくて温かい嬉し涙だった。
その瞬間、世界は祝福の光に包まれた。
夜空に突如として現れた巨大なオーロラ。世界中の都市で一斉に観測された、原因不明の美しい光のカーテン。ニュース速報が、奇跡的な天体ショーの様子を大々的に伝えていたが、路地裏の小さなラーメン屋にいる二人は、まだそのことを知らない。
桜庭は、泣きながらも幸せそうに笑うルナの姿を認めると、ふっと口元を緩め、満足そうに頷いた。そして、またいつもの無口な職人の顔に戻り、山積みの丼を洗い始める。その背中が、やけに大きく見えた。
「マスター、あんた……一体何者なんだ?」
海斗が尋ねると、桜庭はガチャガチャと食器を洗う手を止めずに、肩をすくめて答えた。
「ただのラーメン屋だ。それより、また来いよ。次はチャーシューおまけしてやる」
その背中は、何か壮大な過去を物語っているようにも、ただ単に明日のチャーシューの仕込みで疲れているようにも見えた。
海斗は、この無口な店主が、自分とルナ、そして世界の運命を繋ぐ、重要なキーパーソンになることを、まだ知る由もなかった。彼はただ、嬉しそうに自分の腕に絡みついてくるルナの温もりを感じながら、ラーメン代以上の、何か計り知れない価値のあるものを受け取ったような気がしていた。




