第3話「家計簿黙示録、そして監視の目」
「……なあルナ、ちょっとここに座ってくれるか」
「はい、マスター!どうかしましたか?」
あの日、俺の部屋が泡の海と化してから数日。俺はルナをちゃぶ台の前に正座させ、神妙な顔で一枚の紙を突きつけた。そこには無慈悲な数字が並んでいる。
今月の家計簿だ。
「まず、この『洗濯洗剤(徳用)一括購入』、マイナス1,280円。これはお前が全量ぶちまけたやつだ」
「はい!最大火力でした!」
「次にこの『食器用洗剤』、マイナス298円。これはお前がカレー鍋に注いだやつ」
「はい!究極の隠し味です!」
「そして極めつけがこれだ!『ウーラーイーツ』!なんだこれは!?」
俺が指差したのは、ここ数日の食費欄。そこには見慣れないカタカナと、恐ろしい金額が並んでいた。
「えっと、カイトがお仕事でいない時、お腹がすいて……。そこにある『のーとぴーしー』という魔法の石板を操作したら、温かいご飯を届けてくれる人が来たんです!」
「それはただの出前だ!しかも一番高い寿司とかピザとか頼みまくってんじゃねえか!」
「はい!どれもキラキラしてて、伝説のアイテムみたいでした!」
俺の財布の中身は、すでに風前の灯火だった。このままでは月末を待たずにゲームオーバーだ。
「いいかルナ、今日からお前には『節約』というスキルを覚えてもらう!俺たちの聖地、スーパー『アキバ』へ行くぞ!」
「新しいダンジョンですか!?」
「そんな感じだ!今日の目標は、夕方6時に出現する伝説のアイテム『半額シール』付きの肉をゲットすることだ!」
俺はルナの手を引き、アパートを飛び出した。世界の危機も、この家計の危機の前では些細な問題だ。
同時刻、アパートから少し離れたビルの屋上。
二人の黒服の男が、高性能な双眼鏡で海斗とルナの姿を監視していた。
「――報告。対象コードネーム:セラフ・シグマ、通称『滅びの鍵アポカリプス・コード』が、保護対象の男と接触。現在、庶民の市場スーパーマーケットへと向かっています」
片方の男――コードネーム:クロウが、耳元のインカムに冷静に報告する。
その隣で、もう一人の男――コードネーム:サイガが、苦々しく舌打ちをした。
「信じられんな。あんな小娘が、この世界を終わらせるほどの力を秘めているとは」
「事実は事実だ。我らが教団『終末の福音』の古文書にも記されている。鍵が目覚めし時、三日の後に世界は浄化の炎に包まれる、と」
「だが、鍵はまだ不安定だ。あの男……天城海斗とか言ったか。奴が鍵の感情を揺さぶっている。奴のせいで、世界の崩壊が早まる可能性も……」
クロウは双眼鏡のピントを合わせ直す。
そこには、スーパーの前で「カートって乗り物ですか!?」とはしゃぐルナと、「違う!あとで怒られるからやめろ!」と慌てる海斗の姿が映っていた。
「……とにかく、我らの使命はただ一つ。世界の終末を回避するため、滅びの鍵を速やかに回収し、正しく導くこと。第三次審判作戦オメガ・ジャッジメントを開始する」
クロウの言葉は、どこまでもシリアスで重々しかった。
だが、その視線の先では――。
「いいかルナ!戦場に着いたぞ!心してかかれ!」
「はい、マスター!」
スーパー『アキバ』の自動ドアをくぐると、そこはすでに戦いの予感に満ちていた。夕方6時5分前。俺と同じように、半額シールという名の獲物を狙う猛者たちが、総菜コーナーや精肉コーナーの周りを静かに周回している。
「あの人たちがライバルですか……!皆さん、歴戦の勇者の顔をしています!」
「そうだ!油断するなよ!特にあの角を曲がった先にいる、カゴにネギを突き刺したおばちゃん!あの人は四天王の一角だ!」
「ゴクリ……!」
ルナが緊張した面持ちで頷く。よし、少しは理解してきたな。
そして、運命の午後6時。
店員さんが「おつとめ品でーす」という開始の合図と共に、シールを貼り始めた!
