第4話「初めての『おかえり』と、世界の虹」
「いいかルナ、よく聞け。今日のクエストは『主の帰りを待つヒロインの練習』だ」
「ひろいんのれんしゅう?」
あの日、スーパー『アキバ』での聖杯戦争を終えてから数日。俺はルナに、新たなスキルを伝授しようとしていた。
それは、家事でも節約でもない。もっと根本的な何かだ。
「そうだ。俺がバイトから帰ってきたら、玄関で『おかえりなさい』って言うんだ。わかったか?」
「おかりあさー?」
「違う!『おかえりなさい、マスター』だ!まあ、マスターは気恥ずかしいから『カイト』でいい!」
「おかえりなさい、カイト!」
「そう!それだ!完璧だ!じゃあ、俺は戦場バイトに行ってくる!」
俺はルナの頭をポンと撫で、期待に胸を膨らませてアパートを出た。
たかが挨拶、されど挨拶。疲れて帰ってきた時に、誰かが「おかえり」と言ってくれる。それは、どんな栄養ドリンクよりも効果がある、最強の回復魔法なのだ。
同時刻、政府の秘密組織『JESUS(Japan Emergency Strategy Unit for Salvation)』の地下司令室。
巨大なモニターに、天城海斗の顔写真と「特級危険人物」の文字が赤く点滅していた。
「――以上のデータから、対象『セラフ・シグマ』の精神状態は、天城海斗の言動に完全にリンクしていると断定できる」
眼鏡をかけた司令官――氷川響也が、冷徹な声で報告を締めくくった。
集まった幹部たちがゴクリと息をのむ。
「つまり、あのフリーターの男がご機嫌なら世界は平和。機嫌を損ねれば世界は滅ぶ、と。ふざけているのかね?」
「ふざけてはいません。事実です。先日のスーパーでの一件、彼の『唐揚げよりもお前が大事だ』という発言の直後、全国で観測されていた原因不明の地磁気の乱れが、完全に正常値に戻りました」
「なんだそれは……愛の力だとでも言うのか……」
司令室がざわつく。
氷川は構わず、次の作戦を告げた。
「これより、人類存亡プロトコル、第七段階に移行する。作戦名『オペレーション・隣人は何をする人ぞ』。天城海斗の住むアパートに高性能盗聴器及び超小型カメラを設置。彼の日常の全てを24時間監視し、世界の安定に繋がる『黄金の言葉ゴールデンワード』を収集、解析する」
「そんなことが可能なのか!?」
「ご安心を。この任務のため、我々は最高の諜報員を準備しました。コードネームは『サイレント・スネーク』。どんな場所にも潜入し、痕跡すら残さない伝説のエージェントです」
氷川がスクリーンを指差すと、そこに一人の男の影が映し出された。その姿は、まるでダンボールをこよなく愛する伝説の傭兵のようだった。
地獄の8時間労働を終え、俺はいつものようにHP1の状態でアパートのドアを開けた。
すると――。
「おかえりなさい、カイト!」
玄関で、ルナが満面の笑みで立っていた。
その完璧なタイミングと、太陽のような笑顔。俺の疲労困憊だった心に、温かい光が差し込むようだった。
「……おう。ただいま」
俺がそう返事をした、その瞬間。
ピカーーーーーッ!!
窓の外が、七色の光で満たされた。
何事かとベランダに出てみると、空には巨大な、それこそ地球を半周するんじゃないかというほどの巨大な虹がかかっていた。
「うおっ、なんだこれ!?でっけえ虹!」
「わあ……!きれいです、カイト!」
ルナと二人で、呆然と空を見上げる。
テレビをつけると、ニュースキャスターが興奮した様子で伝えていた。
「緊急速報です!たった今、世界中で同時に巨大な虹が観測されました!専門家によりますと『原因は全く不明。まるで地球が祝福されているかのようだ』とのことです!さらに、長年続いていた各国の紛争地帯で、兵士たちが一斉に武器を捨て、空を見上げているとの情報も入っています!」
……マジか。
俺の「ただいま」と、ルナの「おかえり」。
たったそれだけのやり取りが、世界に平和をもたらしちまったのか?
「なあ、ルナ……」
「はい、カイト?」
「もしかして、俺たち、最強じゃね?」
「はい!最強です!」
俺たちは顔を見合わせ、思わず笑ってしまった。
世界の運命とか、滅亡とか、正直まだピンとこない。でも、この笑顔を守れるなら、まあ、悪くないか。そんなことを思い始めていた。
その頃、アパートの天井裏。
伝説の諜報員『サイレント・スネーク』は、冷や汗をだらだらと流しながら、必死に息を潜めていた。
(な、なんだここは……!?)
作戦通り、彼は誰にも気づかれずに天井裏への潜入に成功した。しかし、そこは彼の想像を絶する異空間だった。
まず、足の踏み場がない。前の住人が残していったであろう大量の古雑誌や、用途不明のガラクタが、まるでダンジョンのトラップのように配置されている。
(くっ、動けない……!まるで無限の回廊アンリミテッド・コリドーだ……!)
さらに、彼のすぐ真下――つまり、俺の部屋の天井には、なぜか大量のお札が貼られていた。大家さんが昔、霊感の強い人で、悪霊退散のために貼っていったらしい。
(まずい……このお札、物理的な結界じゃない……精神に直接干渉してくるタイプだ……!集中力が……)
伝説のエージェントは、ガラクタとお札に阻まれ、身動き一つ取れずにいた。
その耳に、俺とルナの会話が聞こえてくる。
「なあカイト、今日の晩ごはんは何ですか?」
「んー、今日は奮発して餃子にすっか!俺が作るから、見てろよ!」
「わーい!カイトの手作り餃子!世界で一番おいしいです!」
(ぎょ、餃子だと……!?くっ、ダメだ……腹が鳴る……!諜報員にあるまじき失態……!)
ぐぅぅぅぅ……。
静かな天井裏に、盛大な腹の虫の音が響き渡った。
「ん?なんか今、天井から聞こえなかったか?」
「え?猫さんじゃないですか?」
「そうか?まあいいや。ルナ、餃子、いっぱい食えよ!」
「はい、マスター!」
サイレント・スネークは、餃子の焼ける香ばしい匂いと、楽しそうな二人の笑い声を聞きながら、そっと涙を流した。
(司令官……すみません……。ここの警備は、S級ダンジョンより困難です……。それと……餃子は、タレにラー油を多めに入れるのが好きです……)
結局、伝説のエージェントは、盗聴器を一つも設置できないまま、翌朝、空腹と精神的ダメージでボロボロになって撤退した。
JESUSの司令室には、彼の残した「天井裏は魔境。あと餃子食べたい」という、伝説とは思えぬ報告だけが、虚しく響き渡るのであった。




