第20話「母の恋愛講座と、父の背中」
「……というわけで、今週末、ちょっと実家に帰る」
ある日の夜、俺は食卓で、なけなしのモヤシを炒めながらルナに告げた。チリチリと油が跳ねる音が、俺の侘しい財政状況を象徴しているようだった。
理由は、言うまでもなく金欠だ。バイト代はまだ先。米びつの底は見え始め、冷蔵庫の中はマヨネーズと空っぽの卵パックが虚しく転がっているだけ。
このままでは、俺とルナはリアルに餓死する。実家から食料を恵んでもらうしか、生き残る道はなかった。
「じっか?」
ルナは、不思議そうに首を傾げた。
「ああ、俺が生まれた家だ。米とか野菜とか、色々奪い……いや、分けてもらいに行く」
「カイトの生まれたお家……!私も、行きたいです!」
ルナは、目をキラキラさせて言った。まあ、断る理由もない。一人で留守番させるのも心配だしな。
「わかったよ。じゃあ、一緒に行くか。……うちの親、ちょっと変わってるけど、引くなよ」
「はい!」
こうして、俺は人生で初めて、同居している(しかも世界の命運を握っている)記憶喪失の美少女を、実家に連れて帰ることになった。波乱以外の予感がしない。
週末
電車を乗り継いで一時間、俺は実家の玄関の前に立っていた。隣では、ルナが「ここがカイトのお城……!」と、なぜか感動した様子で呟いている。
いや、ただの築30年の平凡な一戸建てだ。壁のペンキは少し剥がれ、庭には雑草が生えている。だが、ルナの瞳には、まるで豪華な宮殿のように映っているようだった。
「たのもー!」
「お前は道場破りか。普通に『ただいま』って言え」
俺がツッコミを入れながらドアを開けると、エプロン姿の母さん、一ノ瀬美沙が、パタパタと出迎えてくれた。母さんの周りからは、ふわりと温かい、家庭の匂いがした。
「あら、海斗じゃない!久しぶりね!……って、あらあらあら!」
母さんは、俺の後ろにいるルナの姿を認めると、目をまん丸くし、そして次の瞬間には満面の笑みを浮かべていた。
「か、彼女!?あんた、いつの間にこんな可愛い彼女を!?」
「ちげえよ!こいつはただの同居人で……」
「まあまあ、いいからいいから!さ、上がって!ルナちゃん、でいいかしら?ようこそ、我が家へ!」
母さんは、俺の説明を一切聞かず、ルナの手を取って家の中へと招き入れた。そのあまりのスムーズな受け入れっぷりに、ルナも俺も呆気にとられる。
リビングでは、親父、一ノ瀬俊が、新聞を読みながらゴロゴロしていた。
「お、海斗か。腹でも減らしに来たか?」
親父は相変わらず、口数も表情も少ない。だが、その声の端々には、俺を気遣う気持ちが感じられた。
「まあな。……よお、親父」
「ん?……ほう」
親父は、新聞から視線を上げ、ルナの姿を一瞥すると、ニヤリと笑った。
「隅に置けねえじゃねえか、息子よ。なかなか見る目がある」
「だから違うって言ってんだろ!」
俺の否定は、この家では全く意味をなさないらしい。
こうして、俺の意図とは裏腹に、「息子が彼女を連れてきた」という設定で、食卓は賑やかに始まった。
テーブルには、唐揚げ、ポテトサラダ、具沢山の味噌汁が並んでいる。久しぶりに見る豪華な食卓に、俺の胃袋が喜びの声を上げる。
「ルナちゃん、いっぱい食べなさいねー!」
「はい!おいしいです!」
ルナは、唐揚げを口いっぱいに頬張り、幸せそうに目を細めた。その姿が、なんだか幼い子供のようで、俺は思わず微笑んでしまう。
飢えた俺たちの胃袋に、温かい味が染み渡る。ルナも、初めて食べる「普通の家庭料理」に、心の底から感動しているようだった。
食後、俺が親父と風呂に入っている間、母さんはルナを捕まえて、何やらコソコソと話し込んでいた。
「ねえ、ルナちゃん。うちの海斗、どう?」
「カイトは、優しくて、かっこよくて、ご飯も作ってくれて……大好きです!」
ルナの素直な言葉に、母さんの顔がぱあっと明るくなる。
「まあ!素直で可愛いわね!」
母さんは、うんうんと頷くと、悪戯っぽく笑った。
「でもね、あの子、昔から肝心なところでヘタレなのよ。だからね、ルナちゃんから、ぐいっと行っちゃうのが一番よ」