「いまだ!行けえええええ!」
「はい、マスター!」
俺たちは真っ先に精肉コーナーへ突撃する。目標は国産牛の切り落とし!
しかし、さすがは四天王。
ネギのおばちゃんが巧みなカートさばきで俺たちの進路をブロックする!
「くっ、これが『ネギの結界』か……!ルナ、プランBだ!総菜コーナーへ向かえ!」
「了解です!」
俺がおばちゃんの注意を引きつけている隙に、ルナが総菜コーナーへダッシュする。彼女の目当ては、俺の好物である唐揚げパックだ。
「あった!唐揚げです、マスター!」
ルナが嬉しそうに唐揚げパックを手に取った、その瞬間だった。
彼女の背後から、スッと伸びてきた別の手が、同じパックを掴んだ。
「……それは、私が見つけたもんだよっ!」
そこに立っていたのは、いかにも強そうなジャージ姿の主婦だった。こいつも手練れだ!
「これは私が先に見つけました!」
「いや、私が先にロックオンしていた」
唐揚げパックを巡り、火花を散らすルナと主婦。まずい、このままだとルナが何かやらかす!
「ルナ!やめろ!その唐揚げは諦めろ!」
「でも、マスターの好物……!」
ルナがぐっとパックに力を込めた瞬間、スーパーの照明がバチバチッと激しく点滅し始めた。店内に流れていた穏やかなBGMが、突然ノイズ混じりのハードロックに変わる。
「な、なんだ!?」
「停電か!?」
店内の客たちがざわめく。ヤバい!ルナの感情の高ぶりが、スーパーのシステムに干渉してる!
俺は慌ててルナの元へ駆け寄り、その手を掴んだ。
「いいか、よく聞け!唐揚げよりも、お前が無事な方が百万倍大事だ!だから、譲ってやれ!」
「……カイト」
俺の言葉に、ルナはハッとした顔になり、そっとパックから手を離した。
その瞬間、点滅していた照明が元に戻り、BGMもいつもの穏やかなオルゴール曲へと帰っていった。
「……ふん。今日のところは、許してやるわ」
ジャージの主婦はそう言い残し、唐揚げパックを持って去っていった。
「すみません、カイト……私、また……」
「いいってことよ。それより、ほら!国産牛、ゲットしたぜ!」
俺がネギの結界を突破して手に入れた半額の牛肉を見せると、ルナの顔がパッと明るくなった。
「すごい!カイト、すごい!」
「だろ?これが俺の実力よ。さ、帰ってすき焼きにすっぞ!」
俺たちは戦利品を手に、意気揚々とスーパーを後にした。
その一部始終を、ビルの屋上から見ていたクロウとサイガ。
「……おい、クロウ。今の見たか?」
「……ああ。滅びの鍵の感情の昂りが、周辺一帯のライフラインに異常をきたした。間違いない」
「だが、あの男の一言で、すぐに沈静化したぞ。まるで、男が鍵の制御装置コントローラーのようだ」
「……危険な兆候だ。鍵が特定の個人に依存するなど、前例がない。我々の計画に支障をきたす」
クロウは険しい顔でインカムに告げる。
「司令部、聞こえるか。作戦内容の変更を具申する。天城海斗は、もはや単なる保護対象ではない。滅びの鍵を左右する最重要因子……『特級危険人物』と認定すべきだ」
その言葉とは裏腹に、彼の脳裏には、半額の牛肉を掲げて得意げに笑う海斗の姿と、それを見て満面の笑みを浮かべるルナの姿が、なぜか焼き付いて離れなかった。
「……それにしても」
サイガが、ぽつりと呟いた。
「あのスーパーの国産牛、半額で198円は安いな……」
「……ああ。うちの近所じゃありえん」
世界の命運を左右する極秘任務の最中、二人の凄腕エージェントの思考は、完全に近所のスーパーの物価へと飛んでいた。




