第18話「未来の告白と、雨上がりの空」
店の裏路地。コンクリートの壁には、古い落書きが薄れて残っている。いつもの喧騒から切り離された、薄暗く冷たい空気。
ルナの瞳からこぼれ落ちる涙に呼応するかのように、空は急速に暗くなり、冷たい風が吹き始めた。ゴロゴロという雷鳴が、だんだんと近づいてくる。
「私のせいで……空まで、怒ってる……」
ルナの声は震えていた。その声に、俺の心臓もぎゅっと締め付けられる。
「違う!お前のせいじゃねえよ!」
俺は慌てて否定する。けれど、言葉に説得力がないことは、自分が一番わかっていた。ルナの感情にリンクして世界の天候が変化するなんて、漫画みたいな話だが、現に今、空は彼女の悲しみを映している。
「でも、私がドジだから……私が、ここにいるから……!」
ルナは嗚咽を漏らしながら、さらに声を震わせる。
「……っ」
なんて声をかければいい? 「気にするな」と慰めるのは簡単だ。でも、それは彼女の心に刺さらない。彼女は自分の存在そのものを否定し始めている。
どんな言葉も、上滑りして、さらに彼女を傷つけてしまう気がした。俺はただ、唇を噛みしめることしかできない。
その時、バタバタという足音が近づいてきた。
「先輩!ルナさん!」
息を切らして駆けつけてきたのは、未来だった。走ってきたせいで、少し乱れた髪が風に揺れている。彼女は、泣いているルナと、何もできずにいる俺の姿を見て、一瞬、目を見開いた。
そして、何かを決意したように、ぐっと拳を握りしめた。
「先輩は、一人で抱え込みすぎです!」
未来の叫びに、俺はハッと顔を上げた。
「白石さん……?」
「ルナさんのことも、世界のことも、全部一人で背負おうとしてる!でも、先輩はスーパーマンじゃないんですから!」
未来の叫びが、路地の壁に反響する。彼女はまっすぐに俺の目を見て、その瞳は、俺を責めているようでもあり、同時に心配しているようでもあった。
「私にも、背負わせてください。先輩の荷物、半分、私にください!」
未来の言葉に、俺は戸惑った。
「お前、何言って……」
「私は……私は、ただのバイト後輩じゃありません!」
未来は深呼吸を一つすると、まるで自らに言い聞かせるように、衝撃の事実を告白した。
「私は、政府の秘密組織『JESUS』のエージェント、コードネーム『スマイル・クイーン』です。ルナさん――『セラフ・シグマ』を監視し、確保するために、先輩に近づきました」
「……は?」
俺の思考は完全に停止した。JESUS?エージェント?未来が?
「嘘、だろ……?」
俺が絞り出した声は、ひどく掠れていた。未来は、首を横に振る。
「嘘じゃありません。これが、本当の私です」
未来の瞳は、真剣そのものだった。その奥に、隠し続けてきた苦悩と決意が揺らめいているのが見えた。
そうか。だから彼女は、いつもどこか事情を知っているような素振りを見せていたのか。空調の暴走を止められたのも、偶然じゃなかったんだ。俺の頭の中で、すべての点と点が繋がっていく。
「でも、もう、そんな任務はどうでもいいんです!」
未来は、涙を浮かべながら叫んだ。
「私は、先輩が好きです!あなたのことが、本当に好きになっちゃったんです!だから、組織の命令よりも、あなたの力になりたい!あなたと、ルナさんの笑顔を守りたいんです!」
それは、彼女の魂からの叫びだった。スパイとしての任務と、一人の女の子としての恋心。その間で、どれだけ苦しんだのだろう。その末に出した、彼女の答え。
「だから、お願いです。私を、仲間だと思ってください。一人で戦わないでください……!」
俺は、未来の告白に、ただ圧倒されていた。彼女がスパイだったことへの驚きよりも、彼女の真っ直ぐな想いが、俺の胸を強く打った。
俺は、隣で泣きじゃくるルナと、目の前で涙を流す未来の顔を、交互に見た。そうだ。俺は、一人じゃなかった。
「……わかった」
俺は、覚悟を決めた。もう迷わない。
「白石さん、お前のことを信じる。だから、力を貸してくれ」
「……!はいっ!」
未来は、涙を拭い、力強く頷いた。その表情には、迷いが消え、確かな光が宿っていた。
俺は、未来に向かって、そして自分に言い聞かせるように言った。
「俺は、ルナを守る。こいつが笑っていられる日常を、絶対に守り抜く。それが、結果的に世界を救うことになるんなら、上等だ」
そして、俺は再びルナの前にしゃがみこみ、彼女の肩を優しく掴んだ。
「ルナ。よく聞け」
「……カイト?」