「ぐいっと?」
ルナは、きょとんとした顔で首を傾げている。
「そう!男なんて、単純なんだから!『好き』って言って、抱きついちゃえば、イチコロよ!」
母さんは、ルナに「海斗の攻略法」と称して、間違っているような、でもあながち間違いでもないような、恋愛講座を繰り広げていた。
一方、風呂場
俺は親父と、湯船に浸かっていた。湯気で熱くなった浴室で、親父は静かに目を閉じている。
「……で、どうなんだ。あの子とは」
「どうって……。まあ、色々あんだよ。複雑で、面倒で、でも、放っておけねえっていうか……」
俺が歯切れ悪く言うと、親父は「ふん」と鼻を鳴らした。
「男が、女一人守れなくてどうすんだ」
親父の言葉に、俺はハッとした。
「……!」
「理由なんて、どうだっていい。お前が『守りたい』と思ったんなら、腹括って、最後まで守り抜け。それができねえなら、最初から手を出すな。中途半端が、一番相手を傷つけるぞ」
親父は、それだけ言うと、ザブンと湯船から上がっていった。その広い背中が、やけに大きく見えた。
守り抜く覚悟。俺に、それがあるんだろうか。いや、もう、腹は括ったはずだ。
風呂から上がると、母さんが「今夜は泊まっていきなさいよ!」と言い、客間の布団が二組、並べて敷かれていた。
「おい!なんで布団が二つなんだよ!」
俺は声を荒げる。
「あら、カップルなんだから、当たり前じゃない」
「だからカップルじゃねえって!」
「カイト……。私と寝るの、嫌ですか……?」
隣で、ルナが潤んだ瞳で俺を見上げてくる。そんな顔で言われたら、断れるわけがないだろうが!
「……嫌じゃ、ねえよ」
俺がそう答えると、母さんは「青春ねえ!」と笑い、親父は「しっかりやれよ」と肩を叩いてきた。
もう、何もかもが手遅れだった。
その夜、並んで敷かれた布団の中で、俺は天井を見つめながら、親父の言葉を思い出していた。
『腹括って、最後まで守り抜け』
俺は、隣で静かな寝息を立てているルナの横顔を、そっと見つめた。
ああ、そうだ。俺は、もう決めたんだ。
こいつのいる日常を、俺が守る。何があっても、絶対に。
俺は、そっと手を伸ばし、彼女がはみ出させていた布団を、肩までしっかりとかけてやった。
それだけのことに、なぜか、ものすごく覚悟がいるような気がした。
翌朝
「カイト、お料理したいです!」
朝食の準備中、ルナが母さんにせがんだ。母さんは「あら、いいわよ!」と快く承諾し、俺は嫌な予感しかしない。
「ルナちゃん、このお砂糖を少しだけね……」
「はい!」
ルナは、母さんの制止を振り切り、ドバドバと砂糖を卵焼きに入れ始めた。
「ちょ、ルナ!入れすぎだって!」
「えへへ、カイト甘い方が好きだから!」
俺の抗議も虚しく、ルナの特製「激甘卵焼き」が完成した。食卓で一口食べると、予想通りの激甘さ。砂糖のジャリジャリした食感が、口の中に広がる。しかし、母さんも親父も、何も言わずに食べている。
「……うまいな、ルナ」
俺がそう言うと、ルナは嬉しそうに笑った。その笑顔に、なんだか胸がいっぱいになる。
実家での一日を終え、俺たちがアパートに戻る時、母さんは俺にこっそり食料を詰めた大きな袋を持たせてくれた。中には、米や野菜、レトルト食品、そして冷凍の唐揚げまで入っている。
「あとね、ルナちゃんによろしく言っといてね」
母さんは、そう言ってにっこりと笑った。
「カイト、お母さんもお父さんも、優しくて面白かったです!」
帰り道、ルナが楽しそうに話す。その顔は、来た時よりも生き生きとしていた。
俺の家族は、ルナの秘密を知らない。それでも、ルナを温かく受け入れてくれた。
「よかったな」
俺は、そう言って、ルナの頭を優しく撫でた。
家に帰って、冷蔵庫に食料を詰めていると、母さんからのメールが届いた。
『ルナちゃんと、うまくいきなさいよ!応援してるわ!』
そのメッセージに、俺は思わず苦笑いした。
そして、その日の夜。
未来から「先輩!明日の朝、駅前で集合です!重要な情報が入りました!」というメッセージが届く。
どうやら、穏やかな日常は、もう終わりを告げたらしい。




