第2話「ポンコツ家事スキルと、世界の悲鳴」
「じゃあ、俺バイト行ってくるから!留守番、頼んだぞ!死なない程度にな!」
翌朝、俺は玄関でルナに声をかけた。
名前がないと不便なので、とりあえず彼女の蒼い瞳から「ルナ」と呼ぶことにした。月みたいに綺麗だから、なんてポエミーな理由じゃない。断じて。呼びやすいからだ。
「はい、マスター!いってらっしゃいませ!」
ルナは満面の笑みで手を振っている。いつの間に俺はマスターになったんだ。まあいいか。こうして見るとただの可愛い同居人だ。昨日の「世界滅亡」発言も、きっと寝ぼけてただけだろう。
俺は彼女に「洗濯と、部屋の掃除と、簡単な昼飯の準備」という、チュートリアルレベルのクエストを与えておいた。まあ、記憶喪失でもそのくらいはできるだろう。そんな軽い気持ちで、俺は地獄の8時間労働という名の戦場へと向かった。
地獄の8時間労働を終え、俺はHP1の状態でアパートに帰り着いた。疲労困憊の体を引きずって、鍵を開ける。ドアノブを回した瞬間、鼻腔を奇妙な匂いが通り過ぎた。焦げたような、ツンとくるような、化学薬品のような……。
「……は?」
玄関を開けた瞬間、俺の足元に水たまりが広がっていた。なんだこれ?俺の部屋、いつからウォーターセブンになったんだ?水に濡れた靴下は、じっとりと気持ちが悪い。
恐る恐る部屋の中を覗くと、そこはまるで大洪水後の世界のようだった。洗濯機から溢れ出した、山盛りの泡が部屋の半分を覆い尽くしている。
その泡の海に、なぜか俺のなけなしの漫画コレクションがぷかぷかと浮いている。泡には洗剤の匂いが充満していて、目が痛いほどだ。
「ルナ!おい、ルナ!無事か!?返事をしろ!」
俺が叫ぶと、キッチンのほうからひょっこりと顔が出た。顔中ススだらけで、頭からは湯気が立っている。まるでコントの爆発オチだ。
俺の漫画は……いや、それどころじゃない。ルナの顔を見て、俺は思わず二度見した。彼女の顔には、まるでマンガみたいに、三本の真っ黒な筋がついていて、その横で焦げた髪がぴょこんと跳ねている。
「あ、マスター、おかえりなさい!あのですね、洗濯機というゴーレムが反乱を起こしまして……」
ルナは悪びれる様子もなく、にこにこと笑っている。その笑顔が、俺の怒りの沸点を上げる。
「ゴーレムじゃねえよ!何やったんだ!?」
「えっと、洗剤を全部入れたら、もっと綺麗になるかなって……『最大火力でいこう!』って」
「どこの主人公だよお前は!?」
見ると、棚にあった徳用サイズの洗濯洗剤の袋が空になっている。こいつ、一回で全部ぶち込みやがったのか。しかも、その横には、ぐしゃぐしゃになった、俺の漫画が……!
「なんで、俺の漫画が……!」
俺は目の前で、水浸しになった漫画を指さした。
「ああ、それですか?床が汚れていたので、まとめて洗おうかと……」
「本は洗うもんじゃねえ!常識だろうが!」
俺は頭を抱えた。ダメだ。この子、常識がインストールされていない。ポンコツのレベルが天元突破している。昨日、話した時も思ったけど、なんか、こう、常識が抜け落ちてるっていうか……。
いや、抜け落ちてるどころか、根っこから生えてない。
俺が呆然としていると、ルナは「あ、そうだ!」と何かを思い出したように、キッチンへ戻っていった。
「ごはん、作っておいたんです!マスター、お腹すいたでしょ?」
ルナが持ってきたのは、土鍋だった。蓋を開けると、中から禍々しい紫色のオーラを放つ液体が顔を出す。
ドロッとした液体からは、焦げたような匂いが立ち込めていて、食欲どころか、生きる気力まで奪われそうだ。ところどころ、正体不明の物体が蠢いているように見える。
「……なあ、ルナ。これ、何を作ろうとしたんだ?邪神でも召喚するつもりか?」
「カレーです!隠し味に、お砂糖と、あと、棚にあった綺麗な青い液体も入れてみました!ポーションです!」
「ポーションじゃねえ!それはトイレの洗剤だーーーー!!混ぜるな危険って書いてあっただろうが!!」
俺が叫んだ、その瞬間だった。
ゴゴゴゴゴゴ……!
足元が、ぐらりと大きく揺れた。震度3くらいの、はっきりとした地震。本棚に残っていた漫画が数冊、泡の海へとダイブしていく。
「うわっ、地震!?」
揺れが収まった後、テレビの速報が「各地で原因不明の小規模な地震が頻発しています」とアナウンサーが伝えていた。
俺は、ススだらけのルナと、紫色のカレー(のような何か)と、テレビのニュースを交互に見た。
昨日の落雷…
そして今日の地震。
まさか、とは思う。でも、あまりにもタイミングが良すぎる。フラグが立ちすぎている。
「なあ、ルナ……」
俺が震える声で呼びかけると、ルナは不思議そうに小首を傾げた。
「はい、マスター?」
「お前が料理に失敗すると、地震が起きたりするのか……?」
「え?どうしてわかったんですか?エスパーですか?」
あっけらかんとした顔で、ルナは言った。彼女の瞳は、まるで何でもないことのように澄んでいる。
「さっき、お鍋が光って爆発しそうになった時も、少し揺れました!びっくりしました!」
……マジか。確定だ。
俺は、この子のポンコツスキルが、俺の家計だけでなく、物理的に世界を破壊しかねないという、恐るべき事実に気づいてしまった。
「おいルナ!今すぐその聖杯(土鍋)を捨てろ!そして二度とキッチンに立つな!それは命令だ!」
俺は必死に叫んだ。
「ええーっ!?せっかく作ったのに……」
ルナはしょんぼりした顔で、唇を尖らせる。その表情に、ほんの少しだけ胸が痛む。でも、これは平和のための戦いだ。
「いいから早く!」
俺はルナから土鍋をひったくり、ベランダから中身をぶちまけた。どろりとした紫色の液体が、排水溝に流れ落ちていく。すると、今までどんよりと曇っていた空が、ほんの少しだけ晴れたような気がした。
俺は、疲労と絶望で、その場にへたり込んだ。
「ねえ、マスター」
ルナが、俺のそばに座り込む。その顔には、まだススの跡がついたままだ。
「もしかして、私って……ポンコツ?」
彼女が不安そうに問いかける。俺は、言葉に詰まった。ポンコツ?いや、ポンコツなんて言葉じゃ足りない。破壊神、爆弾、歩く災害……いや、そんなこと言っても仕方ない。
「……ああ。そうだな。お前は、この世の誰よりも、とてつもないポンコツだ」
俺がそう言うと、ルナはふわりと笑った。
「えへへ。マスターに言われたら、なんか嬉しいです」
俺はもう、何も言えなかった。この日から、俺の戦いが始まった。
それは、世界の滅亡を阻止するための戦いではない。
ただひたすらに、ポンコツな同居人に「普通の生活」という名のアップデートを施し、俺の家の平和と、ついでに世界の平和を守るための、涙ぐましい戦いなのである。