ルナは、泣き腫らした目で、俺を見上げた。
「お前は、不幸なんか呼ばねえよ。お前がいるから、俺は毎日、退屈しねえ。お前が笑うと、俺も嬉しい。お前が作るメシマズな料理も、なんだかんだ楽しみなんだ」
俺は、照れくささを押し殺し、必死に言葉を紡いだ。ルナの頭を撫でる指先が、少し震えているのがわかった。
「お前は、俺にとって、もうただの同居人じゃねえ。かけがえのない……大切なヤツなんだ。だから、自分を責めるな。お前がいなくなったら、俺が困る」
俺の言葉に、ルナは、はっとしたように顔を上げた。彼女の蒼い瞳が、俺をまっすぐに見つめる。
「……私が、いても、いいの?」
その小さな声には、信じられない、という気持ちが滲んでいた。
「当たり前だろ。お前がいないと、ダメなんだ」
俺がそう言って、にかっと笑いかけると、ルナの瞳から、再び涙がこぼれ落ちた。でも、それはさっきまでの悲しみの涙とは違う、温かい涙だった。
「……うん……!うん……!」
ルナは、何度も頷きながら、俺の胸に飛び込んできた。俺は、彼女の小さな体を、強く、強く抱きしめた。彼女の震えが少しずつ収まっていくのを感じる。背中をぽんぽんと優しく叩いてやると、彼女はもっと強く、俺にしがみついた。
その瞬間、今まで空を覆っていた厚い暗雲が、まるで嘘だったかのように、さっと晴れていった。分厚い雲の切れ間から、眩しい太陽の光が差し込み、俺たちの足元に、大きな、七色の虹をかけた。
「……虹」
未来が、空を見上げて呟いた。彼女の瞳にも、安堵の色が浮かんでいる。世界を覆っていた嵐は、去ったのだ。
俺は、腕の中でしゃくり上げるルナの頭を撫でながら、心に誓った。もう、迷わない。俺が守るべきものは、この腕の中にある、温かい日常だ。たとえ、どんな敵が来ようとも、この手で、守り抜いてみせる。
「ねえ、先輩」
未来が、俺たちから少し離れた場所で、優しく声をかけてきた。
「これから、どうしますか?私の『JESUS』の情報、全部先輩に教えますから。先輩とルナさんが安全な場所に逃げるための手筈も、私が整えられますよ」
未来は、まるで本当にエージェントであるかのように、冷静に、淡々と話を進めていく。
「いや、逃げねえよ」
俺は即答した。未来は驚いたように、目を丸くした。
「なんでですか?組織は、ルナさんの存在を危険視している。絶対に追ってきます。それは…」
「それも含めて、俺たちが守り抜くんだろ?」
俺は、ルナを抱きしめたまま、未来の目を見た。
「一人で戦わなくてもいいって、お前が言ったんだ。だったら、俺たち三人で、正面からぶつかってやろうぜ。ルナのことが、世界にとって危険だっていうなら、世界がルナを守るように、俺たちが世界を変えてやればいい」
俺の言葉に、未来は言葉を失った。そして、やがて、彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……ばか……」
未来は、そう言って、優しく微笑んだ。その顔は、もうエージェント『スマイル・クイーン』ではなく、ただの高校生、白石未来だった。
「はい、先輩。わかりました。私も、最後まで、先輩とルナさんと一緒に、戦います」
夕焼けに染まる路地で、俺たちは、それぞれの決意を新たにした。これから、どんな困難が待ち受けているかなんて、わからない。でも、もう一人じゃない。この手の中の温かさと、隣に立つ仲間の存在が、俺に勇気をくれる。
「お腹減った……」
ルナが、俺の胸から顔を上げて、小さな声で呟いた。その声に、俺と未来は、顔を見合わせて、同時に吹き出した。
「だよな!こんな時間だしな。よし、未来、なんか美味いもん作ってくれよ」
俺がそう言うと、未来は少し困ったように眉を下げた。
「え、私ですか?でも、お店も閉まっちゃってるし……」
「大丈夫だ!冷蔵庫の中にあるもので、適当に作ってくれればいいから。未来の料理、美味いんだろ?」
俺が目を輝かせて言うと、未来は照れたように、再び頬を赤くした。
「もう……!仕方ないですね。先輩とルナさんのためなら、腕によりをかけて作ってあげます!」
そう言って、未来は楽しそうに笑った。その笑顔は、まさに『スマイル・クイーン』。でも、それは任務のためではなく、俺たちのためだけの、特別な笑顔だった。
これから始まる、波乱に満ちた日常。俺の隣には、大切な存在が二人いる。この奇妙で、かけがえのない日々が、いつまでも続きますように。俺は、そう願わずにはいられなかった。




