第19話「雨宿りと、相合傘の距離」
未来が仲間になってから、数日が経った。
俺たちの日常が劇的に変わったわけじゃない。未来は相変わらず健気に俺にアプローチしてくるし、アカネはマニュアル片手にポンコツな誘惑を仕掛けてくるし、レイジは無駄にスタイリッシュな動きで厨房を混乱させている。
ただ、一つだけ変わったことがあるとすれば、それは俺の心だった。もう、一人で抱え込む必要はない。そう思えるだけで、世界は少しだけ違って見えた。
ルナの些細な感情の揺れに、前ほどビクビクしなくなったし、未来のまっすぐな好意にも、前よりは誠実に向き合える気がしていた。
……まあ、向き合った結果、どうすればいいのかは、まだわからないんだが。
そんなある日の夕方。バイトが終わり、俺とルナは二人でアパートへの帰り道を歩いていた。未来は今日、学校の追加授業があるとかで先に帰っている。
「カイト、見てください。猫です」
ルナの声が、夕暮れの商店街に響く。魚屋の店先で、丸々と太った三毛猫が昼寝をしていた。ルナがそっと頭を撫でると、猫は気持ちよさそうに喉を鳴らした。そのゴロゴロという音が、この平和な日常を象徴しているようで、俺はたまらなく愛おしく感じた。
この日常を守る。俺は、改めてそう心に誓った。
その時だった。さっきまで晴れていた空が、急に暗くなったかと思うと、ぽつり、ぽつりと冷たい雫が落ちてきた。
「あ、雨……」
ルナが空を見上げる。彼女の蒼い瞳に、灰色の空が映り込んでいた。
「まずいな、天気予報じゃ晴れだったのに!」
雨粒は、あっという間にバケツをひっくり返したような土砂降りに変わる。俺たちは慌てて、近くにあった古いバス停の軒下に駆け込んだ。
「うわ、びしょ濡れじゃねえか」
俺は自分の服の袖を絞る。水がしたたり落ちて、地面に小さな染みを作った。
「カイト、髪がぺったんこです」
ルナが楽しそうに笑う。その声に、俺は少し安堵した。
「お前もな」
俺たちは顔を見合わせて笑う。
狭い軒下。肩と肩が触れ合うほどの距離。雨の音だけが、やけに大きく聞こえる。雨の粒が、軒先のトタン屋根を激しく叩き、独特のリズムを刻んでいる。
ふと、俺は隣のルナに目をやった。雨に濡れた彼女の髪が、頬に張り付いている。いつもより、なんだか大人びて見えて、ドキッとした。
「……風邪、ひくなよ」
俺は、照れくささを隠すように、自分のハンカチで彼女の濡れた髪を優しく拭いてやった。ハンカチから香る、柔軟剤の匂い。その匂いと、雨の匂いが混じり合い、俺の心をざわつかせる。
「……!」
ルナは、驚いたように目を見開き、そして、嬉しそうに、はにかんだ。その表情に、俺の心臓がまた、うるさく鳴り始める。まずい。この距離と、この雰囲気は、心臓に悪い。
「……あの、カイト」
「ん?」
「この前のこと……ありがとうございました」
ルナは、俺のハンカチを握りしめながら、小さな声で言った。
「この前のこと?」
「私が、泣いてた時……。カイトが、ここにいていいって、言ってくれて……すごく、嬉しかったです」
ルナの声が、雨音にかき消されそうになる。
「私、カイトがそう言ってくれるなら、もう、大丈夫です。私が幸せでいれば、世界も、大丈夫なんですよね?」
ルナのまっすぐな瞳が、俺を見つめる。その瞳の奥に、確かな決意が宿っているのがわかった。
「……ああ、そうだ」
俺の言葉に、彼女は、にこっと笑った。
「じゃあ、私、もっと幸せになります。カイトと一緒にいて、たくさん笑って、たくさん美味しいものを食べて……。そしたら、カイトも、世界も、私が守れますから」
その笑顔は、どんな奇跡よりも強く、俺の心を照らした。守られるだけじゃない。彼女もまた、自分の力で、俺と、この世界を守ろうとしている。その健気な決意が、たまらなく愛おしかった。
雨は、一向に止む気配がない。
「……仕方ねえな。コンビニで傘、買ってくるか」
「でも、お金……」
「一本くらいなら、なんとかなるだろ」
俺は、財布の中身を確かめる。千円札一枚。一本買うのが精一杯だ。
「ほら、帰るぞ」
俺は、近くのコンビニでビニール傘を一本だけ買った。
「はい!」
一本の傘の下に、二人で入る。
自然と、体が密着する。俺の右腕と、ルナの左腕が、ぴったりとくっついた。ルナの体温と、シャンプーの甘い香りが、雨の匂いに混じって、俺の理性を揺さぶる。
「……あの、カイト」
ルナが、上目遣いで俺を見上げる。
「な、なんだよ」
「近い、です……」
その声は、震えていた。俺の心臓は、さらにうるさく鳴り始める。
「仕方ねえだろ!お前が濡れるから、こっち寄れ!」
俺は、ぶっきらぼうに言って、彼女の肩をぐっと引き寄せた。ルナの体が、さらに俺に密着する。
「うっ……」
ルナの顔が、みるみるうちに赤くなっていくのが、横目で見てもわかった。もちろん、俺の顔も、相当赤くなっているはずだ。
アパートまでの、わずか十分ほどの道のり。それは、永遠に続くかのように長く、そして、一瞬で終わってしまうかのように、短く感じられた。雨音のせいで、お互いの心臓の音が聞こえなくて、本当に良かったと、俺は心から思った。
アパートに着くと、ルナは「先、シャワー浴びてきます!」と言って、浴室に駆け込んでいった。
俺は、濡れた制服を脱ぎながら、大きくため息をつく。今日のルナは、いつもと少し違った。守られるだけじゃない、守る側にもなりたいという、彼女の決意。その言葉と、あの笑顔が、俺の心に強く残っている。
その日の夜、ルナと二人で夕食を食べていると、玄関のチャイムが鳴った。
「こんな時間に誰だろう?」
ルナが不思議そうに首を傾げる。俺がドアを開けると、そこには、雨に濡れた未来が立っていた。
「未来、なんで……」
「もう!心配で来たに決まってるじゃないですか!先輩とルナさん、雨に濡れてないですか?風邪ひかないようにって、着替え持ってきました!」
未来は、大きな紙袋を差し出した。中には、俺とルナの部屋着が二組ずつ入っている。そして、温かそうなスープが入ったタッパーと、おにぎりも。
「もしかして、わざわざここまで……」
「はい!何かあったら、すぐに連絡してくださいって言ったのに!もう、先輩は一人で抱え込みすぎです!」
未来は、少し怒ったような顔をしながらも、その瞳は、俺たちを心配する優しさに満ちていた。
「白石さん……ありがとう」
ルナが、未来に深々と頭を下げる。未来は、それに笑顔で応えた。
「二人とも、風邪ひかないでね」
そう言って、未来は安堵の息を漏らした。
その夜、未来は俺たちのアパートに泊まることになった。俺は、未来が作ってくれた温かいスープを飲みながら、改めて思った。
俺は、本当に一人じゃないんだ、と。
ルナも、未来も、俺にとってかけがえのない存在だ。この二人と一緒に、俺はこの奇妙な、だけど温かい日常を、守り抜いていこう。
俺の隣には、もう一人じゃない。三人で、この世界の運命を、切り開いていくんだ。




