15. 気のせいにして
「ええっ、そんな…」
言われた言葉に、驚いて思わず視線を上げると。
口元は笑っているようなのに、いつもは鮮血のように赤い瞳が、逆光のせいか、どろりと濁っているように見えて。
それ近代だとセクハラですよなんて、口には出さないまでも軽く思った頭が、急激に冷える。
まさか、何か――いや、まさかとも考えないように思考を止めた。
そんなの、気のせいに決まってる。
数秒。
時が止まったかのように、息すら忘れて見つめ合うけれど。
自分自身に気のせいだと言い聞かせて、再度視線を外し、どこともなく床を見つめた。
「…」
気のせいに、決まっている。
ベアリング卿がゲームの攻略対象キャラなのは、間違いないと思うし。
ただ偶然ここにいるだけの、特に大きな特徴もない私が。
こんなゲームの序盤も序盤のところで、彼に対して変なフラグを立てるわけがない。
珍しく二人だけしかいない部室には物音一つ立たず、何故か他のクラブからの声すら聞こえない室内は、キンと耳鳴りがするほどの静寂に包まれて。
息を吐く音すら聞こえてしまいそうで、ごくりと喉を立てて吐く息を飲み込む。
俯いて一度目を瞑ってから、このいやに重い空気を打ち消すために、努めて明るい声と表情を作って、もう一度彼の方を見た。
「そんな相手いませんよ!そもそも、だからみんな寄宿学校に通って、自己研鑽してるわけじゃないですか!」
変な空気なんてなかったように、なんでもないように、冗談にして笑いながら一息で言うと。
彼こそ、先程の冷たい視線なんて見間違いだったかのように、いつも通りの柔らかな表情をしていた。
「そう?ハーヴェイ嬢の性格的に、先生に手間をかけるのも嫌いそうだし――」
「自分に足りない時は、人の手を借りることも必要だと思いまして!今すぐ何かなくても、いずれ、卒業した後には、必要になることですから!」
軽い口調ながら確信を突いてくるので、良くないとわかってはいるけれど、慌てて話を遮って、思いついたままつらつらと言い訳を並べ立てる。
流石に頭が良い人は、他人の性格も分析できるのか、私のことをよくわかっていて嫌になる。
ただ、咄嗟に口をついた言葉の割には、理にかなっているのではないだろうか。
実際問題、今どうであるかはともかくとして、いずれ誰かと結婚すれば必要になるのは、本当のことだろうし。
勢いの発言を取り繕うように笑顔を向けると、ベアリング卿は少し遠い目をするようにして笑った。
「だれも、君にそんなことは、求めないと思うけどね」
今の会話の流れからは、瞬時には言われたことの意図が汲み取れず、少しの間、目を瞬かせて彼を見つめる。
「…もしかして私、バカにされてますか?」
思考が一周したところで、やはりそういう意味にしか捉えられなくて。敢えて、じとりとうろんげな目を向けて言う。
そんなことというのは、私に家庭的なことを求めていないということだろう。
確かに、苦手とまではいかないまでも、そこまで好きでも得意でもないけれども。
「まさか。ハーヴェイ嬢には、もっと君にしかないものが求められると思うってことだよ」
そんな私にベアリング卿は首を左右に振ると、ゆっくりとそう言って。
さっきの感情の見えない顔はなんだったのかと思うほど、なんでもないように、一層嘘くさいくらい綺麗に笑った。
「そう思われてるなら、買い被りですよ」
いつもと同じ話し方に戻っているように思える口調に、思うところはあれど。
先程の表情は、もしかして見間違いだったとか、変に気にし過ぎだっただけかもしれない、ということにして――そうでなければ困る――私も普通の会話に戻す。
それに。
現状がどうであれ、まだクラブを休ませてもらうことには変わりない。
よく考えたら、今日この時間さえ乗り切れば、どうせまたしばらく彼と話すこともないのだ。もし何かあったとして、時間が経てばどうとでもなるだろう。
変に気を張っていたせいで、なんだか疲れてしまった。
