第5話「家賃VS世界崩壊」
同居生活にも、ほんの少しだけ慣れてきたある日のこと。俺、天城海斗は、この世界のもう一つの厳然たる事実を、目の前の無垢なる破壊神に教え込む必要に迫られていた。
キッチンでの小爆発や洗濯物のシュルレアリスム的縮小にも、心が少しずつ麻痺してきた。だが、これだけは避けて通れない。文明社会の根幹をなす、絶対的なルールだ。
「いいか、ルナ。よく聞け。これが俺たちの世界の『現実』だ」
俺はちゃぶ台に一枚の紙を叩きつけた。それは昨夜、コンビニの深夜バイトの休憩中に、レシートの裏に書きなぐったものだ。そこには「家賃:53,000円」「水道光熱費:約10,000円」「食費:限界まで切り詰めろ」「通信費:8,000円」といった、絶望的な単語が俺の汚い字で踊っている。
家計簿という名の、毎月突きつけられるデスノートである。
「かいと……この『やちん』というのは、魔王か何かですか?」
ルナは小首をかしげ、純粋な瞳で俺を見つめてくる。その瞳には、世界の真理を探求する哲学者のような輝きがあった。
「ある意味そうだが、魔王よりタチが悪い。魔王は倒せば終わりだが、こいつは倒せない。毎月決まった日に『おかね』という名の貢物をしないと、俺たちのセーブポイント(この部屋)が強制的に消滅させられる、もっと厄介な存在だ。いわば、不死身の大家という名の神だ」
俺の悲痛な説明に、ルナは何かを固く決意した顔で、こくこくと何度も頷いた。そのあまりにも真剣な眼差しに、俺は「よし、少しは理解してくれたか」と、わずかながら安堵の息を漏らした。
この時の俺はまだ知らなかった。彼女の純粋すぎる善意と、致命的なまでの勘違いが、俺のけちな財布と世界のインフラに、最大級の厄災をもたらすことになるということを。
その夜、俺が深夜バイトから疲れ果てて帰宅した時、アパートのドアを開けた瞬間に異変に気づいた。いつもは裸電球の寂しい光が漏れているだけの玄関が、なぜか薄暗い。そして、部屋の奥から、何やらカラフルで怪しげな光が明滅している。
「ただいま……ルナ?何してるんだ?」
靴を脱いで部屋に上がった俺は、その光景に絶句した。いつもは万年床とちゃぶ台しかない殺風景な六畳一間が、見慣れない段ボールの山で埋め尽くされていたのだ。
「こ、コレは?」
まるで秘密の要塞か、あるいは巨大なネズミ捕りのように、天井に届きそうなほど積み上げられている。そして、その中心で、水晶玉のような球体を両手で掲げ、うっとりと眺めているルナの姿があった。その水晶玉が、部屋に明滅する怪しい光の正体だった。
「ルナ、これは……一体なんだ?どうしたんだ、この荷物の山は」
俺の声に気づいたルナは、ゆっくりと振り返った。その顔は、達成感と喜びに満ちた、輝かしい笑顔だった。
「おかえりなさい、カイト!もう大丈夫です!もうカイトにばかり負担はかけられません!私が『世界を救うグッズ』を取り寄せました!」
彼女が誇らしげに掲げたのは、俺の古びたノートパソコンの画面。そこには、いかにも胡散臭いスピリチュアル系通販サイトの購入完了ページが表示されていた。サイト名は『ミラクル☆ヘヴン』。星と虹が飛び交う、悪夢のようなデザインだ。
「『触れるだけで幸運を呼ぶ奇跡のクリスタル(3万円)』、『飲むだけで内なる力が湧き出る聖なる水・エデンウォーター(5本セットで5万円)』、『貼るだけで部屋の運気が爆上がりする黄金の昇り龍の絵(由緒正しい掛け軸付きで7万円)』……!」
俺は、購入履歴に並んだ商品名を一つ一つ読み上げながら、眩暈を覚えた。合計金額は、俺のバイト代の二ヶ月分を軽く超えている。
「おま……俺のカードで何してくれてんだああああ!」