無意識に詰めていた息をこっそり吐き出して、肩を下げる。
「植物学を受ける貴族令嬢なんて、そうそういないからね」
なんて油断していたところに、また予想だにしていなかった言葉をかけられて固まる。
ベアリング卿とは今年はクラスの組み分けも違うので、私の選択授業について、知っているはずがない。
「双子がDクラスだから…たまに、君とエヴァンス卿の話を聞くって言っていたよ」
探るような視線を向けると、彼はなんてことないように言ったけれど。
Dクラスといえば、ルイーズと同じクラスだ。
彼女がクラスで上級生から、リアムの話を聞いたと言っていたということは。同じクラスなら、他の人に聞こえることも、あるということだろう。
全く想定外のところで繋がっていて、更にリアムだけでなく私の話も聞かれているとは、考えもしなかった。
――というか、リアムと私の話ってなに。ルイーズも、さっきそんなこと言っていなかったじゃない。
彼と出会ってしまったこと自体が予定外なのに、影響があり過ぎる。本当に、いい加減にして欲しい。
どういう話がされているのか、全くわからないけれど。
それだけに。
「…もしかして、私とリアムが同じ授業を選択しているから、何かあるのではとか、そういう話ですか?」
植物学の授業の話から、何故リアムの話が出てきたのかということと。
花嫁修行の相手ができたのでは、なんて聞かれたことと。
もしかして、そういう繋がりで出てきた話題なのかと気付いて、変に避けて聞きにくくなる前に、直球で尋ねる。
「随分と仲が良さそうだって聞いたけど、本当に親しいみたいだね」
ベアリング卿は特に否定もしないので、正解なのだろう。
「そんな…セオ――幼馴染みの、ウォルポール卿のお友達ということで、お話させてもらってるだけですよ」
とはいえ、付け加えられた言葉には同意し難いので、言い訳のように聞こえる事実を伝える。
私とセオが幼馴染みだということは、前に何かの時に話したことがあったような気がするけれど。彼がセオの名前を覚えているかはわからないと気付いて、苗字で言い直す。
「そうだね、僕もハーヴェイ嬢が名前で呼ぶ相手は、ウォルポール卿くらいかと思っていたから」
言われた瞬間、これは不味いと認識する。
この流れは良くない。
これまでリアムと出会った時、アイリスと出会った時にも感じた予感に、脳内でガンガンと警鐘が鳴っている。
自分でも流石に気付いているのだ。
会話の流れや、求められている答えへの圧を感じて、どうしても流されてしまう傾向があるということは。
――依梨の私が元々こういう性格だったのか、イライザの性格に寄ってきている今の私の特性なのか、最早自分でもわからないけれど。
どうにか話を食い止めようと、口を開いてみても。
「いえ、そんなことは…」
実際この夏季休暇まではその通りで、事実として何も否定できないのに、否定の言葉だけが出てきて、その先が続かない。
やはり、これも気のせいなのだろうか。
ベアリング卿の瞳が、先程と同じように濁っている気がするのは。
「特に親しい相手だからなのかと思っていたけど、そうじゃないんだよね?僕ともそれなりの間、仲良くしてくれていたんだと、思っていたんだけど」
――その前の話の流れがここに繋がってくると、誰が予想しただろう。
流石は乙女ゲームの攻略対象、人たらし的な言い方をする人だと思っていたのに。
今度は、気のせいだと思うことにしたはずの瞳で、同じように目を細めて、私のことを見つめてくる。
「そ、れはまあ…そうかもしれませんけど…」
曖昧に言葉を濁しながら、この後の話の流れを考える。
クラブを休み続けるとしても、こんなところでこれ以上、危ない橋を渡るべきではないと思う。
けれど、すぐ病む系の乙女ゲームのキャラにこんな濁った目を向けられて。果たして普通に、話を流して聞かなかったことにしてもらえるものなのか。
「けど?」
こんなの、どちらに転んでもリスクしかないじゃない。