「はい!カイトの魔法のカードを使いました!『ワンクリックで今すぐ購入』という、まるで聖剣エクスカリバーのような、選ばれし者のためのボタンがあったので!」
ルナは悪びれる様子もなく、むしろ誇らしげに胸を張る。彼女に悪気がないことは分かっている。だが、この現実をどうすればいい。俺の絶叫と、部屋にそびえ立つ段ボールの塔が虚しく共鳴した、その瞬間だった。
カタン、と乾いた音を立てて、アパートの古い郵便受けに何かが投函された。それは、赤い縁取りがされた、見るからに不吉な封筒だった。俺は震える手でそれを拾い上げる。そこに書かれていたのは、赤いゴシック体で印字された「電気料金お支払いのお願い(最終通告)」という、死の宣告にも等しい文言だった。
そして、まるでその宣告を実行するかのように、バツン!と部屋の明かりが消えた。
「あ……」
停電。それは、この世界の終わりへのカウントダウン。
俺のスマホのバッテリーも残りわずかだったが、その小さな画面に、絶望的なニュース速報が次々とプッシュ通知で表示される。
『【速報】原因不明の大規模停電、アジア全域で発生中。送電網に深刻な障害か』
『【続報】欧州の主要都市、完全に沈黙。ロンドン、パリ、ベルリンで全電源喪失との情報』
『【国際】ニューヨーク、タイムズスクエアの光が消える。ホワイトハウスも非常用電源に切り替え』
世界が、闇に飲まれていく。その原因が、この六畳一間のボロアパートにあるなど、誰も想像すらしていないだろう。原因は、俺の口座残高不足と、目の前で青ざめている少女の存在だ。
「うわあああん!ごめんなさい、ごめんなさい!私が、私がカイトを困らせたから……世界が……!」
真っ暗闇の中、自分のしでかしたことの大きさにようやく気づき、子供のように泣きじゃくるルナ。その嗚咽は、まるで世界の悲鳴そのもののように、俺の耳に突き刺さった。俺は深いため息をつくと、手探りでその小さな体を探し当て、その震える肩を掴んだ。
「……もういい。泣くな」
「でも、でも……!」
「金は、また稼げばいい。カードも止めればいい。この謎グッズも、返品すればいいんだ。それより、お前がそんな顔してる方が、俺は嫌だ」
俺は、自分でも驚くほど落ち着いていた。いや、あまりの事態に、逆に冷静になってしまったのかもしれない。俺はルナの体をそっと引き寄せ、抱きしめた。世界の危機も、天文学的なカードの請求額も、この腕の中で震える少女の悲しみに比べれば、なぜか些細なことに思えた。
「お前が無事で、笑っててくれれば、それでいいんだよ」
それは本心だった。理屈じゃない。ただ、そう思った。
その言葉がトリガーだった。抱きしめられたルナの体から、蛍のような温かい光がふわりと放たれる。次の瞬間、部屋の電気がパッと灯った。世界中の都市の夜景が一斉に復活し、各国の専門家が「原因不明の奇跡的な自然復旧」と首をひねる事態になっていることを、俺はまだ知らない。
ただ、腕の中で安心したようにすぅすぅと寝息を立て始めた少女の寝顔を、煌々と光る裸電球の下で見つめていた。そして、視線を部屋に戻し、目の前にそびえ立つ「世界を救うグッズ」の山を改めて見つめる。
「……返品、できるのか、これ……」
来月の壮絶なカード請求額と、この謎グッズの返品交渉という二つの巨大な壁に、改めて頭を抱えるだけだった。この子の幸せを守ることが、世界の平和に繋がる。その、あまりにも壮大で、あまりにも割に合わない事実の重みを、俺はズシリと、腹の底から実感していた。
親密度が上がったのか、それともただ単に背負うものが増えただけなのか。答えは、まだ見つかりそうになかった。




